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バンドルの箱  作者: 篝レオ aka 篝レイ
深山那月編
18/64

三章 メイド・イン・冥土(完)

 今日は学校にも行かず、けれども制服姿で、忙しなさそうにしていた拓篤。あの日仲違いして、未だに仲直りしていない俺の義兄弟。

 今日、いつもと違ったことは、いつものように乱暴を振るわなかったこと。そして、

 あの舌打ちが、お別れの合図——

 頰を何かが流れるような感覚が伝うや、俺は走り出していた。後ろに響く二人の呼びかけも聞かずに。


「おい! マナちゃん⁉︎」


 背後から頻りに、慌てた声が聞こえたような気がしたけど聞こえないふりをした。そして、陽菜と後で落ち合う約束をしたけれどそれも守れそうにない。

 靴も履き替えずに校舎を出て、そのまま学校を飛びだした。

 拓篤がどこに行ったのかもわからないし、自分がどこに向かおうとしているのかもわからない。ただ本能にまかせて足を走らせる、それだけだった。取り巻きふたりにこの顔を見られたくなくて。走って振り切る涙を置き去りにして、そうして走っていれば拓篤に追いつけるのではないかと幻想を抱いて。

 赤黒く染まった道を、一人駆けていく。

 着替えだけでも済ませてから来ればよかったと、今さらながら後悔した。スカートに歩幅を遮られてまだるっこしいことこの上ない。

 涙で視界がぼやけている。こんなことはもう、慣れっこだったはずなのに。なおも、俺は泣いていたのだ。

 両親は俺が留守の間にいなくなり、陽菜はいつの間にいなくなり、今度は拓篤なのか。

 どうして皆こう、何も言ってくれないのか……。

 何も言ってくれないから、こうして不随意に涙が出るんじゃないか。

 何も言わずに去ってしまうから、急に失なうのが怖いから、失なうものを持たないようにしたんじゃないか。この足の傷を最後に関係という、痛覚を絶とうとしたんじゃないか。

 走りづめの疲れにとうとう足が止まる。目の前には、「希望の箱庭」の看板。

 結局、俺の足が届き得る場所なんてのはここくらいしかないのだ。

 門をくぐり、ドアを開け放って中に入る。上履きを無作為に脱ぎ捨てて奥の部屋へと急ぐ。

 彼の部屋には、昔はよく訪れたものだった。

 陽菜たちを巻き込んでさまざまな遊びや悪戯に耽り、喜怒哀楽を共にした思い出の部屋。

 陽菜がいなくなって、それをきっかけに、拓篤と仲違いしてからは足を運ぶこともなくなったけど。

 ノブを捻って、扉をひらく。そこには、何もかもが消え失せていた。

 拓篤はもちろん、ベッドも机も、一切合切。そこにあった思い出も、無い。

 ふいに訪れた心のしじまに、俺はただ立ち尽くす。


「拓篤……」


 口数の少ない俺が洩らした、最近増えてきた独り言。

 来月の初めには養子に行ってしまうらしかった、俺の義兄弟。

 あの日、仲違いしたままの俺の天敵。


「……さようなら」


 今宵の月も待たずして拓篤は、もういない。

 無の空間にひっそりと、寂寞感が満ち溢れた。


  ◇◆◇


 押し寄せる不快感と体調不良に、俺は絶食三日目の気分を知る。

 外界との交わりを断ち切って俺は、暗く沈んだ自室に篭っていた。体調不良とはいえ今さらお腹なんて空かないし、外に出る元気もない。誰が見ても廃人だった。

 と、暗く閉ざされた部屋にノックの音が響いた。そのノック音の調子から流星のものだと判る。推測通り、ドアの向こうから流星が語りかけてきた。


「那月、ご飯————ここ置いとくから」


 本当は、直接ドアを開けて受け取って欲しかったのだろう。甲斐甲斐しく言い残すと流星はどこぞへと戻って行った。俺は返事をせず耳で彼を見送る。

 あんなに嫌がっていた女装も、今となってはすっかり定着してしまっている。かれこれ三日前から着替える気力がまったく湧かない。この暗闇の中では、もはや男も女も関係ない。

