三章 メイド・イン・冥土(5)
刹那とも思える時間の正体は二時間という、とても長いものだった。時計を見るとそろそろ夕飯どきだった。
時は金なりという言葉を最も切実に感ずるのが恐らく、バンドマンという生き物だろう。一時間千円内外のスタジオ使用料の運命から逃れる術はないものか、それがバンドマンの命題ではないだろうか。俺たちはその術をここに手に入れたわけだ。
とは言えここは学校の敷地内であり、この部屋は本来立ち入りが禁止とされている場所だ。下手すると学校自体を出入り禁止にされてしまう可能性も否めない。
「これでだいたい綺麗になったわね」
「ですな」
早々と後片づけを済ませ、部屋を出る準備を整えた。
普通のレンタルスタジオにおいても、後の人のことを考えて予定よりも早く撤収を始めるのが常識である。もちろん、知識として知っているだけで実践したことないけど。そもそもスタジオに行ったことないし。
「それにしても那月、あんた演奏スタイル変えたのね」
「え、そんなに変わった?」
昔の演奏スタイルはどうだったろうか。確か、難しいフレーズやテクニックを見境なく取り入れていたような気がする。そして楽曲を台無しにしていたっけ。
それではいけない、と後に学んだのだ。歌曲となれば、そんな身勝手はまかり通らないのだと。
何もしないことも、手段の一つであることを。
個々の役割をしっかり活かして、曲を生かすことが重要なのだと。
「歌ってて気持ちよかった!」
陽菜からこの上ない賞賛をいただく。俺だって気持ちよかった。
ミュージシャンにおけるジャム・セッションは、性行為の比でない快感を伴うものであるという説がある。確かにその通りだと思う。性行為なんてしたことないけど。
さきほどの快感が強すぎて、いまだ現実についていけていない。
疲れからか、ふらふらした足取りで階段を上り、ふたりして出口を目指す。
そしてドアの前に差し掛かり、それを見ても、なお俺らは現実について行けていない。
「ガラス、割れてるわね」
だが、陽菜のその一言でむんずと現実に引き戻された。入り口の扉に嵌められたガラスの絵が割れて、床に散っていたのだ。もうリズムだの音符だの、どうでもよくなっていた。
時価一千万という負債額が、現実的に脳内を埋め尽くす。
……先ほどの演奏の音圧で割れたのだろうか? それとも、その音圧でガラスの縁が外れて落下して割れたのだろうか。それはわからないが……。
「どうしよう」
という俺の絶望に満ちた文句を、陽菜はさして問題にしていないようだった。
「弁償すればいいじゃない、何も難しいことはないわよ。確かに高そうではあるけど所詮は、ガラスでしょ?」
一千万の捻出が易いのなら、この世に債務者という人種はいないはずだ。
このガラス絵画の価値を、具体的な数字でもって教えると陽菜は目が点になった。それ見たことか。
「え……そん……なに?」
今さらのように声を震わせている。同じ、声の震えでも、先ほどの巧みな歌声とはまるで別物だ。
そのとき、放送室からアナウンスのチャイムが響く。びくっと条件反射的に肩を震わせしまう俺と陽菜。
「生徒の呼び出しをします」
やや歳を感じさせる女性教員の声だった。声からするに、教頭あたりだろうか。
俺——おそらくは陽菜も、いま息をしていない。このガラスにあって、呼び出しを受ける理由があった。
校内のスピーカー越しに息を吸い込む音が聞こえる。
「二年、月宮マナ。まだ校内に残ってましたら至急、職員室まで来るように。繰り返します」
その名前には聞き覚えがあった。というか俺のことだった。
何事かと陽菜と顔を見合わせる。二人してちんぷんかんぷんだった。
「那月! なんで! よりにもよってマナとして! 呼び出し受けてるのよ!」
いわれもなく陽菜に詰問される。いや、俺だって訳がわからない。ガラスの用件として二人して呼び出されるならともかく、月宮マナ名義で呼ばれる理由は皆目わからない。
「全然心当たりないんだけど」
とはいえ、こうして呼び出しを受けているのだから仕方がない。それに、どのみち職員室には立ち寄らなくてはいけないのだ。この割れたガラスについて水木先生に裁定を求めに。
「じゃあ俺は教頭の所に行くから、陽菜が水木先生のとこ行ってこれの報告をよろしく!」
そう言い残して俺はそそくさと職員室に向かおうとするが、やはり、陽菜に首根っこを掴まれる。ガラスの責任を押し付けようとしたのがバレバレだったか。
だが、どうやら違ったらしい。
「那月、呼び出しされてるのは、月宮マナちゃんなんだから……」
真実俺って、業が深い。
◇◆◇
保健室の姿見を見ると、またぞろ女装をさせられている自分がいた。
先日よりもわりに早くメイクがアップすると、陽菜はエナメルバッグから制服を取り出した。見るからに女子用のブレザーだ。
「今日渡されたのよ。夏用だけど暗いし、たぶん見分けなんてつかないと思うわ」
ひょいと手渡される。夏物のブレザーは生地が薄く作られているのか、いくらか軽かった。
いらぬ勘を頼りに着進めていくのだが、やはり陽菜の物、サイズ的にギリギリだ。メイド服の時の二の舞いになっている。
陽菜が着ている冬用の制服と比べてみても、なるほど違いはわからない。ただし、サイズ的に違和感が気になるのは問題だろう。
