一章 ブルームーン(1)
水木明日香先生はしるしばかりに出席簿を開くと、する必要もない点呼を始めた。
「二年C組、深山那月クン」
我ながら変な名前だと思う。そして嫌な名前だ。
なんだ、那月って。女か。俺の女々しい容姿へのアイロニーだろうか?
この名前、この容姿を遺した両親を今一度恨めしく思ったが、その両親はもうこの世にはいない。
いわゆる、忘れ形見というやつなのだ俺は。
あの世で再会した折には「うらめしや」と実感を込めて言ってやることにしよう、そうしよう。
しかしまぁ、やっとこさ高校二年に進級したというのに、いきなり初日から出鼻をくじかれた思いだ。これでは、「はい、元気です!」などと返事する気にもなれない。
——閃いた。
代わりに、「はい、電気です!」とおちゃらけてみるのはどうだろう。この僅かな違いに水木先生は気づくだろうか?
そもそも、保健室登校者が俺ひとりしか存在しないという現状にあってわざわざ出欠を取らなければならない理由がわからない。
と返答を渋っていると、しびれを切らした水木先生は、語気をしたたかにして再度俺の名前を呼んだ。
女性といえども本気で怒れば性別など関係なく怖いもので、「はい、電気です」などとはまかり間違っても言える状況ではなくなっていた。下手したら雷が落ちるかもしれない。そんな乾燥しきった空気だ。落雷、静電気です!
俺は急かされるままに、しどろもどろに自分の心情を嘘偽りなく披露する。
「えーと。……その。雲ひとつない晴れやかな青空のようにブルーな心境、とかいう矛盾が生じる程度には情緒不安定です……、はい」
けして短くはない俺の発言を聞き終えて、しばしの間を置いてから水木先生は深く嘆息した。手に持つ出席簿を額にあてて、ひどい頭痛にでも耐えているみたいだ。
それは、俺の憂鬱を労ってのものか、それとも単に呆れているだけなのか、判断に難いものがあった。
でも水木先生は優しくて思慮深いからな。きっと、俺を気遣ってのことだろう。
「あー……。深山くん、自分が何言ってるかわかっているか……?」
「へ? ま、まあ……」
まったく伝わっていなかったらしい。俺の胸三寸が。
額面通りに戯言と捉えるのが一般教員、水木先生こそはこの秀逸なアレゴリーに気づいてくれると踏んでいたのだが。
……一般教員にも勝る塩対応。そして水木先生は、声を荒げて俺を難詰する。
「これでは昨年度と、何も変わっていないじゃないか! そもそもここにはもう来ないと約束もしたな! どういうことなんだこれは⁉︎」
水木先生の雷のような物言いに、そして、俺の気持ちが理解されていなかったという現実に傷つく。
もはや一般生徒と同じ目線をたもつのも申し訳なく、しゅんと頭をたれる俺。急に頭を傾けると、不意に鼻水がこみ上げてきて、反射的にずずっと啜って飲み込んだ。
水木先生の怒りには何の無理もない。約束を違えれば、そりゃ誰でも怒るよな。
すると俺の落ち込みを猛省と見てか、水木先生が慌ててフォローを入れてくれる。
「ま、まあ、登校してきただけでも御の字、かな? だから泣くなよ深山クン。本当に。……先生困っちゃうから!」
泣いてはいないはずだったのだが、ぬぐった手には確かに雫があった。どれだけ女々しいの俺。泣き顔を晒さぬよう、ブレザーの裾で眼をごしごしと擦り付けてから顔を上げる。
「なんだか泣き腫らした眼だな」と水木先生が指摘した。強くごしごししたのが裏目に出たらしい。
そのとき。備え付けのスピーカーから始業のチャイムが鳴り響いた。
今頃ほかの生徒は始業式を終えて、各教室に引き返している頃だろう。そして日常が、再開されるのだ。
水木先生は軽く咳払いを入れると、気遣わしげにホームルームを再開する。とはいえ点呼はこれにて終了。この保健室クラスは俺一人しか生徒が存在しないからだ。
なんなら登校して保健室に入って、朝の挨拶代りに「ちっす、元気ー?」「んー、ちょべりぐ?」的な言葉を交わすだけでも、じゅうぶん点呼の用をなしてしまう気がしなくはない。
ともあれ、後は事務的な連絡を受けてホームルームノートなる物にその内容を書き留めるなどして、次の始業チャイムをのんびりと待つだけ。
なのだが——。
「センセー。階段で転んだー。バンソーコーちょーだいー」
今日は違った。
まるで覇気がない、だるく低迷した声がドア一枚隔てた廊下側から聞こえたかと思うと、間髪いれずにドアが開け放され、ひとりの女生が左足を引きずるようにして入室してきた。