 陽菜の制服を汚してしまった、という罪悪感すら鈍っていた。むしろ着替えることのほうが、いやらしく思えてしまうのだから慣れというのはおそろしい。

 汗と涙に濡れた布団の不快感が、いまや心地よい。一生包まっていたいという気分すらあった。

 食欲はとんとない。口にしても、恐らく戻してしまうだろう。だから本当は食べたくもない。

 でも、あれだけ無下にしてもなお見限ることなく俺にご飯を供してくれる、皆の優しさを踏みにじることだけが心苦しかった。

 ここ数日、陽菜は、毎日ここを訪れては俺を気にかけているようだった。

 数日ぶりに時刻を気にしてみる。ちょうど夕飯時分だった。

 ありっ丈の力を振り絞って、ほぼ三日ぶりの食料を取りに部屋の外へ出ようとする。

 ドアの輪郭から、微かに外の光が漏れていた。それでも、希望の光だとは思いだにしない。

 鍵を開けておそるおそるドアを開くと、入口のすぐ傍に、夕食のトレーが置かれていた。ご丁寧にも皿ごとにラップが掛けてあった。しゃがんでトレーを拾い上げ、早々に部屋に戻ろうとしたその時、頭上から声が降ってきた。


「ようやく顔を出したわね」


 しゃがんだ姿勢のまま視線を上げると、すぐ眼前に陽菜が待ち構えていた。寝不足なのか眼が赤く充血しており、まるで兎のようにも見える。学校帰りに立ち寄ったのだろう、制服姿だった。

 俺は慌ててドアを閉めようと手を引っ込めるが、その間隙にはすでに陽菜の左足が入り込んでおり締め切ることができない。

 足首をドアに圧迫されて陽菜は苦悶の表情を浮かべた。それでも情けない悲鳴をあげることはなく、小さく呻く程度だった。

 俺は謝ることもなく、ただ気遣わしげに陽菜を眺めているだけ。眼前に呻く陽菜の顔があっても、俺は込めた力を緩めることはない。でも。


「開けて」


 小さな声には、大きな力があった。俺はみずからドアを開くことはなかったが、ノブから手を離した。

 すると陽菜は、問答無用で扉を開けっぴろげにする。廊下の灯りによって部屋が薄く照らされ、俺の三日間の不摂生が明らかになった。


「ひっどい部屋……」


 ずかずかと上がり込み、部屋の照明を点けながら、陽菜が率直な感想をもらす。その通りなので反論はしない。

 惨状を目の当たりにしても、陽菜は眉ひとつ動かさずに、部屋を矯めつ眇めつしている。俺の手から夕食のトレーをひったくり、室内を奥に進んでいった。さっきので足が痛むのか、足どりはふらふらとおぼつかない。

 散乱した参考書やらをすんでのところで避けながら、ベッドを目指して歩いていった。枕もとにトレーを置くと陽菜もすぐ傍らに腰をおろす。俺はそのようすをドアの付近で無言で眺めていた。

 陽菜は、自分の隣をぽんぽんと叩いて俺を呼び寄せる。俺は逆らうことなく陽菜のもとへと歩み寄り、指定された場所に腰を下ろした。

 陽菜はそれを見届けると俺の膝の上にトレーを載せた。


「お食べなさい」


 お腹は空いていない。でも言われるまでもなく、そうするつもりだった。

 ラップを剥がすとまだ、微かに湯気が上がっている。

 トレーから箸を拾い、箸の両端を両手でちょこんと摘んで恭しくいただきますをする。その床しい動作に陽菜がくすりと微笑んだ。

 野菜スープを一口含むと、塩加減がまるでなってなくてむせ返るかと思った。ご飯は明らかに水の分量を間違えたようで、ぱさぱさと硬い。主菜のハンバーグについては、黒焦げのグラデーションが爆弾的にデンジャラスだ。付け合わせのポテトは皮むきが荒いし芽の処理も甘い。

