四章 one weak friend(6)
六日目の朝になった。
いきなり六日目に飛んだのは、何も俺の記憶が飛んだからではない、飛ばしても差し支えないくらい何も無かっただけのことだ。
拓篤に頬を打たれてから今日まで四日間、俺は拓篤とまともに顔を合わせていない。そして誤解なのだと、弁解する余地すらない。それは、五年前の出来事と、なんら変わらない。
深山那月としてだけでなく、月宮マナとしても嫌われてしまったということだ。かくて、歴史は繰り返されるのか。
唯一違っていることは、膝の痣とは違い、初日の頬の腫れはもうすっかり退いていることくらいか。
ともかく、無為に消化した四日を惜しみながら俺は仕事着に着替え、自分の寝床周りを整頓する。
先ごろから着ている支給品のヴィクトリアン・メイド服は、その構造上いくらかサイズがゆったりとしていて余裕がある。俺の心境近況とは裏腹に。
期限は明日に差し迫っている。明日の夕刻には、拓篤の退学が本決まりになってしまう。
「むにゃ……ぐぇへへ」
隣のベッドからガースさんの寝言が聞こえてきた。また、背後から抱きつかれるような気がして自然と身構えてしまう。
壁に掛けられた時計を見ると時刻は午前四時三十分。二度寝すら考えてしまうような早朝だが、使用人業においては遅刻だ。
「朝ですよガースさん、起きてください」
ガースさんが横たわるベッドの元に寄り、布団を取っ払った。やや細身ながらも締まった身体つきが、バスローブの上からも見て取れる。まったく、その体格が羨ましいよ。
ガースさんは、起きる様子をまったく見せないので、今度はガースさんの間近に身を寄せ彼を覆うようにして身体を揺すった。
「遅刻ですよガースさん! 早くしてください!」
するとぐわっ、と反射的にガースさんの両腕が伸びる。それは狙い澄ましたように俺の胸元の膨らみを鷲掴みにした。
「……ぐっ‼︎」
俺は恥ずかしさや悔しさより涌き出でる力を、全て右拳に込めた。そして、打楽器で培った柔靭なるストロークの原理をもってガースさんの顔面に拳を打ち下ろす。
「ぎゃあああああ‼︎ 目がああああ——‼︎」
ガースさんは妙ちきりんな絶叫をあげると、再び沈黙した。もう一生寝ていればいいのだ、彼は。
俺は急ぎ足で部屋を出て、階段まで全力疾走。階段を一段飛ばしに降りながら、先ほどガースさんのせいで乱れてしまった胸を整えていく。
「おはよう、月宮さん」
階段の中ほどで後ろから、朝の挨拶でもって呼びかけられた。今していた怪しい挙動をやめて、足を止めてそちらを振り返る。そして笑顔で挨拶を返す。
「おはようございます、旦那さま」
ここの主でありながら、早めの起床である旦那さまは今日もお髭が立派でいらっしゃる。もう着替えたのか、それともいつもその格好なのか、旦那さまは上着を省いたスーツ姿で、ワイシャツには一点の皺もない。出来る男の、ロールモデルだ。
旦那さまは、俺の全身を一望すると満足げに言う。
「うむ、このところはちゃんとした身だしなみを心掛けているようだね」
あぁ、そういえば初日は、その件で窘められたのだった。
「はい、その節は大変失礼いたしました」
「いや、あの格好もとても可愛かったとは思うのだが、勤めの衣装としてはいささか露出が過ぎると思ってな」
「は、はい。気をつけます……」
まぁ、そもそもあれはメイド服じゃなくて、アリスの衣装なんですけどね。明日を最後に一生着ることはないだろうけど。
「そうだ」
と、何か思い出したように旦那さまが口を開く。
「月宮さんは明日までが雇用期間だったかな?」
「はい」
旦那さまは不審に思わないだろうか。拓篤の退学決定までの一週間、それに合わせるようにしての俺の一週間雇用。察しが良ければ、何か気づくものがありそうだけど。
「ならば今夜は、壮行会でも設けるとしよう」
「いえいえ! そんな恐れ多い!」
俺は丁重にお断りする。
いくらなんでも申し訳なさすぎる。一週間しか奉公していない上、主のひとりには会わせる顔も持たない身だ。
