四章 one weak friend(5)
使用人室にてガースさんに手当てを受けている。
「……っ!」
冷たい氷を患部にあてられて俺は顔をしかめた。ガースさんが情けも容赦もかけずに、氷をさらに強く押し充ててくる。
「痛い痛い! 痛い!」
さっきまでは、悲しくて涙が止まらなかったけれど、今は痛みから涙が止まらない。
「痛いか、ならどうしてこんな怪我をしたのかを話すんだ」
この人全然やさしくない!
「だから、転んで壁に強くぶつけたんですって!」
こうして言い訳をまくし立てても、相手にされず一笑に付されてしまうのだ。普段はおちゃらけているくせにこの人、実は相当な切れ者ではないだろうか?
「嘘を言え、転んだぐらいでそうはなるか」
「嘘じゃありません! ほら、これ見てください」
俺は膝や肘の内側にできた軽い擦り傷をガースさんに見せる。転んだというのは事実なので頰の方も誤魔化せると思ったのだが、その手には乗らないとばかりにガースさんは俺の言い分を受け入れてくれない。
「マナが人知れずドジっ子だということと、その頰の怪我は別だろうどう考えても」
こんな具合に、確信をもって俺の発言を斥けるのである。俺の前ではドジっ子じゃなかったくせに、とガースさんが愚図っている。
「話になんねえ」
と俺は思わず呟くが、ガースさんはそれを聞きとめることなく、追求の言を発した。
「……あの、クレイジーな義息子の野郎だろう」
「……え」
さりげなく図星を指されて、俺はふぬけた声でそれを肯定してしまった。そして、さんざっぱら態度で肯定しておきながら模糊とした言辞でそれを否定する。
「そ、それこそ荒唐無稽な話ですわ……! 拓篤さんのあの、逞しい腕をご覧になったことがありまして? あの腕は人を殺せますわ。こんな生半な怪我で済むはずがありませんわ……」
我ながら上手い逃げ口上だと思った。
拓篤が本気で殴れば、こんな傷程度では済まされないはずはのだ。拓篤はフェミニストという説は無くなったが、いささか手心は加えていたらしい。
それを聞いてガースさんは追及を取り下げた。が、代わりに妙な飛び道具みたいな質問を投げつけてくる。
「マナ。お前まさか、あのクレイジーに惚れているのではないだろうな?」
「そ、それこそ荒唐無稽な話ですわ……!」
「頬を赤らめながら言うな」
「は、腫れてるからですわ……‼︎」
まったく、ガースさんの妄想癖には困ったものだ。彼の頭の中じゃあ俺はいったいどんな目に遭っていることやら。
しかし、頬のほうは明日には腫れが引いているだろうとのことでひとまず安心。
俺は改めてガースさんにお礼を言う。
「とりあえず、ありがとうございました」
「とりあえず、という部分に悪意を感じるが、まあいいだろう。お礼なら俺の息子が今晩楽しみにしているぞ」
……何を言っているんだこの人は。意味は全然わからないが、嫌な予感しかしないのでこの話には触れないでおく。
「そういえば、わたしたちの仕事はあとどれくらい残ってるのでしょうか」
見事スルーしてやったのでガースさんは少しばかり不服そうにしていたが、やれやれとその問いに答えてくれる。
「いんや、もうないな。明日の仕込みも終わったし。あれ捨ててくれば後はもう、寝るのが仕事だ」
ガースさんは入り口に置かれたごみ袋を顎で示した。俺が拓篤の部屋から持ち去ったものだ。
「しかし、寝るのが仕事とは意味深長ですね」
俺が感心して言うと、ガースさんはさも当たり前のように頷く。
「俺たちは主よりも遅く寝て、主人よりも早く起きて仕事を始めなきゃならないからな。睡眠とか、人間として当たり前にできることが難しく感じたりするものさ」
千慮の一得とはよく言ったもので、ガースさんにも仕事に関しては一家言があるのだろう。でも酒癖はいい加減にしてほしい。
ふと時計を見やると時刻はじきに二十二時になろうとしていた。ついでに、部屋をくるっと見渡してみる。
東南に位置する使用人室の窓からは、玄関口や、屋敷の門の様子が見える。夜はさすがに見えづらいも昼間においては来客などの状況把握にも適しているらしく、使用人の部屋としてはまさに理にかなっているらしい。