 どう見ても流星の所業ではないし、星夜や星斗でもないだろう。黒先院長はああ見えて、俺よりも料理が上手だ。

 となると該当する人は、一人しかいない。


「これ陽菜が……?」


 問うと、陽菜は自信満々に首肯した。


「そうよ。あたしが作ったってすぐにわかるなんて、あたしってよほど才能があるのね!」


 そう信じて疑わないところ、タチが悪い。絶対に上達しないタイプの人間だ。でも。


「ありがとう」


 毒気を抜かれたのか、陽菜が決まり悪そうな顔をする。

 嬉しかったことは確かだ。だから箸は止まらないし、胃袋だって食中毒や食あたりの危険を恐れずにご飯を求めつづける。

 完食までにそう時間はかからなかった。

 夕食を終えてトレーに箸を戻すと、それを契機に再び部屋が静まりかえった。俺も陽菜も、黙ってどこでもない遠くを見つめている。

 陽菜がごり押しに部屋に押し入ってきたのだから、責任をもって会話を絶やさないでほしいものだった。


「拓篤だけど」


 その願いが通じたのか陽菜は口を開いた。でもそれは、禁忌ともいえる話題だった。

 俺は顔を逸らし、興味がないような仕草をとるが陽菜はかまわずに続ける。


「天ノあまのかわ市の建築士の方に、引き取られたらしいわ」

 天の河市というのは、ここ銀ノ河市からやや遠く離れた所に位置する町だ。車で一時間ほどの距離だろうか。県を同じくするものの土地柄的に、交通に不便な町とされている。

 里親が建築士というのは、妥当なところだろう。拓篤は、銀ノ河高校の建築科に属し学年においても優秀な成績を修めていたらしい。先生たちにも将来を嘱望されていたようだ。


「学校を自主退学して、親許に付いて建築の勉強するみたい」


 それはすごい。さぞかし権威のある家なのだろう。でなければ、高校卒業や大学進学の芽を摘んでまで自分の元で育てたいなんて考えないだろう。


「聞いてるの?」


 陽菜が不満げな声を上げる。


「聞いてるよ」


 俺はことさら冷たく言い返す。そんなこと今さら、俺には関係のない話だ。


「拓篤とはもう、会えないかもしれないってことよ」


 拓篤が学校をやめたら、確かにそうなるかもしれない。でも、その事実とて今さらの話だ。どうしようもないし、どうしようとも思わない。そんなのは、とっくに覚悟してた。

 でも……耐えられなくて、こんなにもつらいのか。

 だからこそ、そんな己を鼓舞するように、冷たくこう言い切る。


「もう会いたいとも思わないよ」


 パン——、と乾いた音が響いた。陽菜が俺の頰に平手を打ったのだ。

 その乾いた痛みは俺の目元に、ひいては頰に潤いをもたらす。

 頰の切るような鋭い痛みに耐えつつ、来る陽菜の罵声を待つ。


「じゃあ、どうして泣くの」


 だが陽菜の声は、予想に反して優しい。今しがた平手を浴びせた人とは思えなかった。見ると、困ったように眉をハの字にしつつ口元は穏やかな笑みという、なんとも形容しがたい表情をしていた。慈愛に満ちた表情とでも言おうか。


「泣いてないし……、泣いてない……」


 そんなに優しくされると余計に拍車がかかってしまうじゃないか、この得体の知れない感情に。俺の弱いところが、顔を出してしまう。

 陽菜は慈しむように、そっと俺を抱きしめた。

 彼女のやわらかい身体が、俺の固く縮こまった心をやさしく包み込んでいるようだった。


「だって那月、お母さんとお父さんが死んじゃって、ここに来たばかりの頃の顔してる」


 その慈しみの声が、震えていた。美しい歌声として震わせるのでもなく、恐怖に震えるのでもなく、涙に震えていたのだ。


「……じゃあ、陽菜がいなくなった時も……こんな顔してたよ」


 お返しとばかりに、俺も震えた声で言い返すと、陽菜の抱きしめる力が少し強くなった。女の子の甘い香りが鼻をくすぐる。


「……ごめんなさい」


 それは、何も言わずに去ったことへの謝罪? 去ったこと自体に対する謝罪?

