四章 one weak friend(3)
厨房にて、ガースさんが執事さんにこってり絞られている。
でも仕方ない。夕食の時間が迫っているというのに仕事をほっぽって、酒蔵で呑んだくれていたのだから俺でも擁護できかねる。
「……仕方ありません。月宮さんには昼食の際に申しました、条件を履行していただく他ありませんな」
「は、はあ」
条件というのはあれだろう。昼食をご馳走になる代わりに執事さんの仕事を一つ、任されるという。
「わたくしは、これから夕食の準備にかかりますので、月宮さんは旦那様がたの部屋の清掃をお願いいたします」
「はい」
今日は掃除づくしの一日だな。まぁ家政婦の仕事なんて八割がた、掃除なんだろうけど。
ちなみにガースさんは椅子に座って、ぐったりしている。説教に堪えているのか酔いに堪えているのかはわからない。ぐでーっとしていた。
俺はガースさんを軽蔑の眼差しで見下ろした後、踵を返して仕事に向かおうとする。すると、背中に執事さんの声がかかる。
「それから書斎には、旦那さまがいらっしゃいます。くれぐれも粗相のないようお願いします」
了解の意も含めて、執事さんのほうを振り向いて一礼する。執事さんが目礼するのを確認してから厨房を出た。静々と歩いて階段を目指す。
屋敷の造りは非常にシンプルだ。まず一階フロアの中央には、白の螺旋階段。この階段は二階に、かつては地下にも通じていたらしい。
螺旋階段を中心としては、東南が玄関、北東には洗面所と浴室、南西には御手洗いと納戸。西が厨房であり、北西にはやたらと大きいダイニングがある。
二階にはまだ行ったことがないがまぁ書斎におわす、旦那さまにのみ気をつけていれば良い、という話だったか。
あと俺にはもう一つ、気をつけなくてはならない事がある。無論、拓篤の事だ。
拓篤は、俺こと深山那月がここに奉公に来ていることを知らないし旦那さまや他の使用人との立場上、俺が深山那月であることを知られてはならない。
あくまで、ここにいるのは月宮マナであり家政婦であるのが前提であり、しかしそこがホドルネックでもあった。というのは、この月宮マナの姿でどうやって拓篤に和解を切り出せばよいのか分からないのだ。こっそり拓篤にのみ正体を明かし、和解に漕ぎ着けるというのが道だろうか。
拓篤はもう、帰宅して部屋にいるだろうか。ならば二階の掃除を始める前に、その問題を片付けてしまおうか。初日のうちに和解してしまうのが早道だろう。
そんな決意を胸に、二階へ行く階段に足を掛けたそのとき。背にした玄関の扉が不意に開いた。
反射的に後ろを振り向くと、さきほどの意気込みがすっかり引っ込んでしまった。
「あ……」
俺の口から情けない吐息にも似た声が出た。
……無理だ、言えるわけがない……。そんなに簡単に言えるなら、そもそもこんな所にまで来ないさ、学校でいくらでも言えるだろ。
拓篤は見慣れないメイドの姿を捉えると、この姿で初めて会った時と同じような感想を漏らした。
「お前誰だ?」
以前にも一度だけ顔を合わせた事が、あるのだが、それを覚えている様子は拓篤にはない。
それを覚えている俺はというと完全に出鼻をくじかれて、掛ける言葉すら見つからない。棒立ちの体だ。
すると拓篤は勝手に納得したように、ぽんと手を打った。
「あぁ、新入りか。道理で見ない顔だと思った」
「え……あ、はい。よろしくお願いします。拓篤……さん」
間違ってはいないのでとりあえず拓篤の話に乗っておくことにした。手を差し伸べられたので、恐る恐る握り返す。
「……に、荷物をお持ちいたしますっ」
声を上ずらせながら俺が申し出ると、拓篤は無視にも近い形でそれを遠慮した。
そして、急にしゃがみこんで鞄を床に置いて、すたすたとこちらに近づいてきたかと思えば何故か俺の身体を、ひょいと掬うようにして抱き抱えた。俗にいうお姫様抱っこである。
「なんならお前のことを運んでやろうか?」
「……——!!」
ありうべからざる拓篤の言動に、声にならない叫びが俺の喉元まで溢れ、顔は沸騰するほど熱い。ひゃあ、恥ずかしい。
目の前には、俺の知らない拓篤。ここへ養子に来て人間性が変わってしまったのか、それとも俺が知らなかっただけで平時はかくもフェミニストなのか。どちらにせよ、あまり俺にこのようなことはしないでほしい。後々俺の正体を打ち明けづらくなってしまうから。