そして、胸につけた偽乳ブラはもうすっかり慣れてしまって違和感の欠片もない。女子高生のバストとしては違和感が飛び出てるけど。
「やっぱ、運動着じゃだめ?」
が陽菜はそれを認めない。運動着は、変に怪しまれる可能性があるとのことだった。俺的には部活がてら、という大義名分があると思うのだが。
異論を押さえつけられるように、最後にウィッグを戴き女装が整った。相変わらず整った目鼻立ちねアタシ。
「じゃあ、行ってくるわね、うふふ……」
俺は狂れたように告げて、保健室を後にする。陽菜は後から向かうらしい。ガラスの後始末やその他諸々の事後処理が残っているようだ。一千万のお咎めを受けるくらいなら、嬉々として女装するわよ、うふふ。
◇◆◇
夕方の校内は、既にしてほの暗かった。非常口の蛍光看板がぼんやりと廊下に光を落としている。そんな状況にあって独り歩き。自分の足音にすらおどろおどろしさを覚えてしまう。
渡り廊下に差しかかると、中庭の大きな銀杏の木が風に揺れていた。夕陽を浴びることなくそれは黒い影として、不気味にさんざめいている。ぞくりと怖気が背中を走ると、足は急くようにして昇降口を目指す。
昇降口に入っても、心の騒ぎはおさまらない。むしろ輪にかけて酷くなったような気がする。思わずスカートをぎゅっと握りしめるようにして手汗を拭った。
この言い知れぬ緊張感は外発的なものなのか、あるいは女装に対する背徳感がその原因なのかは判らない。だからこそ恐ろしかった。
学年棟に入ると、職員室の方から光が漏れていた。足早にそちらへ向かう。すると職員室から次第に声が聞こえてきた。
「だからいるんだって! 同じ二年だって!」
この、世の中を舐めくさっているような物言いは、もはや聞き間違いようもない。拓篤の取り巻きが一人、おっぱい大好きラッパーの青髪くんだ。続いて、緑髪くんが声を荒げる。
「あの子がホラ吹いたってのかよ! なぁ!」
青緑ラッパーふたりの言辞のその後に、教頭とおぼしき女性の困ったような声が上がった。どうやら青髪くんと緑髪くんが、教頭に詰め寄っているらしい。
「ですから、全校生徒のデータを参照してみましたがそのような名前の生徒は在籍していません。他校の生徒と間違えているのではないですか?」
その事務的な答弁にわかりやすく憤りを露わにする取り巻き二人。
三者のやり取りを耳にして、俺は職員室に踏み入れかけた足を引っ込めた。気配を消して廊下の壁にぴたりと張りつく。
職員室には他に人の気配はない。話からするに俺を呼び出したのは、取り巻きふたりであると考えるのが妥当か。それなら呼びだす名前が「月宮マナ」だということにも合点がいくし、さきほど取り巻きふたりが誰かを探していたことも説明がつく。
しかし、困ったことになった。
このまま、のこのこと三人の前に姿を現せば、教頭は間違いなく俺の存在に疑義を見出すだろう。全校生徒のデータを参照したにも関わらず挙がらなかった存在が、目の前に現れるのだから。それは不審者に他ならない。
取り巻きふたりが再び教頭に食ってかかる。
「もっかい校内放送してくれよ! 頼むよ!」
「大事な用なんだよ! 急いでるんだよ!」
彼らが俺にいったい何用だろうか。彼らの口調は礼を失していたが、故にこそ真剣なのだろう。俺としてもその用件は気になるところではある。
「わかりました……。あと一回だけですよ?」
彼らの嘆願に、半ば呆れるように教頭先生がその申し入れを了解した。
すると薄い壁一枚隔てた向こう側から、教頭が席を立つような気配がした。俺は慌ててどこか身を隠せるような場所を探す。
と、職員用トイレに当たりをつけて、競歩ばりにそちらに近づく。男女のどちらに入ろうかと逡巡して、焦燥感にまかせて男性用のほうへ駆け込んだ。そして中から外のようすを窺う。
こつこつ、とヒールが床を叩く音がトイレを通り過ぎていき、間一髪の奇跡に胸をなで下ろす。完全に気配が去ったことを確認してから俺はそっとトイレを出た。
足音を忍ばせて職員室まで早足で向かい、室内の様子を覗いてみる。廊下側すぐ手前のデスクの周辺に彼らはいた。他には誰もいなかった。
こんこん、と手近にドアを叩いて、取り巻き二人の注意を引きつける。取り巻き二人が即座に反応し駆け寄ってきた。
「マナちゃん! よかった幻じゃなかったぜ」
「心配したぜ! 来ないのかと思ってよ!」
大声で騒ぐふたりに、人差し指をみずからの口に充てて「静かに」のジェスチャーをしてみせる。ふたりは両手で口を塞いでおどけた。
「昇降口に行きましょう」
俺が小声で提案すると、ふたりは異存なく頷いた。
すっかり暗くなった昇降口にたどり着くと、俺は前置きなく切りだす。
「で、話ってなんですか?」
ふたりは、言えば得に、顔を見合わせどちらともなく苦笑した。こちらとしてもそんな煮え切らない態度では、納得が行かない。茶化すなという意思を込めてもう一度訊ねる。
「話って、なんですか?」
にべない態度を察したのか、取り巻きふたりはおずおずと話し始めた。
「……あ、ああ。それが拓篤さんの養子縁組の話なんだけど」
嫌な予感が胸を刺した。聞かずとも内容がわかってしまったような、既視感。
「どうやら、今月のことだったらしくて、今日の昼過ぎにはもう出発しちまったんだ」
その事実が、俺の胸をぐさりと突き刺した。