三章 メイド・イン・冥土(1)
亀井拓篤が、決別の証として俺の足に傷跡を残したその日より、
拓篤は暴力を厭わない、不良に身を落とした。
生来優しい性格の持ち主だ。性に合わない不良を演じることでしか、俺への暴挙を清算できなかったのだろう。
そもそもどうして、俺たちは仲違いをすることになったのか——
両親が死んで、陽菜がいなくなり、拓人もいなくなり、そのたび俺は傷ついた。
人は出会えば、別れるのだ。
今はいる拓篤だって、いついなくなるか分からない。
それが怖かったのだ。
ふと、いなくなって、それまでの楽しかった思い出が全部、虚しくなるくらいだったら。
裏切られるくらいなら、自ら終わりにしてやろうと思ったのだ。理性を持つ者として当然の帰結だと思う。
これ以上傷つけられたら、俺は自分を保てなくなる、壊れてしまうと思った。
だから自ら終わりにすれば、傷つかなくて済む。思い出も、傷つかなくて済む。
だから、言ったのだ。だが俺は口下手だったのだ。
「拓篤なんて、もう必要ない」
言った後で気づいた。この言辞は酷すぎると。
孤児である拓篤に。それも、親に捨てられた拓篤に。その傷を抉るように言ってしまったのだ。
そして、拓篤の答えは、俺の膝への蹴りだった。
それは俺の言葉に対する拒絶ではなく、俺に対する拒絶だった。
違うのです。そんなことを言いたかったのではないのです。そう釈明することもできない。蹴りの痛みに、拒絶の重さに、もうどうでもよくなった。
どうあれ、俺はそれを望んでいたのだから。
ただ俺たちは孤児だ。普通に暮らしていても、傷つく機会は普通の人より、多いかもしれない。だったら身を寄せ合っていたほうが傷が和らぐのではないか?
俺は両親を事故で亡くした。拓篤は生まれる前に父親を病気で亡くし、母には捨てられた。境遇としては俺よりもデリケートだ。
だからこそ、身を寄せ合っていたほうが良いのかもしれない。
それを俺は否定したんだ。
そうすることでしか、自分を保てなかったのだ。
◇◆◇
翌週、月曜日の朝。
寝ぼけ眼をこすりながら時計をみると登校時間を三十分も過ぎていた。言うまでもなく休日の不摂生が祟ったのだろう。かばっ、とベッドから飛び起きる。
得意の早着替えもさして用をなさない。もう手遅れなのだから。
かと言って、急がずにはいられないわけで、俺は洗顔のために勢いよく部屋を飛びだした。
そのとき、俺の行く手を遮る何かが現前し、勢いそのままに衝突してしまった。
矮小な俺は小さく呻くと、いとも容易く後ろに倒れてしまう。
「痛ってぇな」
冷徹な声が降りかかり、心臓が凍りかけた。
恐怖に押し潰されそうになりながらもそちらを見上げると、俺を見下ろすように仁王立ちする男がいた。
黒先院長ほどではないにせよ充分に逞しい筋骨、天を衝くほどの高身長、強面ながらも求心力を兼ね備えたその相好、などなどの魅力が満載されているにもかかわらず、着崩された制服と眉間の物々しい怒り皺の印象が強すぎて俺には恐怖の対象でしかない。
この施設の最年長者、拓篤との遭遇だ。
「ごめんなさい……」
とりあえず謝罪、これ社会の常識。すると——
無言で胸ぐらを掴まれ、背中を壁に叩きつけられ、ナイフとか鈍器よりも凶悪なその膂力をもってくびり殺されかける——それがいつもの流れだ。
今日も今日とて同じこと。俺は歯を食いしばってそれに備えた。
だが待てど、拓篤が俺に危害を加えることはなく。
「……ち」
と舌打ちしてその場から立ち去って行った。
常から外れた対応に一瞬戸惑うも、むっくりと起き上がり、視線で拓篤の後を追う。
拓篤はずんずんと、荒々しい歩調で自室に戻っていった。そしてパタリ、と自室のドアを閉める。
普段なら殺されそうになるまで責められるか、死にたくなるほど責められるかの、二通りなのに。妙なこともあるものだ。
人は逝く直前になると、いつもとは異なる性格を見せることがあるのだという。俺の両親がまさしくそうだった。
だからこそ近いうちに、拓篤が遠くへ行ってしまうのではないかという予感がしてならなかった。いや、彼は来月にはもう、遠くへ行ってしまうのだった。
と、ふと疑問が湧く。
拓篤はいつも通り、荒々しく制服を着ているが学校にも行かずにどうしたのだろう?