「い、いいです! 下ろしてください!」
逞ましい腕の中で、俺が精いっぱい拒絶すると、拓篤はペンチプレスをそうするように軽々と腕ごと俺の身体をぐいっと自分の目の前に引き寄せた。お互いの顔が目睫に迫る。ヤバい、ここまで距離が近いとさすがに照れてしまう。
「……た、拓篤……さん?」
まんじりと俺の顔を覗き込む、拓篤の目の色が変わったような気がした。
ふと拓篤が口を開く。
「お前……どっかで見たような」
「え……」
意外や意外、まったく覚えてないだろうと思っていたけど記憶の隅には残っていたようだった。いや待て、これは俺の正体に気づいたという可能性もある。
「ええっと、それは、」
速戦即決を取るならば、ここで速やかに正体を明かして和解を持ちかける方が良いに決まってるし、その覚悟を固めるべき局面でもあるのだろう。
今なら周りに人がいないし、「実は私は深山那月なのでしたっ」と軽く正体を明かすことができるかもしれない。そして、和解できるチャンスがあるかもしれない。
それは並みならぬ覚悟を要するけれど、いつ打ち開かせるかも判然としない不安を抱えながらここで働くよりは幾分かマシにも思える。
すると、拓篤はあっ、と何か閃いたような声をあげる。俺は思わずどきりとしてしまう。
「わかった! あんとき陽菜と一緒にいた子だろ! 新入りって、お前のことだったのか!」
俺の胸づもりも、むなしく拓篤の腕の中に散る。
やっぱり駄目だ、言えるわけがない。正体なんて、しばらくは明かせそうにない。
こんなに純粋な表情をした拓篤を前に。
その表情を裏切って。
どうして、真実を告げられようか。
そもそも俺は、保健室登校からも抜け出せないようなヘタレなのだ。机上の空論も甚だしい。
拓篤を恐る恐る見ると、その眼が興奮気味に揺らめいていた。というか、いい加減、腕から解放してほしい。
「なんでお前が、ここに?」
俺の意中を知る由もなく、拓篤がずけずけとたずねてくる。またもや俺は頭を悩まされる羽目になった。
こうなってしまった以上、俺は嘘を吐き続けなければならないのだ。パニクった頭で思いつく限りの文句を並べていく。
「ず、ずっと前からその、拓篤さんのことをお慕いしておりまして、なんというか、その……」
拓篤の顔から笑顔が消える。その表情は、真剣そのもの。
いや、真剣に聞いているというよりは、真剣に聞かないとまるで理解が追いつかない、という顔か。
そりゃそうだ。突発的な嘘なんて、ともすりゃこんな感じに支離滅裂になる。俺だって自分が何言ってるのかわからないんだから。
ただ。拓篤のことを知っている女が、この家にわざわざ奉公に来る、その正当な理由がこれしか思い浮かばなかった。つまり意訳すると、ずっと前から好きでした、である。
拓篤は俺の言ったことを、ようやく咀嚼し終えたようで、みるみるうちに顔が赤くなっていく。動揺に拓篤の口がぱくぱくしている。もう咀嚼し終えたというのに、拓篤の口は何かを咀嚼しようとしているようだった。
脳はとっくに理解しているはずなのに、それを受け止めきれずにずっと思考を繰り返しているようだった。
「え、ごめん。お前、名前なんだっけ?」
拓篤が恥ずかしさを誤魔化すように問うてきた。
「月宮、マナです」
すると拓篤は、一瞬眼を見開く。まるで信じられない出来事に遭遇してしまったような顔だった。
まさか月宮マナに隠された真名、深山那月という答えにたどり着き正体に気づいたのか。
だが、どうやら違ったらしい。
「お前が月宮マナなのか?」
「し、知ってたの?」
予想外の返しだったので、思わず尊敬語も忘れてしまった。
「いや、俺のダチがな、俺に惚れてるやつがいるとか言うもんだから。そいつが」
「わ、わたし……と?」
拓篤がこくりと頷く。
その話ならば心当たりがある。あり余っている。
取り巻きふたり——あるいは、あの四人の前で、俺は拓篤のことで彼らの前で乱心を露わにした。それを、拓篤への恋情と思われてもさして不思議ではない。
しかし、なんだか話が余計にこじれてきてしまったような気がする。そして後戻りも出来ないようなところまで、来てしまったかもしれない。
「で、月宮。お前のさっきの話」
