一章 輪をかけて(5)
「ほれ、貴様の分じゃ。せいぜいゆっくり飲んで、時間を無駄にしろ」
「あ、ありがとうございます」
楽器屋ではなく珈琲店の店主、小蔵さんは俺の前にコーヒーカップを置くと、先ほどの事を根に持っているのか皮肉めかして言った。陽菜には無言でコーヒーを提供した、まぁサングラス姿の彼女の対応に困った末のことだとは思う。
せいらさんにはコーヒーを提供するというより、久方ぶりに会った孫に自慢のコーヒーを振る舞うような様子だった。
「ありがとう、おじいちゃんっ」
「うむ」
せいらさんはこの店主と相対している時のみ、水を得た魚のよう――珈琲を得たせいら、になっている。
店内は外から見た時とは、さっき、ちょこっと入った時とはだいぶ印象が変わって見える。テーブルの席に座して店内を見てみると、存外趣があり、天井中央の釣りランプの灯が、この空間をノスタルジックに照らしている。
コーヒーカップに目を落とすと、まさにブラックコーヒー。時代に沿った、ラテアートが施されているわけでもない。だが、その水面に映る自分の顔がとても鮮明で、雑味など一切ないことを証明しているようだった。さらに、コーヒーの黒に照明の灯が混ざるとそのコントラストは、夕日が差し込む海のようで。むしろこの絶景の前には、店内にケバケバした飾りなど不要だということが実感できる。
「すごいわね」
陽菜が漏らしたその感想は店内のあちこちの、珍しい楽器たちに向けてのものだ。入り口側の窓の手前の棚に置かれたチューバをはじめ、バイオリン、トランペットなどのメジャーな楽器はもちろん、店内奥のコレクションラックには異国の楽器が並んでいる。
「あれは何?」
「どれ?」
尋ね返すと、陽菜はその楽器のもっともらしい特徴を挙げた。
「えーっと、あの、バイオリンの出来損ないみたいな」
「あれは確か……ニッケルハルパ、だったかな」
店内の楽器の中でも珍しいのが、スウェーデンの民族楽器であるニッケルハルパ。バイオリンと似たようなフォルムを持ち、下部中央にシャモジ、ネック部分に算盤があしらわれたような面白い外見をしている。陽菜の、出来損ない、は失礼極まるが。音は素人意見だと、バイオリンと大差ない。
「あ。あれはどこかで見たことあるかも、けっこう有名よね」
陽菜が親しげに指差すそれは、ともすれば目にする機会も多いだろう。
その、珍しさではニッケルハルパに譲るものの、派手だったなら中でも随一なのがバグパイプだ。キルトというスコットランドの伝統的な衣装を着て演奏する姿がとても印象強い。そして、「見て見て、男の人なのにスカート着てるよ」と東洋の子供たちなら誰もが疑問に思うであろう。楽器そのものは、布に包まれた臓物から大サイズのリコーダーが数本、飛び出ている、というのが俺の感想だ。仰々しい見た目だが、実に繊細でエスニックな音色を奏でる。
そして入り口の扉、入店を知らせる鈴もまたこだわりのある楽器だ。スレイベルいい、クリスマスによく聞く音だと言えば馴染み深いか。棒状のもので取り付けずらかろうに、工夫して見事に扉に取り付けられている。
「ほう。小僧、詳しいな。こういっものに、興味があると見える」
興味深げに、けれども気難しそうな表情は変えずに、小蔵さんが訊ねてきた。なので、得意のしどろもどろな物言いで返答してやる。
「ま、まぁ、そんな……ところです」
「なんじゃい、普段のせいらみたいな切り口上で喋りおって。店の外じゃえらく大層な口しとったじゃろうが」
いきなり核心的ことを突かれ、俺は少なからず動揺してしまった。小蔵さんから目線を外し、縋るように向かいの陽菜を見る。陽菜はやれやれと、小さく嘆息すると、サングラスを外してから、小蔵さんに会話を仕掛けていった。
「私たちバンドを組むんです。で、珍しい楽器がたくさんあるものだから、つい」
小蔵さんはジロリとこちらを見るとはっ、と小馬鹿にしたように噴き出す。俺、馬鹿にされてる?