 それはわからないが返答はどのみち、ひとつだ。


「もういいよ、過ぎたことだし」


 そう、もう過ぎたことなのだ。だからそれを赦すしかないし、認めるしかない。


「ありがとう。ごめんね」


 陽菜は、素直に謝る。俺は陽菜をこれ以上責めることはせず、話を本題へと繋げる。


「だから、拓篤も同じだよ。俺がいくら望んだって、願ったってもう過ぎたことなんだから、終わったことなんだから。手遅れなんだよ」


 これを失えば、俺はもう何も失わなくて済む。それが最善なのだ。

 すると、陽菜は腕に馬鹿力を込めて俺を頭をギュッと締め上げた。思わず周りにロープを探しそうになった。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い‼︎」


 俺の頭を一頻り苦しめた後、俄かに俺を解放すると今度は、俺の両肩を力強く掴んで強い口調で言い放った。


「那月の両親はもう戻ってこないけど、アタシはこうして戻ってきた! アタシは、ここにいる! それが答えよ! 両親の“こと”にかこつけて、出来るかもしれないことまで諦めるな深山那月‼︎」


 その声にはっとする。陽菜はいつも、正論を言う。

 全くもってその通りだった。陽菜は、ここにいる。理由はどうあれ戻ってきたのだ。

 ならば、拓篤だってあるいは——とは思うが。


「でも、どうすればいいのかわらんないよ……」


 陽菜みたいな偶然は、もう起こらないかもしれない。一緒にいたい気持ちはあっても、現実がそれを許さない。拓篤が俺を赦さない。そもそも、方法もわからない。

 だが、陽菜は確信めいた笑みを浮かべていた。何故かぞくりとしてしまう。自身の考えに絶対的自信のあるときの顔だった。


「那月は、拓篤にどうしてほしいの?」


 突然の問いだった。だが迷わずに俺はそれに答える。ここへきて自分を欺いたって、意味はない。


「……一緒にいてほしい。一緒にいたい」


 一緒にいてもいなくても、俺はどのみち傷つく、人は傷つく。

 俺たちは人間だ。だったら身を寄せあって生きた方が、いいに決まってる。


「なら、それを拓篤に伝えればいいのよ」


 だが、それを簡単に言えるなら訳ないのだ。それを否定したのは俺なのだから。

 学校において保健室登校の俺は、迂闊に拓篤には会いに行けないわけで、そもそも伝える以前の話だ。

 それに、養子縁組を白紙に戻すとなると、いくつもの問題が絡んでくる。先方の関係もあり俺と拓篤だけの話では済まない。

 何より直接、拓篤に拒絶されるかもしれないのが怖い。


「でも……」


 俺が言い淀んでいると陽菜はどこからか一枚の広報紙を取り出し、びしっと俺の前に提示した。


「里親の方、ハウスキーパーを募集してるらしいの」


 その紙には陽菜が今言ったような内容が、詳らかに書かれていた。


「ハウスキーパー?」


 ゴールキーパーがゴールを守る役割だということを考えると、ハウスキーパーとは家を守るのが仕事——自宅警備員、つまりニートみたいなものだろうか?


