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バンドルの箱  作者: 篝レオ aka 篝レイ
深山那月編
28/64

四章 one weak friend(10)

 風呂から上がり、メイクでもって完璧に月宮マナに扮すると、改めて拓篤のほうを振り返る。月宮マナとして拓篤を見据えた。


「拓篤さま」


 拓篤は息を呑んだ。まあ、女の格好して、急に声色と口調を変えたら驚くのも無理はないか。


「な、なんだ?」


 どきまぎしながら拓篤は、俺の問い掛けに浮ついた声を返した。視線が定まっておらず、俺の顔を真っ直ぐに捉えたと思えば、右に逸れたり左に逸れたりと落ち着きがない。


「明日、一緒に施設に帰るまでは私はあくまで月宮マナで、メイドってことで。拓篤も私のこと、ちゃんと女として見てくださいね?」

「お前を女として見ろってことは、つまりセクハラしろってことか?」

「どうしてそうなっちゃいます?」


 ひどく振るった理屈だな。拓篤が動揺しすぎて何言っているのかわからない。


「いや、女性として見ろ、って言われりゃそうなるだろ」

「どこのガースさん⁉︎」


 その名前が出ると、拓篤は眉根を寄せて不機嫌な面持ちになった。


「あのナンパ野郎と一緒にすんなよ……」


 ナンパ野郎か。クレイジーな野郎、と言われたりナンパ野郎、と言い返したりと大変だな。


「そういえば、ガースさんがどこにいるか知りませんか? ずっと探してて、森にもいなかったし……」


 ガースさんは本当、どこにいるんだろう。すると拓篤があっさりと教えてくれた。


「あぁ、あいつな、酒蔵の樽の中で爆睡してやがったぞ。浴びるほど呑んでてそのまま寝落ち、ってパターンだな」

「か、かっこいい……」


 樽の中で寝るとは、下手したら酒に溺れて死ぬかもしれないというのに。アルコールジャンキーのガースにとっては本望か。

 こう字面で見てみるとアル中とか、スラム街でうらぶれる駄目な大人感がすごく伝わってくる。つまり、ロックだ。ずぶロックだ。


「お前まさかあのナンパ野郎に、惚れてんじゃねぇだろうな?」


 この質問、初日にガースさんからも言われたような気がする。


「馬鹿じゃありませんか? もし私が女だったら、拓篤の方が断然好きですし」


 隠さず本音を言う。拓篤が好きというか、ガースさんの印象が最悪というのもあるが。


「そ、そうか! お、俺の方が好きか! わ、わかってるじゃねぇか……!」


 言って、酔ったガースさんばりに顔を赤くする拓篤。拓篤の場合、自分に酔っているのだろう。

 洗面所を出がけ、姿見でチェックをして、拓篤にもチェックしてもらう。


「どこか変じゃないですか? 大丈夫ですか?」


 すると拓篤は視線をわざとらしく外して、面倒くさそうに呟く。


「し、知らねえよ……!」


 素直にはなれない拓篤だった。


「んなことより、よくもまぁ……そんな格好できたもんだな。そういうの、嫌じゃなかったのかよ?」


 苦しまぎれに拓篤が、俺の女装を指して憐憫にも適った言説を向けてきた。


「そんなこと、ないです」


 は? と拓篤が意外そうな顔をする。

 そりゃそうだ。俺だって嫌だった。誰が好きこのんで女装なんてするものか。女に見られること、女として扱われることを最も唾棄していた俺が、なぜ女装なんてするのか。

 女装をしなければならないと思った理由とは、何なのか。


「だって、どうしても拓篤さまに帰ってきてほしかったから」


 拓篤は、俺の言葉に酔って頰を赤らめた。


  ◇◆◇


 月宮マナの壮行会。その、宴もたけなわといった頃、拓篤が立ち上がりいざ切り出した。


「俺やっぱ、施設に帰ります!」


 その言葉に座が白けた。

 普段は席を共にすることのないはずの執事さんやガースさんが同席しているというのに、いつにも増して場が静まり返っていた。

 旦那さまが手に持ったグラスをテーブルに置くと、微かに音を立てる。赤黒い液体がグラスの中で小さく波を立てた。


「それは、どういうことかね?」


 旦那さまが静かに訊ねる。

 アルコールを多分に含んで顔は紅潮しているが、俺の向かいに座るガースさんのように酒に呑まれているわけではない。主としての威厳は健在だった。憤っているわけではない。真剣な面持ち、声音だった。