俺の隣の空いた椅子にどっかりと腰掛け、足を組んで偉そうにしながら小蔵さんは言った。
「こんな細腕の童に、楽器などできるわけなかろう」
「う……」
またも核心的ことを突かれ、俺は少なからず動揺してしまった。誤魔化すようにコーヒーを口に含む。コーヒーのブラックな苦味が、小蔵さんのブラックなジョークが、俺にいい顔をさせてくれない。小蔵さんに見えない角度で渋面を晒した。
そんな苦々しい俺を、甘やかしてくれるのは、
「彼は上手いですよ。世界の大会で準優勝したくらいなんですから」
やはり陽菜だった。俺がその大会に出たのは、陽菜が東京に行ってしまった後のことなので、陽菜がそれを知っていたのは意外なことだった。
「ほう、世界大会とな。世界だか宇宙だか知らんが、どこぞの誰が決めたとも知らん基準などワシには関係ない。ワシが認めんことには世界も関係ない」
「そ、それは……」
おう……思った以上に頑固一徹なお爺さんらしい。陽菜もそのめちゃくちゃな論理に閉口してしまった。
この人は井の中の蛙なのか、むしろそれは俺なのか。この人と接していると判断を鈍らされる。
そんな中で、滔々と発言するのは、
「そんなことないよ、おじいちゃん。先輩の演奏、私見たからわかるもん」
なんと水を得た魚、コーヒーを得たせいらさんだった。俺と斜め向かいの席から、向かいの小蔵さんに意見を差し込んだ。
「そ、そんなのか? なら本物じゃわい」
すると、こうもあっさりと態度を改める小蔵さん。白い眉をハの字にし、目尻には笑い皺なんか寄せちゃってる。どうやらせいらさんには激甘らしい。
「そうだよ。さっきまでここを楽器屋と思ってたくらい、楽器好きなんだから」
せいらさんがいらぬ告げ口をした。
「そうか。ではさっき、入るやすぐに謝罪して出て行ったのは、楽器屋と勘違いして入ったからだったのか。すまんな小僧、ここは珈琲屋なんじゃ」
「あ、い、いえ……それは」
本当はあなたのその面が怖くて、冷やかしがバレたら殺されそうだったので即撤退しました、なんて言えない。
「それで、失礼ですが小蔵さんとせいらちゃんのご関係は?」
それそれ。陽菜がずっと気になっていたことを代表して訊ねてくれた。
「わ、ワシらか?」
なにやら返答を渋……っているように見える。せいらさんと小蔵さんは向かい合うと、困ったようにお互い顔を見合わせた。小蔵さんの方は若干気まずげで、何か訳がありそうな面持ちだった。まさか、援交相手ではあるまいな……。
せいらさんの方は純粋にその関係性を言語化するべく、思案顔になっていると思われる。
俺が憶測するに祖父と孫という関係性はない。仮にも木戸財閥の人間が、このようなおんぼろな屋根の下にいてはいけないと思う。店内にある楽器たちは確かに高そうだしそれなりの総額にはなりそうだが、祖父孫の間柄とは考えづらい。
だとすると、楽器仲間辺りが、妥当な気がするものだけど。こんなに年の差が激しい同好者があるものだろうか。
「えっと、私とおじいちゃんはコンクールで知り合った、お師匠さまと弟子、みたいな……関係です」
小蔵さんと話すよりも幾分かたどたどしい口調でせいらさんが言った。聞くに、せいらさんが小学校の高学年のころ、まだバイオリンを始めたばかりの頃に出場したコンクールで出会い、以来師弟のような関係を続けているのだという。もっとも、最近は、せいらさんも学業などで忙しいこともあってか、会うことはなかったそうなのだが。
「そういうお主らこそ、せいらとはどんな関係なのじゃ」
小蔵さんが話の腰を折るように質してきた。歳をとると腰が曲がってきちゃうものね。ならいっそ折ってやろう、って考えなのかしら?
「バンド仲間です」
陽菜が迷いなく言うと、やや遅れてせいらさんがふえ? と素っ頓狂な声を上げる。
前もって知っていただろうに、先ほどの課題といい、自意識がないのか自意識過剰なのかわからない性格をしているな。自分への否定的な意見は耳聡く反応すれど、それ以外の自分の事にはとことん無関心。それって矛盾してないだろうか。
「なるほど。せいらのバイオリンの腕に気づくとは、お主ら中々の慧眼よ」
小蔵さんが愛弟子を自慢するように言った。まぁ実際、愛弟子ではあるか。
故に、そんな小蔵さんに、その愛弟子を否定するかのような一言を言ってしまう陽菜は、怖いもの知らずだと思った。
「いえ、ベースで」