旦那さまはそんな俺を見て、はばからわしげに切り出した。
「でないと、義息子とは不仲のうちにお別れになってしまうのではないか?」
「え? ……どうして、それを?」
旦那さまは何故か、知っていたのだ。俺と拓篤の関係が、思わしくないことを。
「隣の書斎にいれば、二人の会話も自然と耳に入ってこようて」
「う……」
この人、気が利いているのか否か、いまいち分かりかねる性格をしていらっしゃる。
「であれば仲直りの機会が、必要であろう?」
これも旦那さまの気遣いなのだろう。俺には断る理由がない。
「そういうことでしたら、お言葉に甘えさせていただきます」
言うと旦那さまはさきほどよりも、満足げに頷いた。
狭い階段で長々としゃべっていたようで、いつの間にか後ろにはガースさんが立ち往生していた。俺たちの立ち話が邪魔で階段を通れなかったのだろう。
「え、なに。マナ、明日で辞めるのか?」
けれども俺たちの邪魔っ気を責めることはなく、寝ぼけ眼をごしごしと擦りながらガースさんは、拍子抜けしたように訊ねてきた。どうやら会話を少し、盗み聞かれていたようだった。
「そうですけど、それがなにか?」
さも当然のように俺が答えると、ガースさんは目を丸くする。どうやら寝耳に水だったらしい。
「え……なんで……ちょ……俺との結婚は……え?」
と、壊れたからくり人形のようにくだを巻きだした。
そこへ旦那さまが仲裁に入る。
「もうだいぶ時間が経ってしまった。皆も急ごう」
旦那さまの腕時計を三人で頭を突き合わせて見ると、就業時刻を数十分も過ぎていた。完全なる遅刻である。
「げ、旦那とマナに付き合ってたらこんな時間になっちまった!」
さしものガースさんも焦りを禁じ得ないようだ。ていうか、もとよりアンタは遅刻確定だっただろ。とんだ責任転嫁である。まかり間違ってもこの人の嫁にだけはなりたくない。
三人して駆け足で階段を降り、旦那さまは洗面所に、俺とガースさんは厨房へとそれぞれ急ぐ。
全速で厨房までたどり着き、閉じられた扉を前にする。扉の向こうから執事さんの、包丁がまな板を乱暴に叩く音が聞こえてきた。
確実に怒っていることが、いやでも理解できる。
「すんません! 寝ぼうしました!」
鈍ちんのガースさんが考えなしに、厨房の扉を勢いよく開いて中に入っていった。が早いか、あの執事さんからは想像もできないような怒号がガースさんを迎え撃った。怖すぎる……。
扉の前に残された俺はというと、恐怖に足がすくんでいた。次は俺が怒号を受ける番かと思うと足がまったく動かない。やばい、誰かに転嫁したい。誰か、娶って……。
「月宮さん」
ふと名前を呼ばれた。一瞬心臓が潰れるかと思ったが、その声は厨房からではなく後ろからのものだった。
「だ、旦那さま?」
通路の角から旦那さまが顔を覗かせて、こちらを手招きをしていた。俺はそれを救いの手と見て、足早にそちらに向かう。
「すまないが、髪にポマードを塗るのを手伝ってくれないかな?」
俺を洗面所まで呼び寄せて、訳もわからない俺に旦那さまはジェル状のものが入った容器を差し出した。
「これを、ですか?」
受け取り、蓋を開けて中身を確かめてみる。当たり前だが整髪料のよい香りがした。
「そうだ。わたしはどうも、こういったものに疎くてな」
「わたしもこういうのは苦手なのですが……」
生まれてこのかたワックスなんて使ったことがないし、それに俺の頭に乗っているのはカツラである。これは髪の手入れを放棄した人、あるいは泣く泣くそれを諦める他ない人が使うものだ。もっとも俺は前者であって、決して後者ではないことをここに主張しておく。
「全体にわたって、適当に塗るだけでいいんだ。後は私が櫛で七、三に分けていく」
「はぁ、わかりました」
一応、やるだけはやってみることにする。とはいえ旦那さま一人でやったほうが、間違いなく効率がいいだろうし完成度も上がることだろう。