まぁ人のことは言えないか。こんな所で惚けている暇はない。
俺は急いで洗面所での用事を済ませ、自室で制服に着替え、ダイニングで朝食のパンを頬ばり、鞄をひっつかむとダイニングを後にした。
玄関に到着すると三和土には二人分の革靴が綺麗に並んであった。俺の小さな革靴と、大きいぼろぼろの革靴が拓篤のものだ。革靴だけ見れば仲良しなんだけどな。
下駄箱の上に置かれた時計をちらと見ると、もうじきホームルームが終わろうかという時刻に差し掛かっている。拓篤の動向は気になるところだが、急いで学校へ行かないことには水木先生にどやされてしまう。
一応玄関に鍵をかけてから、学校へと急いだ。
家から学校までは徒歩十五分といった所。遠いというほどではないが、全力疾走となると相応には疲れる。学校に到着する頃には汗だくになっていた。
校門をくぐると、校庭の方からホイッスルの音が規則的に聞こえてきた。それとはワンテンポ遅れて、やる気なさげな掛け声が木霊する。どうやら体育の授業をやっているらしい。
俺はまず全校生徒が共同で使う、昇降口へと立ち寄る。俺の上履きを取りに行くのだ。
保健室登校生といえども俺の下駄箱はそこにしかないわけで、いつもは早めに登校することで他の生徒とかち合うことから逃れている。もっとも、今日は逆に遅すぎて誰もいないわけだから不幸中の幸いではあった。
さっさと上履きに履き替えて、目的地である特別教室棟へ向かう。
昇降口に面した通路を、南に進むと教室棟。一階は職員室、校長室、応接室などのフロアとなっている。学年ごとの教室は二階より上階という仕組み。
俺は一般生徒とは逆行すべく、北進する。すると渡り廊下に差し掛かった。
吹き曝しの渡り廊下に面した中庭を眺めながら、北に位置する特別教室棟を目指して歩みを進める。
初春のさわやかな風が、さらっと髪をなでた。
木々は踊り、うららかな春に花を添える。やはり春はいいものだな。
だがこれが秋になると、この感情は一変する。
中庭のど真ん中に植わった大きな銀杏の木は、あと半年もすれば異臭を放つようになるのだ。銀ノ河高校において、秋になると急に風邪が流行りだすという風説があったりするが、要は銀杏の臭気を防ぐためのマスクが原因なんだろうな。
渡り廊下を渡過し、特別教室棟に入ると俺はすぐに異変に気づいた。
いつもは深閑とした特別教室棟が騒がしい。
はてと疑問に思いながら階段をのぼっていると、運動着姿の男子生徒ふたりとすれ違った。会話に夢中で俺のことは気にもかけていないらしい。幸いだった。
「やっべ、身長縮んじまったよ」
「ドンマイ、牛乳飲めよ」
実に他愛ない会話の中に、この騒がしさの原因があった。
そうだった。今日は身体測定の日だった。
保健室登校の身としては、座りの悪い一日。
去年は水木先生の計らいで身体測定が終わるまでの間、隣の理科室に避難させてもらったが今年もそんなところだろうか?
四階の階段をのぼりきると棟の中程にある保健室から、男子生徒の長蛇の列が棟の最端のこちらまで続いていた。珍百景だった。
特別教室棟四階は、手前より技術室、化学室、保健室、理科室、最奥が家庭科室となっている。廊下がこれだけ混雑しているということは、保健室内は輪をかけてごった返していることが予想される。
これではとても保健室に入ることはできそうにない。俺は前例を鑑みて理科室を目指すことにした。
どうせなら理科室よりも、手前側にある化学室のがいいと思うのだが、そこはやはり化学室。劇物管理などの都合で厳重に鍵が掛けられている。まぁ、仕方ない。
アナコンダみたいな生徒の列の脇を無言で通り過ぎていく。見込まれないように、毒牙にかけられないように、なるべく顔を合わせずに。
それでも所在ない生徒たちは、俺の姿を目ざとく見つけては語りぐさにしてくる。
「あれ深山さんじゃないか?」
「あ、本当だ」
割と地味めのスクールカーストにおいて中の下くらいに立場を置く生徒数人が、俺をとりざたする。男子が男子に向かって「さん」付けするなんて、彼らと俺との間にはよほどの距離があるんだろうな。
「こっち振り向いてくれないかな」
「やっべ、そしたら俺、ちん長のびちゃうわ」
思わず振り返ってしまいそうな蒟蒻問答を繰り広げていた。
けれども俺は振り返らないで、黙々と廊下を突き進む。振り返ろうものなら、俺はきっと蛙になるしかないし、なんならいっそ帰る。