活発そうな外見とは裏腹に気だるげな口調の彼女には、覚えがあった。たしか一年のときに同じクラスだった大島さん、という名前だったよう記憶している。
一度だに話したことがないが、一目して苦手なタイプであることは間違いない。
故に、それに気づいてからの俺の対処は早かった。
お通夜さながらに顔を俯けて、ひたすら存在感を殺す。
大島さんが手当を終えて部屋を出ていくまでの間を無呼吸で過ごすことも辞さない覚悟をもって、俺はここに居ながらにして居ないよう振る舞う。それが、長きにわたる保健室登校生活で俺がものにした処世術だった。
幸い、俺の席は大島さんの方からは視覚的にも見えづらい位置にある。
水木先生は俺を気遣ってか、つっと大島さんの所へと移動する。見えづらいとは言え、俺の存在を見咎められるリスクを少しでも除こうというのだろう。
「ふむ、ではそこに座って待っていたまえ」
水木先生は入り口に設えられた椅子に大島さんを座らせると、薬品棚や寝具があるこちらに立ち寄る。
「どーでもいいけどー、なんで保健室なのに四階にあるのー? 疲れたんですけどー」
「はっはっはっ、それはだな」
大島さんと閑談しながら水木先生は薬品棚を漁っていた。しばらくして消毒液、ガーゼ、ピンセット、絆創膏を手に大島さんのもとへと戻って行く。さきほどの大島さんの質問には答えずに。その疑問だけを残していった。
いつの間にか水木先生の白衣からは皺が消えていて、その風采は、ようやく医者のそれっぽくなっていた。白衣を着替えたのだろうか。
ただ惜しむらくは水木先生の髪。医者はもとより、教師だてらに、鮮やかに輝く銀髪であることだろう。
と。入り口のほうを盗み見ると、大島さんは長椅子にだらしなく腰掛け、患部を水木先生の裁量に預けて、手元は踊るように携帯を弄っていた。時折、水木先生の話に気のない返事をする。
どうやら俺の存在には、まったく気づいていないようである。
ちなみに大島さんも、水木先生ほどではないにしろやや明るめの茶髪で、その毛先が陽の光を受けて一段と華やいでいる。
学校の制服との色合いも思いのほかグッドだ。
ブレザーこそは、ギャルを愛くるしく見せる魔法の衣服だと思っている。
無論、清純な女生がブレザーを着用するのはなお結構。しかし、ギャルがセーラー服を着ることだけは、どうにも腹に落ちない。
——スケバンとの結びつきが強く残っている故だろうか。かつて、セーラー服のギャルに絡まれたことがあればこそだろうか。とにかく勘弁なのだ。
本校のブレザーは、大概の学校がそうであるように紺色が基調で、指定の白ワイシャツと学年ごとに異なる色のネクタイ、リボンの着用が規則とされている。一年生が青、二年生が緑、三年生が赤といった具合だ。
大島さんは、どちらかと言えばギャル系だが、ひょっとするとセーラー服姿も様になるかもしれない。怖い、ということは変わりないし、俺にとってはそもそも人間が怖いけれど。
と、大島さんが携帯に夢中なのをいいことに左見右見してしまったが、そろそろ視線を外したほうが良さそうだ。ここで存在を気取られれば、気まずいなんてものじゃないのだから。
だが、じっと俯いているというのも首が疲れるものだ。
そして、大島さんは手当てを終えたらすぐに退室するとばかり思っていたのだが、なかなかどうして出て行く気配がない。
であれば、いっそのこと机に突っ伏して寝てしまおうかという気にもなる。
そうだな、そうすることにしよう。そんな声が、微睡みの入り口から聞こえた気がした。
くいっと、欠伸まじりに伸びをして、机に伏す間際にふと窓の外に目をやる。その一面に、壮大な青が広がっていた。吸い込まれそうな青空だ。
青——それは、晴れやかで、だが同時に憂鬱の色でもある。
毎週日曜の夕方に放送されている長寿アニメがあるが、それと同じようなものだ。この放送時間になると喜ぶ者もあれば、この放送に見る明日からの通勤、通学を憂う者もまた、確実に存在する。サ○エさん症候群と病名にもなるほどだ。
表があれば裏があるように。平和があれば不和があるように。光があれば、闇があるのは世の理である。およそ、それらによって、世界はかろうじて均衡を保っているのだ。
悪があるから善を知れるようなもので。
世界は、悪を排そうとしているが、つまるところ悪なくして世界は安寧たり得ないのかもしれない。
青空を見るにつけて、そんな愚にもつかないことを俺は考えるようになった。
太陽が、遠くなったあの日から。
俺の心が晴れを失った、あの日から。