そんな疑惑をおくびにも出さず、俺はみずからの手にジェル状のものを手に塗りたくった。粘っとした感覚がすこぶる気持ち悪い。
「では、失礼します……」
しっかりと指の間にもジェルを馴染ませてから旦那さまの髪を手ぐしの要領で整髪していく。髪が絡まないよう、指が引っかからないよう細心の注意を払いながら梳っていった。
「おお、いいぞその調子だ」
よくわからないが旦那さまのお褒めに与かった。別段嬉しくはならない。俺がやる意味あるのかなあ、という疑問が拭えないからだ。
あまつさえ俺が精魂を傾けて整えていった髪を、旦那さまはまるでショベルカーか何かで機械的に均していくように、その上から大きめの櫛を走らせるのだ。無慈悲すぎるかなこの仕事。俺は賽の河原にいるのかもしれない……。
「よし、これで完成だ」
どうやら終わったらしい。
旦那さまがひとり勝手に満足している。結局、俺は何のためにここに来たのかわからない。
洗面所を出がけに旦那さまが俺にビジネスバッグを預けてきた。どうやら俺に運べ、ということらしい。
「よろしく頼むよ」
俺はそれを恭しく両手に持ち、旦那さまの二歩後ろを歩く。
鞄にはあまり荷物が入っていないのか、さして重くはない。それよりも、もうじき出くわすであろう執事さんの叱責に気が重いよぉ……、足取りも重いよぉ……。
俺の位置から厨房までおよそ一メートル三十センチと九ミリ。あと数歩もすれば、ガースさんの轍を踏んでしまう。
何か切り抜ける術はないものか……。
と旦那さまを見ると、真っ直ぐ進めばダイニングで朝食が待っているだろうに、彼は何故か厨房に入っていった。
不思議に思い、旦那さまに追従して俺も厨房に入っていく。
執事さんがいの一番に俺の姿を認めて、けんつくを食わさんといかめしく息を吸った。その眼のなんと殺気に満ちたことか。
そこへ旦那さまが、執事さんにフランクに挨拶を仕掛けていった。
「やあ、おはよう」
執事さんは毒気を抜かれたように、息を呑み込んだ。
「おはようございます、旦那さま」
そして、旦那さまに笑顔を向ける執事さん。
旦那さまは、まるで隙を与えないが如く積極的に執事さんに会話を畳み掛けていく。
「どうだ、見てくれこの髪型」
どう、と言われても、普段となんら変わらない髪型に見える。
「は、とてもよくお似合いでございますよ」
執事さんはおそらく慣れっこなのだろう。当たり障りのない麗句をもって旦那さまの言をいなしている。
「月宮さんに整えてもらったんだ。やはり若い子がやると違うな、心なしか髪にも潤いが戻ったような気がする」
ここで名指しで褒められ、ちょっぴり面映ゆい。
執事さんが俺と旦那さまを交互に見比べてくる。俺は居心地悪さに目を泳がせた。
「そうでしたか。それはそれは」
執事さんのその言葉の真意はともかく、了解はしたようだ。だめ押しに、旦那さまが言い添える。
「というわけだから、しばらく月宮さんを借りていたよ。悪く思わないでくれたまえ」
そこでようやく、俺は旦那さまの意図に気づいた。
旦那さまは俺が執事さんの叱責を喰らわないよう、便宜を図ってくれたのだ。さもなければ使い物にならない俺をわざわざ呼んで、あんな無駄なことをさせる意味がない。旦那さまったら鯔背なお人。
自分の役目を終えると、旦那さまは踵を返して厨房を出て、廊下からダイニングに入って行った。そうせずとも厨房から直接ダイニングに行くこともできるが、そのためには厨房の奥を進んでいかなくてはならない。厨房はシェフの領地であり、聖地である。それを侵すのは、旦那さまでも憚られたのだろうか。
「お疲れさまでした、月宮さん。早速で申し訳ありませんが、出来上がりましたこの料理を旦那さま方のもとへ運んでいただけますか?」
料理の皿が満載されたトレーが手渡される。
「かしこまりました」
俺はトレーを受け取ろうと手を差し出そうとするのだが、その両手には、すでに荷物があった。旦那さまの鞄である。
執事さんが苦笑まじりにため息をつく。俺は気まずさに執事さんからふっと視線を外した。