 しかし、拓篤の面持ちも決意に満ちている。確固として意思を曲げるつもりはないようだった。

 拓篤の要求、それは離縁を意味する。

 通常、養子縁組の離縁は、おいそれとできるようなものではない。いくつかの条件を満たしていることを前提に、然るべき期間を経て、法定代理人の仲立ちのもとに成立するものなのである。

 ただし十五歳以上である、拓篤はその限りではない。例外的処置として協議離縁というものが適応され得る。これは、当事者同士で決落することができる措置であり、順当に行けば明日にでも、拓篤は施設に戻ることが許されるものだ。

 旦那さまもそれは理解しているのだろう。だから頭ごなしには反対しない。でも、安んじることもしない。

 執事さんは、気遣わしげに両者を眺めている。

 俺が拓篤に視線を向けると、目が合った。心強く見つめ返される。大丈夫だ、と言われているような気がした。そして拓篤の決意の眼差しは、再び旦那さまのほうへ向けられる。


「そこにいる月宮マナですが、実は俺の妹なんです」


 一同の視線が俺に突き刺さる。驚愕の事実を知ったような顔をする者が殆どだった。

 特にガースさん。その事実を聞くや「俺は認めない」と呟き、なみなみと注がれたワイングラスを空にした。

 そんな中、旦那さまは想定済みだったのか、冷静に拓篤の言葉の続きを待っている。


「さっきこいつに、帰ってきてほしいと頼まれました。俺は、自分の将来を大切にしたい。でも、こいつと歩んでく将来が見えたから。今まで見えなかったけど、見えたから」

「ほう」


 拓篤の取ってつけたような言い分に旦那さまはあからさまに感心を示した。品定めするような視線で旦那さまが俺を見る。俺に見つめ返すだけの勇気はなく、反射的に俯いて視線をそらしてしまった。

 ふっ、と呆れたように旦那さまが口を開く。


「つまり妹のために、自分の確実な未来を捨てると?」


 意地悪なのか、その言葉にはややアイロニーを孕んでいた。当事者なのに、私と目も合わせられないような妹のために、お前は確実な未来を手放すのか、というニュアンスが感じられる。

 俺は自分が情けなくなる。俺が項垂れていると、その情けない妹を庇うようにして拓篤が声を張り上げた。


「妹が俺を愛してくれている、それこそが俺の確実な未来だ」


 拓篤のその言葉は勢いだけでなく、筋もしっかり通っていた。

 妹とか妹とか、言葉の端に怪しいものはあったものの、思いの丈は伝わったことだろう。

 旦那さまはそれを笑い飛ばすことなく、ふと思案顔になった。

 再び場がしんとなる。

 静寂は嫌いじゃないし寧ろ好きなほうなのだが、こういった人為的なものには耐えかねるものがあった。


「私は」


 静寂を破ったのは、旦那さまの穏やかな声。


「私には見ての通り、家族というものがいない。だから拓篤が言うことに、共感もできないし賛成もできない」


 旦那さまの否定的な発言に、拓篤の表情が陰る。が、旦那さまの話は続く。


「しかし、だからこそ否定もできない」


 家族を知らないが故に、賛成はできない。しかし、それを知らないが故に反対もできない。

 事の重要性を知らない者に、拓篤の意見を無下にすることはできない。

 旦那さまはこれまで、誰に頼ることなくずっと、一人で生きてきたのだろう。

 この大きなテーブルも、一人で使ってきたのだろう。その光景には、俺も覚えがあった——保健室の大きな机だ。

 その侘しさならば俺もよく知っている。だからこそ旦那さまの気持ちが、わかるのだ。

 一人では寂しいから、養子を取り、使用人を抱え、生活を潤したのだろう。

 そんな深遠な意図が、感慨が、旦那さまの表情、一言から滲み出ていた。


「拓篤の人生だ、好きにするといい」

「じゃあ!」


 拓篤の表情が明るくなる。

 旦那さまは、複雑な笑みでもってそれを後押しする。ふっ、と小さくため息をつくとまるで憑き物が落ちたように、清々しい表情を浮かべた。


「そもそもわたしがこの壮行会を開いたのは拓篤、お前と月宮さんとの仲を取り持つためだったのだよ。それが蓋を開けてみれば、兄妹だったとは。いやはや、よくもまぁ色んな人を巻き込んでくれれたものだ」