と、使用人という仕事について、黙考していると、ある事に気づいた。
「そういえば、もう一人の方は?」
名前がわからないのでそう呼ばざるをえないが、執事さんのことだ。
執事さんはどこにいるのだろうか? 彼ほどの手腕家ならば万事つつがなく終えて、もう部屋に戻ってきてもおかしくないだろうに。
「ああ、あの人は執事長だからな、旦那に直接仕えてるのさ」
「そうなんですか」
よくわからないが、よくわかった。少なくとも今夜は、ガースさんとふたりきりだという事がわかった。
「で、風呂はどうする?」
唐突にガースさんが言った。
「風呂、というのは?」
「もうすぐ俺らの入浴時間なんだよ。俺とマナ、どっちが先に入る?」
なるほど、そういうことか。今度は風呂掃除なのかとゲンナリしてしまうところだった。
「なんなら一緒に入るか?」
「い、や、で、す!」
ぴしゃっと断って、ガースさんに先を譲った。
俺が先に入ろうものなら、入浴中に無理やり押し入ってくる可能性が否めないからだ。
ガースさんは「悪いな」と言って、手慣れたようすで身支度を整えると入浴セットを手に部屋を出て行った。部屋を出がけ、俺のごみ袋も持って行った。そういう小粋なところが憎めないのだ。
「じゃあ、マナはここでゆっくりしているのだな。今夜は寝かさないぞ」
ぱたりと扉が閉まる。
なにが寝かさないだ、寝るのが仕事などと熱弁しておいて。俺は寝るぞ。ここの仕事に準じて寝るぞ。
「…………」
ガースさんの気配がなくなったことを確認して、ベッドに倒れ、のっそりと布団に潜りこんだ。
そうして、頰の疼痛と心の痛みを抱えて、俺は声を押し殺してさめざめと泣きはじめる。
布団に包まり、ガースさんはもちろん、拓篤の耳にもそれは届かない。
◇◆◇
いつの間にか寝ていたらしい。つまり、いつの間にか仕事をしていたということである。仕事熱心な俺。
ぼんやりと目を開けると、ガースさんの顔がすぐそこにあった。俺は特に動じることなく寝ぼけ眼でガースさんを見つめ返す。
「……ん、……ガースさん……」
寝ぼけというのは恐ろしい。
こんなにキモくて恐ろしいものを、恐ろしく感じないのだから恐ろしい。キモい。
「起きたか、風呂が空いたぞ」
と言って、ガースは裸で部屋を徘徊している。
全裸である。一糸纏わぬ全裸である。その端麗な容貌と相まって、ダビデ像か何かを想起させた。
「服着てください!」
俺は本能的に包まっていた布団をガースさん目掛けて投げつけた。布団が吹っ飛んだ、という絵空事を地で行っている。
だがそれは大したスピードも出ることなく、ぶわっとガースさんの両手に収まった。
「ナイスピー」
そして、よくわからない賞賛を送ってくる。野球か。
「なんなんですか」
ガースさんは俺が投げてよこした布団で、身体を隠そうともせずに、あろうことかそれで濡れた身体を拭きはじめた。
「いやぁ俺、マナのいい恋女房になれそうだな。まぁ本来なら逆だけど」
そしてこの禅問答である。またぞろ、俺に秩序がどうこう思わしめるのである。
「……入浴してきます」
心からのため息を吐いて、俺は前日にあらかじめ送付しておいた、ボストンバッグを手に持つと部屋を出た。
「ゆっくり浸かっといで」
カーズさんに特に返事せず扉を閉める。けれども、俺は扉に背中を預けたまましばらく微動だにしない。
「……」
本音は——だ。
今すぐにでもこの屋敷から、逃げ出したいというのが正直なところだ。
眼前には、こちらに背を向けた螺旋階段。さらにその先には拓篤の部屋がある。目と鼻の先にあるが、その間には決して埋めることのできない溝が厳然として介在する。
何故あの時、誤解であることを主張しなかったのか。今さらそんなことを考えている。
本当に誤解だったのだから、言えばよかったのだ。あの凍るような表情が無ければ、言えたかもしれないのに……。
俺は拓篤の部屋を意識的に見ないようにして、静かに歩き出し、階段にたどり着き、物音立てずに降りて、向かって左手の洗面所に入る。
室内は、誰もいないにもかかわらず照明が点いていた。電気代がもったいない。
洗面台にはピカピカの鏡が据え付けてあり、見ると醜女が俺の顔を覗きこんだ。
「ひっどい面」