列の先頭を追い抜くとようやく、理科室に到着した。水木先生は身体測定にかかり切りだろうから、理科室には誰もいないだろう。この時間を使って寝不足を補うことにしよう。
と扉をからりとあけると、誰もいないはずの理科室には先客が、ツインテールの少女がいた。
窓ぎわ一番後ろの席に陣取って、理科室特有の実験卓の隅っこで退屈そうに頬杖をついている。何故かこの学校の制服に身を包んで。
「……陽菜?」
陽菜は俺の気配にも、呼びかけにも気づいていないようだった。
燦々たる太陽が彼女の表情をアンニュイに照らしている。その憂わしげな面差しがとても絵になるようで、それを撮って売ったらさぞかし良い値になるんだろうな。
俺が陽菜の隣席に鞄を置くと、その無機質な音に陽菜はふと我に返ったようだ。大きな瞳を微か動かす程度で、横目に俺を見る。
「……ずいぶん遅いじゃないの」
上の空の文句を俺に投げつけると今度は机に突っ伏してしまった。拍子にツインテールがぴょんと跳ねる。真島さんよりもさらに明るい茶髪——ここまでくると、もはや赤髪とも言える。これが地毛なのだから驚きだ。
「どうして……陽菜がここに?」
「……もう話したわ」
陽菜は顔を伏せたまま曖昧に呟いた。が、その理由を俺は聞いた覚えがない。
「え、話してないじゃん」
何がなんだか分からず問いただす俺。
すると陽菜は、とみに起き上がり強い口調で言い捨てた。
「朝のホームルームで話したわ‼︎ 那月が遅刻するのが悪いんじゃない‼︎」
その剣幕に俺は一驚を喫して、その場に立ち尽くしてしまう。
言ってすぐに陽菜ははっとして「ごめん……」と謝罪を絞り出すと、おずおずと椅子に腰掛けたと思えばまたも机に突っ伏してしまう。
実験卓の脇に設置された蛇口からぽちゃん、と間欠的に雫がしたたり落ちる。
沈黙が重い。静寂はべつに嫌いじゃないし寧ろ好きなのだが、こういう人為的な沈黙には、さすがに耐えかねるものがあった。
「何か、あったんですかね?」
さっきの叫喚にも似た陽菜の言説が恐ろしくて、思わず俺はおよび腰になってしまった。
「ない、何も」
何もなかったのなら、さっきの裂帛にも似た叱責ごとなかったはずなのだ。
「そ、そうすか」
だがそれを糺すほど、俺は野暮ではない。
虫の居所が悪い陽菜を尻目に俺は隣の席に着いて、鞄から参考書と問題集を取り出すと実験卓におっ広げる。それから、制服のポケットから音楽プレーヤーをひっ掴み、イヤホンとセットで取り出した。例の演奏のバイトで稼いだ金で買った、俺の人生において最も高額な品々だ。
まず音楽プレーヤーは、音質に定評のあるメーカーのハイエンドモデルを選んだ。こいつを買うために諭吉を五人ほど失ったけど、後悔は微塵もない。
そして、最高の音楽プレーヤーには最高のイヤホンを使わなくてはその真価を発揮しない。音質、堅牢性、遮音性にすぐれた確実なイヤホンを選んだ。コイツには諭吉を三人ほど犠牲にして、しばらくは貧乏飯を余儀なくされた。
銀のフォルムが眩しいその高級イヤホンを耳に装備して、崇高な音楽を再生する。もし先生が来てもすぐに対応できるよう、右耳を空けておくのがポイントだ。
古き良き時代の音楽が、鼓膜を潤していく。
享楽に浸りながら参考書の文言を目でなぞる。無論、内容は理解していない。真面目に参考書と向き合っているという客観的事実だけが必要なのだ。この体裁だけで通りすがる大抵の教員の目は欺ける。
時間とともに曲が流れ、そして時代も大きく流れる。
次の曲は、やや新しめの、俺の趣味からは少し外れたものだった。
宇佐美陽菜がアイドルとして初めて発表した曲だ。
電子的なサウンドの中でピアノのプリミティブな旋律が絡み、調和する。そして一度収束すると、次の瞬間には、歌声も加わってふわっとやさしく弾けた。
「————♪」
右耳に、歌声が重なる。
突然のことだったにもかかわらず驚かず、右耳がそれを受け入れたのは、音楽プレーヤーの音源と寸分違わぬ美しい歌声だったからに相違ない。そして、最高の機器を用いたとしても陽菜の生歌には到底及ばない。
見ると陽菜は、俺のイヤホンの片方を自分の耳にあて、誰に聞かせるでもなく歌を口ずさんでいた。俺と目が合うと、陽菜は恥ずかしそうに顔をふせる。歌声も徐々に小さくなり、やがて消え入りそうになる。
そうなると右耳が切なくなって、俺は切に求める。
「歌って、もっと」
陽菜はちいさく首を振り、俺から音楽プレーヤーをひったくった。そして曲を変更されてしまう。
再び、クラシカルな曲が流れ出したけど俺の心は潤わなかった。