 旦那さまは口端を持ち上げ、表情を快活なそれに変えた。

 拓篤は照れ臭そうにそっぽを向き、執事さんはその様子を麗しげに眺めている。

 ガースさんは完全に酔い潰れていて、「マナお前、俺との結婚はどうなった!」と繰り言を呟いている。

 しばし、俺と拓篤は旦那さまの酒の肴として、しきりに取り沙汰されるのだった。


  ◇◆◇


 日にちが変わって間もない頃。

 良い子はベッドに身を預け、黒甜郷へと夢を遊ばせる時間。

 俺は旦那さまに呼び出しを受け、彼の自室へ赴いた。そして部屋の扉を前に、いつ扉を叩くか、そのタイミングを図っている。

 良い子は寝る時間に呼び出される理由、それがわからない俺ではない。悪い子だから寝させてもらえないのだ。つまり、説教が理由であることは明白。それが分かっているから、こうして扉の前でまごついているわけで。

 扉の向こうは、とても静かだ。まるで俺のノックを、てぐすね引いて待っているようだった。

 7度目くらいだろうか。俺は右のてのひらをぐっと握りしめ、そっと胸のあたりまで持っていき、決意を固めて、その拳を扉に近づける。

 これをして、ふと、今年度はじめの出来事を思い出す。あのときも結局教室に入れずに、保健室へ逃げ帰ったんだっけ。

 そんな自分を、いま変えたい。という思いがないわけではない。しかし、だからといって恐怖が消えるわけでもない。その差し引きが出来ない。故に、こうしている。少なくとも6回は断念した。

 だが、7度目の今回は今までよりも一番、拳を扉に近づけられている。距離にして、数センチ。

 あとほんの少しの勇気があれば、数センチの勇気があれば、俺は変われる。そうに違いなかった。

 それだというのに、拳は相変わらずある一定の距離を保っている。数センチの臆病だった。

 そのとき。


「やぁ、月宮さん」


 後ろから突然声がかかり、俺の身体がびくんと震えた。その拍子に。

 こつん、俺の拳が扉をノックした。

 後ろにまします誰かが、からからと笑いを漏らす。


「ノックしても誰もいないぞ。部屋の主は、君の後ろにいるのだからな」


 結局俺は、誰かの後押しがなければ前に進めないのかもしれない。旦那さまに肩をぽんと叩かれ、俺は扉を開いて部屋の中へと進みでる。

 旦那さまに促され例のソファに着席、感動の再会を果たす。ふわふわのもっふもふ。にやける俺を見て旦那さまは安堵めいた笑みをこぼした。

 そして雰囲気の一定化を期してか、CDのコンポを起動。アンビエントミュージックにクラシックの楽曲が流れ始めた。


「座っていたまえ」


 そう言い残し、旦那さまは奥の書架へと近づいていく。下段の左端の本を数冊、取り出すと、その空いたところには、照明の光を受けてぎらりと輝くものがあった。旦那さまがその輝くものを掴んで取り出すと、それは酒類のビンだった。黒光りするボトルに、ネック部はワインレッド。年代物なのか、羊皮紙めいたそのラベルにはロマネ・コンティとある。


「高価そうなお酒ですね」


 そう直截に言うと、旦那さまは苦笑した。しながらボトルと、その脇に置かれたグラスを持ってこちらに戻ってくる。取り出した本はうちやったままだ。

 ソファ前の、ガラステーブルにボトルとグラスが置かれるとちん、と乾杯にも似た音をたてる。その玲瓏な音色に心を奪われそうになっている間に、旦那さまは俺の隣に腰を下ろした。