醜女は、俺を見るなりそう腐した。だが傷つきもしなければ、向かっ腹も立たない。まさにその通りだった。
涙でメイクは崩れ、まさにスベタと成り果てていた。ウォータープルーフを怠ったが故の結果だろうか。
ガースさん、これを見てよくも吹き出さずにいられましたね。
陽菜からメイクの仕方は教わっているが、その落とし方までは教わっていなかった。
真っ当な知識すら俺は持たないので、騙し騙しメイク落としに注力する。まず、蛇口をひねって放水。そしてを纏った両手でゴシゴシとメイク部分を強引に洗い落とすだけだ。
「……んぐ」
水は、もはやお湯と呼べるような温度を持ち、頬に鋭い痛みをもたらす。
しばし痛みが続くと、それはやがてぱったりと止まった。痛みに神経が慣れてしまったのだ。
でも心の痛みだけは、どうしても慣れてくれない。両親が死んだあの日から。
無策な洗顔を終えて鏡を見ると、それでもメイクはしっかり落ちていた。
洗面台を綺麗にしてから、洗面所と隣り合った風呂場に移動する。
脱ぎすてたメイド服を洗濯カゴに放りこみ、男の尊厳を取り戻した後、いよいよ浴槽へ。
とその前に身体を素早く洗い、お湯で流してから、湯船にインする。
「……ふぁ」
旦那さまの自室のソファに座った時にも劣らぬ気持ち良さに思わず、深い詠嘆を浮かべる。
意識までもがお湯にとろけてしまいそうだった。
湯船は大人でも五、六人程度なら、一緒に浸かることのできる広さ。壁にはモニター画面のようなものもあり、テレビや映画を観ることもできるのだろう。
でも、そういったものより俺はもっと現実を見なければならない。
思い返せばここ数日で、さまざまな経験をした。
高校二年になって初日に真島さんにからまれたり、ホールみたいな音楽室を目の当たりにしたり、陽菜と五年ぶりに再会したり、信じていた流星に裏切られたり、女装したりメイド服着たり、拓篤について胸を痛めたり、色々なラッパーに絡まれたり、陽菜の演奏に驚いたり、旧車に乗ってお尻を痛めたり、ガースさんに頬っぺたにキスされたり、拓篤にお姫様抱っこされたり、拓篤に頬っぺたにビンタされたり、人生を思い悩んだり、色々あった。
事実をありのままに列挙してみたが、もちろんそのひとつひとつに、たくさんの意識や思惑、道理といったものが渦巻いていて、どれひとつとっても、一筋縄ではいかないものばかりなのだろう。
「はぁ……」
重い息を吐き出した。それで心が軽くなるならば苦労はない。
ふと寒気がさし、俺はそろそろ頃合いかと湯船を出る。最後に、シャワーで身体を洗い流してから浴室を後にした。
ふかふかのタオルでもって濡れた身体を拭いていく。この屋敷の繊維物は、一切合切がふかふかで気持ち良すぎる。
身体の水気を十分に拭いとると、陽菜が用意しておいてくれた、ボストンバッグを開けて中身を確認する。
「う……」
予想はしていた。
陽菜に用意を任せた時点で、こうなるだろうとは覚悟していた。
それでもなお戸惑いが隠せないのは、それが少年には耐え難い代物だからだろう。
内容としては、女性用のパジャマ、肌の色に合わせたストッキングが数着、巨乳仕様のブラジャーと下着が宿泊日分、メイク道具一式、予備のウィッグがいくつか。ちなみにメイド服は屋敷から貸与支給されるので、さきほど洗濯カゴへいれたアリスの衣装のみの持参となっている。
今日使うぶんだけをバッグから取り出し、すぐさまファスナーを引いて、封印した。
まずはブラジャーの装着。どうせなら小ぶりのものに変えて欲しかったが、初めて着けたときのサイズを維持しなければ不自然だ、という陽菜の説には抗えなかった。今日も明日も巨乳なマナちゃん。誰がためにマナは、巨乳を演じるのか……。
ブラを着け終え、羞恥を脱ぎ捨てて女性物の下着を穿き、あとは得意の早着替えのテクニックを用いて目にも留まらぬ速さでパジャマ姿に。着崩れがないか確認して、鏡の前の椅子に座る。
そしてメイク道具を取り出した。
陽菜に教えてもらった通り、鏡と睨めっこをしながら手早くメイクを施してゆく。時間にして約五分。薄めの仕上げというのもあり、早々にそれは出来上がった。
総仕上げにウィッグを被ると、月宮マナという佳人が鏡の向こうに対面した。