さっきの話とは俺が座興で言った「拓篤さん、あなたをお慕いしてます」というやつだろう。一時凌ぎに過ぎない戯言が俺の知らないところで、いつの間にかしっかりと裏付けがなされていたとは。
「そ、それは……」
口籠るってしまう、俺。こればかりはどうしたらよいのか見当もつかない。嘘なのだと正すわけにも、かといって肯んずることも出来ない。好きだということは事実だが、ここでいう、LOVEとは別の感情だからだ。
拓篤は、俺を腕からおろして解放する。久々に地に足が着いたが、俺のこの状況がまったく地に足が着いていないのが滑稽に過ぎる。
ほぼ間違いなく拓篤は、さっきの俺の話を愛の告白と受け取っているのだろう。どうしたものか。
拓篤が正面に立ち、真っ直ぐに俺を見据える。
「すまん、まだ返事はできない。少し時間をくれないか?」
それが告白の返事だった。いや、時間がほしいもなにも、待ったをかけたかったのは俺のほうだ。状況を打開しようにもその手立てを持たない今の俺にとって、その申し入れはまさに不幸中の幸いだったと言える。
努めて穏やかに俺はそれを受け入れる。
「わかりました。では、またそのうちに」
「わかった。約束する」
よくよく考えていただかなくては、俺が事を解決するまでは少なくとも。
「じゃあ俺、部屋戻るわ」
床に置いた鞄をひっつかんで、拓篤が立ち去ろうとする。今は一応、メイドなので言うべきことを言っておく。
「御夕食の準備が整いましたらお呼びに上がります」
ああ、と言って拓篤は特に振り返ることなく、階段を昇っていった。
拓篤が立ち去ったのを確認すると俺はお姫様抱っこでめくれ上がったスカートを掻き合わせる。ストッキングという防壁はあるが、拓篤の手の位置が少しでもずれていたら、予期せず正体がバレていたかもしれなかった。危なかった。
そして着慣れてきたとはいえ、やはりこのメイド服はサイズが小さかった。
——さて。
状況やら対策やら、整理しておかねばなるまい。
まず当初の目的は拓篤と仲直りして養子縁組の離縁、退学届の撤回をさせることだったはずだ。
だがそれは、拓篤との出会いがしらに破綻してしまった。あまつさえそれを誤魔化すために、嘘で嘘を塗り隠し、もはや和解どころではなくなってしまった。
俺の雇用期間は一週間。拓篤の返事については明確な期限こそはなかったが、明日かもしれないということだ。
拓篤の返事よりも早く、事の次第を打ち明けて仲直りする他ない。
自分の弱さが、事態をさらに悪化させた感は否めないけど。
そんな状況下でどうやって和解へ持っていくのか、そもそもどうやって拓篤にのみ正体を明かすのかは、今の段階では思いつかない。つまり、この一週間で探っていく他ないのだ。
螺旋階段を一段一段、ゆっくりと踏みしめながら昇っていく。本当は、悠長に段階を踏んでいる暇はないのだ。時間的にも、精神的にも。
二階にたどり着くと視線の少し先には、三つの扉がある。しばし歩くと扉前に到着した。
方角にして北西。風水に照らせば、主人の寝室に最も適した場所となる。
おそらく、一つは旦那さまの部屋、もう一つは拓篤の部屋ということだろう。そして真ん中の部屋が、書斎だということが察せられる。
つまり旦那さまの部屋は、左右どちらかということだ。
どちらかわからない、というのが曲者だった。ドアに耳を澄ませてみてもいまいちピンと来ない。というか、これでは俺が曲者ではないか。
本来なら、どのみち掃除するのだからどちらの部屋からあたっても問題ないのだろうが、さっきの件もあり拓篤とは顔を合わせづらい。
夕食が出来上がるまでに旦那さまの部屋を片付け終えて、夕食中に拓篤の部屋を片付けてしまいたいところだった。
書斎には旦那さまがいるので入らないように、と執事さんから言いつかっている故それを違えるわけにもいかない。ドアにネームプレートくらい掛けてくれればいいのに。
仕方なく俺は、左の部屋に当たりをつけてそっとドアノブを捻る。と、無音のもとに扉が開いた。うちの施設と違い軋る音は一切なく、ドアを開閉していることすら忘れてしまいそうだ。
室内は真っ暗——ということは、俺の願望が叶ったらしい。
ほっと胸を撫で下ろして、俺は旦那さまのものとおぼしき部屋に失礼する。一歩足を踏み入れると自動的に照明が点いた。
内装はいたってシンプルだった。こんなに広い部屋なのに、それを活かしきれていないような殺風景な印象を受ける。大画面の液晶テレビも超薄型で壁に掛けるタイプの物だ。