「一千万したワインなんだ」

「一千万、ですか……」


 なんだか聞き覚えのある単位だな。思わず、ばつが悪くなってしまうような単位だ。引きつった笑みを旦那に向ける。

 すると値段を明かした旦那さまも、俺と同じようにばつが悪そうな苦笑をしている。

 一千万の酒だ。その値段に恥じぬドヤ顔を披露してもおかしくないだろうに、まるで恥部を晒されたような表情だった。

 不思議に思って旦那さまをじっと眺めていると、こほんと咳払い。旦那さまは、グラスに数センチほどワインを注ぎ、ちびりと舌で舐める程度に嗜む。そして、ちびりと言葉を小出しにした。


「この酒は、若いころに買ったのだが、当時の年収とほぼ同額でね、決断には数日を要したよ」

「数日考えて、買えちゃうんですね」


 これは皮肉でもなんでもない。俺が一生悩んでも無駄にできないであろう一千万という金額を、彼は数日間考えるだけで済むのだという、いわば畏れだ。


「まぁ、夢だったのだからな」

「夢?」


 世界一のワインを飲むのが夢とは、豪奢な夢だ。世界一周旅行や宇宙旅行なんかとは、また違った趣の。


「子供ができたら、一緒に飲みたかったのだ」


 子供ができたら——つまり、拓篤と一緒に飲みたかった。そういうことだろうか。その機会を奪ったのはつまり俺なわけで、つまり罪悪感を禁じ得ない。


「そ、そうなんですか」


 しかし、謝るのもなんだか変だと思った。なので、このように曖昧な相づちになる。それに、旦那さまも俺に謝ってほしいわけではないのだろう。

 ただ、言うに言われぬその感情を、拓篤の前で見せるわけにはいかなくて、こうして妹である俺に明かし、ひいては俺の覚悟を量っているのだろう。君には拓篤の未来を奪う覚悟があるのか、私の夢を奪う覚悟があるのかと。


「もう私の夢は叶いそうにないから、月宮さんが私の酌に付き合ってくれるね?」


 旦那さまは今日でこれを飲み干し、自分の夢を飲み込んでしまおうと言うのだろう。

 だから俺も未成年だから、という言い訳は飲み込むことにした。


「かしこまりました」


 旦那さまがグラスにワインを継ぎ足すと、ほんのり饐えた臭いというか、およそワインならざる臭いが部屋に満ちる。酒蔵のときの嫌悪感とはまた違うが、一種の嫌悪感には違いない。

 グラスは一つのみで、おそらく共用なのだろう。


「じゃ、いただこうか」

「はい」


 二人で、一口ずつ呑み回し、徐々にボトルを消化していく。ボトルが半分ほどまで達した頃には、寡黙な旦那もすっかり饒舌に出来上がり、言葉の節々に嗚咽じみたものが混ざりはじめていた。もとより夕食時に飲んでいたのだから、迎え酒としては上々の仕上がりだ。

 俺は流れで、負けじと飲み続けているわけだが、まだ酔っている自覚はない。何気に人生初のアルコールだった。

 味の感想としては、ずっと思い描いていた大人の魅力というよりは、自らの晩年をも達観させるかの如き渋み。有り体に言うなら、ひたすら苦杯を嘗めているような感じ。一言でいうと不味い。

 故に、酔う感覚はないが、アルコール度数はそれなりにあるので、確実に酔うのだろう。


「旦那さまは結婚して、子供を作ろうとは思わないんですか?」


 ずっと疑問だったそれを、俺はふたり酔やらぬ、このタイミングで訊ねてみることにした。旦那さまもそれに言及するつもりだったのだろう、訝ることなく答えてくれる。


「学生の時分、ある友人と約束してな。結婚せず、一緒に孤児院をやろうと」

「孤児院、ですか?」

「ああ。だが決意半ばに、その友人と袂を分かつことになって、私はこうして建築士という門違いなことをしているわけだが」


 彼が、孤児院を営もうとしていたというのは意外な話だった。


「ちなみにその、原因というのは?」


 不躾にも訊ねてしまう。


「その友人は、博愛主義者でな。良く言えば情に厚く、悪く言えば向こう見ずで無鉄砲で節操の無い馬鹿だった」


 悪口のほうが三倍増しに多いな。

 聞くところによるとその友人は、困っている人を放っておけない人で、親無しならば何人たりとも救おうとしてしまうタイプだったらしい。

 対して旦那さまは、孤児院に掛かる費用、自分たちのキャパシティ、それで賄えるだけの人数などを計画的にシミュレートした上で、実行するタイプだった。なるほど旦那さまらしい、建設的な考えだ。