「家政婦さん、ってところかしらね。ちなみに募集してるのは、女性だけなの」

「へ、へー……」


 陽菜の説明に、嫌な予感しかしない。が、それはさておき家政婦を雇うなんて、経済的に相当、余裕があるらしい。


「男性の使用人は、もう二人いるようね。だから女性限定らしいわ」

「つまり、陽菜が家政婦としてその家に潜入して拓篤を説得して連れ帰ると?」


 俺が逃げの提案をすると、陽菜は即座に否定した。

「何言ってるの、那月が行くに決まってるじゃない。でないと意味がないんだから」


 まぁ、そんなことだろうとは薄々思っていた。


「ちなみにいつ?」

「明日」


 という急な不条理であったとしても、宇佐美陽菜にあって逃亡という行為は許されそうにない。

 ふと足もとを見る。スカートに汚れる男が、ここにいた。もう今さらなのか……。


「ちょっと、シャワー浴びてくる」


 告げて俺はゆっくりと立ち上がり、着替えを持って黙って部屋を出ていく。もっともな名分もあり、陽菜は引き止めるようなことはしなかった。でも、

 この汚れは、シャワー程度ではすすぐことはできないよう気がする。


  ◇◆◇


 翌朝。

 雲ひとつない晴れ空が広がっている。

 空はこんなに青いのにと一瞬思ったけど、よくよく考えてみたら俺の心のほうが遥かにブルーだった……。

 つがいの雀が鳴きながら、空を翔けていく。俺のほうが泣きたかった。


「じゃ、頑張んなさい」


 俺の身繕いを手伝いながら陽菜が激励した。陽菜は、学校の制服に身を包み、これから登校するようだ。友達ぜんぜんいないくせにそれを気にする様子は皆目ない。

 俺の身なりも、一応は制服と呼べるのだろうか。ただし陽菜の着ているようなブレザーではないし、さりとてセーラー服ということもない。

 校則に従うのではなく、ただ一人の主に従えるための忠誠の装束——メイド服である。メイド服というか、いつぞやのアリスの衣装だけど。

 昨日の今日ではあるが、これから、ハウスキーパー改めメイドの初出勤というわけだ。面接も採用決定も、すべて昨日の出来事だ。

 黒先院長にはあらまし話は通してある。拓篤ちゃんが戻ってくるなら大賛成! とのことだった。

 ちなみに、このことを拓篤は知らない。今頃通学のために、市外から車で向かっていることだろう。自主退学が本決まりになるまでの一週間は、拓篤はれっきとした銀ノ河高校の生徒だ。

 七日である。拓篤の退学届が正式に受理されるまでのこの限られた期間で拓篤と和解して、養子縁組を解消、退学願いを撤廃せしめなくてはならない。

 向こう一週間は住み込みで働くことになっているので、必要な物はあらかじめ先方に郵送しており夕方には送達されるのではないだろうか。


「そろそろ時間じゃない?」


 陽菜がその細くて抜けるように白い腕に巻かれた、可愛らしい腕時計を見ながら教えてくれる。俺は施設に接した道路の車線上、その彼方を眺めた。

 生え抜きの執事さんが、お迎えに来てくれることになっているのだ。そろそろ頃合いだと思うのだが。

 そのとき、視線の遥か向こうから黒光りする車がその姿を現した。渋いエンジン音をあげてこちらに向かってくる。

 運転席には初老の男性、約束の執事さんと思しき人が乗っている。どうやら、時間通りにおいでなさったようだ。それにしてもずいぶんと懐かしい車に乗っていらっしゃる。

 古式こしきながらも優美なフォルム、レトロな趣を感じさせるその振る舞いは、二十世紀中葉に造られたとされる名車、ブルーバードp331である。


「なんかカエルみたいね」


 陽菜が身もふたもない感想を口にした。まあ確かに、そのとおりだけど。レトロカーなんて、得てしてカエルみたいな風采ではないだろうか。

 ブルーバードという名前は、かの有名なメーテルリンクの童話がその由来だ。

 青い鳥はしばしば「幸せ」の象徴とされることがある。とりもなおさず、幸せが俺を迎えに来たということである。まあ、言うまでもなく俺の心は純然たるブルーだし希望とは縁遠いわけだが。どちらかというと、地獄の一丁目行きの車という印象。

 ブルーバードが俺の目の前で、ゆっくりと止まる。そしてエンジンも止まった。

 執事さんらしき人が運転席を降り、俺と目が合うと折り目正しく会釈してきた。着こなした燕尾服がものっそ執事然としていて、そしてその一挙手一投足が堂に入っているというか、わざとらしさがないのだ。


「では参りましょう」

「はい」


 なるべく女性っぽさを意識して振る舞ってみせる。昨日あの後、陽菜と一緒に女性、およびメイドの行住坐臥に関する特訓を夜遅くまでしたのだ。

 大丈夫、わたしは女の子、超完璧美少女メイド。うふふ。


「マナ」


 ブルーバードのもとへ向かおうとするところを、陽菜に呼び止められた。特訓通り女性然として、やさしい笑顔で陽菜に振り返る。


「なんですか、陽菜?」

「可愛いわよ」


 俺は嫋やかな女性然として向ける笑顔に、地獄へ堕ちろと殺気を籠めてやった。もっとも、地獄に赴くのは俺の方なんだけどさ。

 執事さんが後部座席のドアを開いてくれたので、俺は一礼して悠然と乗り込む。すると、ゆっくりとドアが閉じられた。そして執事さんは、割合ゆっくりと自分の座席に戻り、手慣れた様子でエンジンをかけた。時代がかった音を立てて、車体が小刻みに揺れる。

 そして車が発進した。

 不安や期待、希望と鬱とを乗せて、軽快ならぬガタゴトと揺れを伴いながら、スタートを切ったのだった。

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