プロローグ パンドラの箱
ノックをして扉を開くと、俺の姿を見るなり水木明日香先生は小さく嘆息した。それが、ちくりと胸をさす。
愁いを帯び、でもすこしだけ安堵したような、なんともどっちつかずの面持ちをこちらに一瞬見せた後、やがて彼女は、その表情を優しい笑みに変えた。
かちっとしたスーツの上に皺だらけの白衣を羽織った水木先生が、やんわりと口を開く。
「おはよう、深山クン」
水木先生のいつもと変わらぬあしらいに些か心が痛んだ。
「こ、今年もよろしくお願いします……」
俺は真っ直ぐに構えた返事でなく、遠慮がちにそう返した。
今から二週間ほど前——春休み前の終業式。
その終わり際に、水木先生より高校一年過程を修業したことを証する通知表が手渡され、そして「二度とここへは戻ってこないよう努力する」と言をつがえた。そうして俺は、来年こそはと一念発起したのだった。
だが、結局のところ俺には、いかんせん気概も気合も足りていなかったらしい。
本来俺がいるべき教室のあの重々しい扉を前に、なけなしの気合い気概ごときが通用しようはずもなく。
結局、しっぽを巻いて俺はここへ逃げ帰ってきたわけだ。そして情けないことに、先生に面と向かって「駄目だった」と言って居直るだけの胆力とてない。
去年もそうだった。クラス教室には入るべくもない、さりとて家には帰れない事情がある。進退きわまった俺の行き先とすれば、ここをおいて他にありようはずがない。
今年とて自然とこの場に足が向くだけだった。
そんな心中を汲んでくれたのか、水木先生はそうか……と呟き、俺に入室をうながした。俺はおずおずと先生の言われた通りにする。
水木先生の憫笑と薬品の匂いが俺を迎えてくれた。
春風のまにまに、桜の花びらが飄々と舞う四月のはじめ。
本来ならば実質的に二年生に進級し、来たる青春や新入生に万感を馳せる今時分——
俺は今年も、保健室登校を抜け出すことができなかった。