「にぃー」
と、わざわざオノマトペを口にして鏡の向こうに微笑みかけてみる。
屈託の色は見え見えだけどそこそこ悪くない笑顔を返された。どころか目の前の少女は、とても好い容姿をしている。
大きいのみならずその形すらも洗練された、芙蓉のような眦。化粧もさして必要なさげな長い睫毛。鼻梁は、これに沿ったら綺麗な線が描けそう。小さな唇がちょこっと儚げに咲き、月宮マナの表情を支配的に彩る。
唯一わざとらしかったメイド服はなく、ピンクの花柄のパジャマが女の子らしさを強調する。しかし、胸元には花咲くだけでは飽き足らないと言わんばかりに、少女には不釣り合いな大きな実りがあった。
そして、抜けるような白肌が湯に当てられ上気し、淡い照明を受けて艶かしさを返す。
これが俺でない、別の女性のことだったならどんなに良かったことだろう。あるいは、俺が本当の女だったならどんなに良かったことだろう。そんな恨み節が沸々と湧いてくる。
とまれかくまれ月宮マナは、俺が思っている以上に評判が良い。事実、この姿だったことで幾多の難関を乗り切ることができたのだから。
つまり月宮マナは、おおむね有能だということだ。だが万能ではない。
高給取りであっても日払いや週払いにはしてもらえない、公務員のように。実力があっても、仲間のいないミュージシャンのように。
どんなに求心力があっても、拓篤には近づくことはできないのだから。
◇◆◇
使用人室に戻るとガースさんはテレビの前に釘付けになっていた。全裸のままで。
——ガースさんを釘付けにするその番組といえば、深夜帯のお色気ドラマだった。高校生の俺には、いささか刺激の強い内容のものだった。
セクシー女優演ずるヒロインが、駆け出しの俳優演ずる主人公にキスをされている描写だった。しかし、そのキスは青春ドラマにてお馴染みのほっぺチューでも、海外ドラマでもお馴染みの濃厚なキスシーンでもない。
その胸元の大きな膨らみに対する、デカダンなキスだ。それも、舌を絡めたディープなやつ。唇を塞がれていないヒロインは、頻りに甘やかな声を発していた。
「ガースさん……」
ガースさんは、色欲の捌け口にしていたのだそのドラマを。
なんという浅ましさ。仮にも女の(格好をした)子に見せていいようなテレビでも、所業でもないだろう。
まだ服を着ていないどころか、とんでもない行動に出やがっていた。
ちなみにドラマ一覧って横文字で書いてあるのをドラマー覧と勘違いしてしまうのはドラマーの性である。
「おお、マナか」
俺の存在を認めたところで、斯様な仕儀を恥じもしなければ中断もしない。最後まで男を貫き通しておりました。唖然を通り越してもはや軽蔑する。
「いやぁ、今夜もよく眠れそうだ」
ドラマの放送が終わり、テレビが消えても俺の不快感が消えることはない。えも言われぬ臭気とともに、しばらく部屋を漂い続けるのだろう。
「わたしはおちおち眠れそうにありませんけどね」
俺は軽蔑の眼差しを向けて、存分に皮肉ってやる。だが前例を鑑みるに、屁とも思わないのだろう。
「ずいぶんゆっくりしてたのだな。遅かったからもう済ませてしまったぞ。マナとはまた今度、というわけだ」
その自覚はなかったがガースさんの口ぶりからするに、思ったよりも長湯だったらしい。
「じゃ、わたしもう寝ます。お休みなさい」
短く告げて、俺は寝具やらバッグを抱えて部屋を出ていこうとする。
「ちょっと待て、どこへ行く?」
ドアノブに手をかけたあたりで、ガースさんに呼び止められた。俺はすげなく淡々と有り体に、理由を述べる。
「あなたと同じ空間で寝るくらいなら酒蔵で寝るほうがマシなので」
「ちょ、待ってくれ! なにもしない、今日は! 絶対に触れないし、マナの睡眠の邪魔はしない!」
と、すんごい勢いで俺の持った布団にすがってきた。
なれども了解はすまい。
「嫌です」
取りつく島なく俺が断ると、ガースさんはいよいよ涙目になって哀願した。
「実は俺、一人じゃ怖くて眠れないのだよ。頼むよ……」
ここへきて、ガースさんの意外な弱点が明らかになった。
「それならもう一人の……ええと……あの方がいるじゃないですか」
執事さんの本名はなんて言うのだろう。執事疾事さん?