 その相対する二人が共に一つのことをしようとすれば、どちらかの意見が犠牲になることは必定だ。両立はなく、あるいは両方とも犠牲になりかねない。


「そんなわけで彼は彼の思うまま孤児院を設立し、私は私にできる範囲で、職に就いて、養子をもって初志を果たそうと思ったのだ」


 人を育てるということ、それに対する自分のキャパシティ、その結果、拓篤を養子にとった。その決意の表れが、このワインなのだそうだ。


「旦那さまのこと、尊敬します」


 打算的と言えば聞こえは悪いが、それは、自分のできる範囲で確実に子供を幸せにしたいという証左。

 だがその友人も、向こう見ずで無鉄砲で節操なしと言えば聞こえは悪いが、それは、あまねく子供を幸せにしたいという左証。

 真逆の二人だが、根本は一緒なのだ。


「ありがとう」


 旦那さまが報われたような面持ちで礼を言った。その優しげな表情に俺も、報われた気がした。


「でもその彼、馬鹿って言うほどでもない気がするのですが……」


 俺が意見を差し込むと、


「いや馬鹿だ。私に結婚しよう、と告白してきたのだからな」


 とんでもない理由だった。そして、節操無しの真の意味がわかった気がした。

 彼、ってことは男だよな? 男が、男に求婚したってことだよな? その人、今も孤児院を営んでいるんだよな?


「ちなみにその友人というのは……」

「名を、黒先白行という。シラユキといっても、正真正銘、男だ。そう言えば君は、拓篤の妹御だったか。では、君の義父にあたるか黒先は」


 やはりだった。

 俺はようやく見つけた同志の手を取り、ぎゅっと握る。旦那さまが驚いて、俺の顔と握られた手とを交互に見た。

 ようやく見つけた同志。同性に本気で告白されるという酷薄な経験を持つ旦那さまに、酔いもあってか興奮気味に告白する。


「わたしっ旦那さまと、すっごく気が合う気がしますっ!」

「お、お?」


 旦那さまが、酔いが醒めるくらいに驚いた。



 そして、丑の刻。

 俺は意識ははっきりしているものの、酔いなのか眠気なのか、目がとろんとしている。旦那さまは、頰や耳が紅潮しているとは言えまだまだきりきりしている。

 ワインは残すところ、あと一口ずつといった案配になった。これを飲み終えれば、旦那さまの夢は果てる。ベッドに潜れば、それは夢に溶けていく。

 だから、飲み干せない。ボトルには少量しか入っていないというのに、完飲はすぐそこなのに、飲めないことはないのに。二人にして、手を動かせない。


「月宮さん、付き合ってくれて、本当にありがとう」


 ふと旦那さまが言った。俺は少し酔いの回る頭でじっくりと考えて、掛ける言葉をまとめる。そして、


「これ、飲むのやめませんか?」


 そう提案する。


「それは……、それでは私の未練が……」


 それは、未練を残したままにするということ。旦那さまも、もう歳が歳だ。新たに子供を引き取ることも、ましてや結婚して子供を作ることなど、不可能にも近い。

 だからこそ涙を飲んで、残りのワインを飲んで、望みも、飲み込んでしまいたいのだろう。

 そんな彼に、告げる。


「私また、ここに来たくなっちゃったので」

「え?」


 旦那さまが——同志が、驚いて目を丸くする。


「私がまた来た時に、一緒にこのボトルを空けましょう」


 旦那さまはもう涙を飲まない。

 本来そうあるべきことのように、涙を流した。


「ありがとう、マナ」


 次に俺が来た時にはこの少量のボトルに加えて新たにもう一本、ワインが追加されていることだろう。


お酒は二十歳になってから

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