唯一場所を占めているものといえば、一人で使うには手広なダブルベッドくらいだろうか。部屋の一角にでんと据わっている程度だった。
テレビの前には、簡素なテーブルとふかふかそうなのソファ。
これらも決して小さいものではないのだろうが、部屋の大きさやベッドと比較すると、いささか小さく感じてしまう。ただ質感は良さそうだし、俺が寝そべるぶんには手頃なサイズだ。好奇心に負けて俺はソファに身を沈めてしまった。乗車にて傷んだお尻を、優しいシルクの風合いが包み込んでくれる。そのままソファに横になってみる。ふっかふかのもっふもふで、どこまでも堕落していきそうだ。やばい、もうこのまま骨を埋めたい気分。
「ふぁ……」
心地よさに、ふとため息が漏れた。吐息までもが浮ついている。と、そこへ——
「寝心地はどうかね?」
後ろのほう——入り口からの声に俺は飛び起きる。さっきの静かすぎるドアが祟ってか、その気配すら感じなかった。間髪いれずに「ごめんなさい」と謝罪を入れてそちらを振り返る。
初めて見る男性。年の頃はおそらく五十代半ば。すっきりした頭髪のそちこちに、白髪が混じり、手入れの行き届いた美髯が並々ならぬ年の功を窺わせる。
フォーマルなスラックスにワイシャツ姿と、勤め人然としている。故に、恐らくこの人が。
「だ、旦那さま……にてございまするか?」
テンパって変な言い回しになった。言った後に死にたくなった。やはりおかしかったのか、旦那さまはくつくつと笑い出した。哄笑なのか憫笑なのかは分からない。
「初めて見る顔だが、君が月宮さんかな?」
ソファにお尻を預けたまま、俺は頷く。
執事さんの「くれぐれも粗相のないように」という厳命を思い出す。思い出してもなお、腰が抜けているので立ち上がって姿勢を正せない。印象は悪くなる一方だ。
「はい。あの、すみません。立てなくって……」
せめて口頭だけでも謝意を伝えようと俺は口を動かした。
旦那さまがまたもや笑いを轟かせる。どうやら怒ってはいないようだ。
「わかるとも、わたしもそれに初めて座った時にはあまりの心地よさに腰が抜けたものだ」
「……ですよねぇ」
主の意見は絶対。とりあえず当たり障りのない笑みを浮かべておく。
「して、君はここで何を?」
旦那さまに尋ねられて俺はつぶさに説明する。夕食前にこの部屋を掃除しようとやって来たはいいが、ソファの魅力にまんまと敗北を喫して、ソファの魅力を満喫して現在に至るのだと。
「それならば仕方がない。しかしそれをわたしに見られてしまったからには、いつまでもそうしているわけにもいくまい」
やさしい叱責だった。そして旦那さまが手ずから、俺の腕を掴んで立たせてくれた。未だソファでの浮遊感がどこかに残っている。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、旦那さまは構わない、と言って小さく手を振った。と、旦那さまの視線が俺の下半身で一時停止したかと思えば、三倍速ばりに外方を向いた。
「そ、それよりも君のスカート、いささか短いように感じるのだが……!」
と、きまり悪そうに呟く旦那さま。
そう言われて俺は自分の足元を見てみると、寝転がったりしていたからかスカートが激しくめくれ上がっており、太ももまでが大胆に丸見えになっていた。ベージュのストッキングで覆われているとはいえ、破廉恥だった。
俺は絶叫にも似た声をあげて、めくれ上がった襞を直していく。旦那さまも、いよいよ気まずそうに咳ばらいをした。
服装を整え終えて、その合図代わりに旦那さまにお詫びする。
「し、失礼しました。お見苦しいところを……」
「いや、こちらこそ。女性に対してやや無頓着だったね、すまない」
ことのほかジェントルマンであった。こんなダンディな男性になりたいと思った。
旦那さまはここには書類を取りに来たらしく、ソファ手前のテーブルに置かれた通勤用の鞄から厚めのファイル束を取り出し、それを小脇に抱えて部屋を出ていく。その際に声を掛けられた。
「わたしの部屋よりも、義息子の拓篤の部屋をよろしく頼むよ」
ぱたりとドアが閉まり、しばらくして旦那さまが書斎に入った音をしっかと確認してから、俺は最後に、もう一度だげソファに身を埋めるのだった。