「あの人は今日、旦那のお付きに徹するんだよ」
そう言えばそんなような話だったな。
「じゃあ、こんな時はいつもどうしてたんですか?」
ガースさんは少しだけ答えをためらった後、おずおずと白状した。
「……だから言っただろう、寝るのが仕事だって」
ああ、そういうこと。仕事はつらいよ、そんな言葉が後に続くような気がした。
そしてガースさんの幼稚園児ばりの弱点に、笑いがこみ上げてくる。
ぷ、と俺が噴きだすとガースさんは顔を赤くして憤慨した。
「な、なんだ! 何がおかしい!」
笑わずにはいられない。
先だって、あれだけ職人面で言っていたことが実は赤ちゃんレベルの羞恥を隠すためだったなんて、これが笑わずにはいられないだろう。
「ガースちゃんはお子ちゃまでちゅねー。だいじょうぶでちゅか? おっぱい飲みまちゅかー?」
と軽口を叩きまくっていると、急に目の色を変えたガースさんがぼそりと呟いた。
「ああ、飲みたいな」
俺の皮膚が粟立つ。ガースさんのその呟きが舌先よろしく、俺の胸部を這うような錯覚があった。
「じょ、冗談でちゅよぉ……?」
あやし言葉で宥めるも、ガースさんの顔は一切動じない。何かに駆られるような、決意じみたものがある。
そして俺の両腕をむんずと掴むと、それを俺の頭上でドア面に押さえつけた。手にした布団が拍子にどさっと落下する。
「冗談だろうが関係ない。マナが酒蔵で寝るなら、俺はマナに夜這いして乳を吸う。嫌ならここで寝るんだな」
おっぱいを飲む、カルーアミルクを飲む、ではなく乳を吸う。その直截的表現に、いよいよ貞操の危機を感じずにいられない。ガースさんが少し体勢を低くすれば、すぐにでも先の深夜ドラマのシチュエーションが再現できそうだった。ガースさんならしかねない。酒蔵で乳を鷲掴みにしたガースさんなら、出会い頭にキスしてくるガースさんなら、本当にやりかねない。
「わ、わかりましたよ! ここで寝ますから! 離して!」
降参的に了解すると、
「本当か? よかったよかった」
ガースは満面の笑みを浮かべて、ふっと俺を解放した。まぁ、さきほどドラマをもって賢者タイムになったばかりだから、俺がここで寝てもたぶん問題ないだろう。そもそも俺だって酒蔵で寝たいとは思わない。
ただ、これだけはきちんとやってもらわなねば。
「ガースさん、ちゃんと、服を着てくださいね」
ガースさんはようやっと、部屋奥のクローゼットからバスローブを取り出し、俺のお仕着せに服した。ちなみにそのバスローブがパイル生地の高級品だったことを、俺は見逃さなかった。
そして、寝支度を整えてベッドに入り、照明を消すといの一番にガースさんが寝息を立てた。一人じゃ眠れないなんて、嘘だった。