「まずは鞄を渡してきてください」
「す、すみません……」
謝り、俺はいったん廊下に出て、そしてダイニングに入っていく。旦那さまと同じ経路だ。
ダイニングの矩形のテーブルは、六つのうちふたつの席が埋まっていた。上座に旦那さま、下座には拓篤が座っている。
一応、家族という形を取ってはいるが、その空気はまだまだぎこちない。そぞろに流れるテレビの音が、場の空気を明るく保っているようだった。
『今日は肌寒い一日になるでしょう。夜には、冬のような寒さになり、所により冷たい雨が降るでしょう。暖かい上着を用意しておくと良いでしょう』
お天気お姉さんが今日の天気を報せている。
今日は気温が低いのか。このダイニングはいつも空気が冷たいから実感がなかった。
俺がテーブルに近づいていくと、拓篤がこちらを一瞥した。そして何やら気まずげな表情をした後、視線をぷいと逸らしてしまう。俺の胸がずきんと痛んだ。
「旦那さま、鞄、こちらに置かせていただいてもよろしいですか?」
旦那さまの了解を得てから俺は旦那さまの向かいの椅子に鞄を置いて、一礼するとすぐさま踵を返してこの場を立ち去る。拓篤の顔があっては、長居するべくもない。
「戻りました」
と言いながら俺はさきほどのトレーを持って、厨房にかかりきりの執事さんの脇を通り抜け、今度は厨房からの裏口を用いてダイニングに直行する。トレーで両手が塞がれているため、腰ほどの高さのカウンター扉は、下半身で開いて往還するのだ。
「お待たせいたしました」
ダイニングのテーブル前に着くとトレーを左手に持ち替えて、空いた右手を使って皿を所定の位置に並べていく。テーブルマナーに準じた配置で。
「ありがとう。今日も美味しそうだ」
朝餉にはベーコンエッグとパンという、一般家庭とさほど変わらないメニュー。だが恐らくは、素材一つ一つに見えない意匠がなされているのだろう。
ベーコンは程よく油が迸っているし、卵に至っては半熟の加減がじつにエクセレント。バスケットから溢れるパンが芳しい匂いを放っている。そして具沢山のコンソメスープが、良い潤滑油の役割を果たす。
拓篤の側にも同じように皿を並べる。彼からは特に声は掛からない。
「それでは、失礼します」
やや深く頭をさげて、しばらくその姿勢を維持。じっくり三秒ほど経ってから頭を上げて、回れ右をして厨房に帰還。
「……ふう」
作業が一段落すると、俺と執事さんは椅子に腰掛けてコーヒーブレイクと洒落込んでいた。空っぽの脳にカフェインが刺激を与える。
旦那さまや拓篤が出掛けた後が、俺たちの朝食の時間となっている。それまではひたすら忍耐なのだ。
初日はなんやかんやで夜御飯を食べ損なってしまったので翌日が地獄だったが、この習慣にも今では慣れたものだ。
「そういえばガースさんの姿が見えませんが?」
ガースさんは、どこにいるのだろう? まさか遅刻ごときで、執事さんに無き者にされてしまったのではないだろうな?
「彼でしたらもう行かれましたよ、買い出しに」
「え……あ、そうですか」
逝かれましたよあの世に、みたいなトーンで執事さんが言った。執事さんもストレスが溜まっているのか、ちょっと頭がイカれ気味だ。
「遅刻の罰も兼ねまして、自転車で行かせました」
「鬼ですか!」
まさに鬼である。あの鬱蒼とした悪路を、チャリで行かせるとは、渡る世間というやつは鬼ばっかりである。
「どこまで行かれているのでしょうか?」
「ここから車で約一時間のところにある、百貨店にて取り付けております」
「そ……そうですか」
執事さん、どこまでイカれているのでしょうか? 車で一時間ということは、自転車なら何時間かかることやら。
午前の仕事は俺たち二人だけでこなす事になりそうだった。
「ガースさんの分の仕事はどうなりますか?」
「それは彼のために残しておきましょう、故にこそ罰なのです」
「鬼ですか!」
渡る道程は蛇ばかり。渡る世間はやはり鬼ばかりである。




