二章 月天(2)
続いて、ヘアスタイリング。
陽菜は、女性物にしてはやや大きめの鞄(恐らく黒先院長の私物)を開けると、ウィッグのようなものをいくつか取り出す。次々と俺の前に、無数のそれが並んでいった。
「さ、どれでも好きなものを選んでいいわ」
と言われても。これだけ様々なカツラが並ぶと、一種の恐怖絵図に見えなくもない。
「これって、選び方のコツとかってあるの?」
問うと、俺とウィッグを交互に見ながら陽菜がふむと考えだす。そして、間を置かずに答えが返ってきた。
「あるけれど、那月にはあまり関係ないかも。たぶん、何でも似合うんじゃないかしら」
なんともまぁ、無責任なヒントだった。俺は再び、頭を抱えてウィッグと睨めっこする。
「強いて言うなら、どんな髪型にすべきなのか、あるいは、自分がどんな髪型にしたいのかを考えればいいと思うわ」
陽菜が言い添えた。ようやっとアイドルらしい助言をいただけた気がする。俺はその助言を参考に、再三ウィッグと睨めっこする。
どんな髪型にすべきか——この場合、メイドさんっぽい髪型にすべきだろうか。とはいえ、それってどんなものだったろう? おそらくオーセンティック・スタイルはあるのだろうが、昨今のカジュアルメイドの乱立により情報が錯綜していた。となると、後者でいく他ない。
つまり自分がしたい髪型。したいも何も、こんなこと、したくないというのが本音だけど。まぁ、やるとすれば俺の好みであるミディアム・ショートのふんわり系だが、それだと地毛とあまり変わらない気がする。
と、これを機に少し髪伸びてきたなと自覚する俺。
どうせ女装するなら、まったく別人になったほうが良い気もする。精神衛生上的な意味合いで。
……悩む。が、このままでは埒が明かない。
ままよ! 俺は手近にあったものを無作為に引っ掴み、陽菜に差し出した。
「これにする」
陽菜の手に渡ったそれを見ると、図らずも、陽菜からもらったヒントと俺の好みとが程よく採用されている一品だった。
亜麻色の、肩に若干掛かるくらいの長さのエアリーなウィッグだ。
長過ぎず短過ぎず、メイドとしての風紀を損なうこともないであろうあつらえ向きの髪型ではないだろうか。ほぼ金髪とも言える亜麻色の髪を指してメイド向きとは巫山戯るな、という意見もあろう。だが問題ない、後々納得する。
しかし、まだ装着はしないらしい。ウィッグなんて頭にぽんと乗せてそれでおしまいかと思っていたのだが、さまざまな紆余曲折を経た末に戴く物なのだそうだ。であるならば、なぜ最後に回さなかったのかという話である。あれか、全体の雰囲気を図るためだろうか? 人間のイメージの大半は、髪型によって決まるとも聞くしな。
陽菜に指摘すると、
「音楽と同じよ。作曲では歌とかピアノとかギターから作って、最後にベースとドラムを作るけど、録りでは工程が逆転するわよね? それと一緒よ」
はい、意味不明。
◇◆◇
次なる目的地、クローゼットルームは黒先院長の寝室と隣接している。その彼の部屋から間欠的に獣の呻き、もとい寝息が漏れてきた。どうやらすでに眠ってしまったようだ。
その旨を陽菜に目配せして伝えると無言で頷きを返してきた。
なるべく音を立てないようにして、クローゼットルームに忍びこむ。先頭の俺がそっとドアを押して開けると、キイィ……と軋んだ音が心臓をかき乱す。すかさず後ろから陽菜の叱責の小突きがあった。
「ごめん……」
俺は小声で謝り、神経をまたドアノブに傾注させる。
普段の倍近くの時間と労力を費やしてドアを開いた。
足音を殺して、真っ暗な部屋に足を踏み入れ、入ってすぐ右側にあるスイッチを手探りで押すと、なんとも時代がかった音を立てて明かりが灯り部屋の全貌が明らかになった。
「すごい……」
俺の口から、思わずそんな声が漏れる。
壁一面のクローゼット。中はおそらく服でいっぱいなのだろう。それだけに留まらず、床や壁の余りなど、そこかしこに、服が溢れている。言わずもがな、ほぼすべてが寄付品だ。
乳幼児、男子女子、男性女性といった老若男女の衣類が揃い、保管されている。初めて足を踏み入れたこともあって、俺は、ただその雰囲気に圧倒されるしかない。陽菜はさっきウィッグの鞄を取りに来たからか、別段驚く様子はない。
そして奥には、とりわけ異彩を放つ引き出しがあった。「♡衣装♡」とマーキングされ、黒先院長の個人的な衣装ケースと思われる。
「あそこにあるのね?」
陽菜がそれを指差し、小さな声をさら絞って訊ねてきた。
「たぶん」
俺も同じような声量で返すと二人して忍び足で最奥にある「♡衣装♡」棚を目指す。まぁ、できることなら開けずに立ち去りたいのだ、こんな、アヤシイ部屋にあるアヤシイ棚は。
「じゃ、開けるわよ?」
陽菜は取っ手を掴むと、改まって確認をとった。どんだけ危険物扱いなのそれ。俺は急かさんばかりに頷いた。
陽菜がケースを開くと、芳香の匂いが鼻をくすぐった。もっとこう、箪笥臭いものと覚悟していたが。
「すごいわよ、那月」
陽菜の声にうながされて俺はケースの中に視線をやる。
と、まるで童話の世界だった。白雪姫をはじめ、数々の童話やむかし話の衣装が大切にしまわれていた。いずれも懐かしい物だ。
「これ懐かしいな」
俺は、亀のこうらの小道具を取り出し陽菜に見せる。すると、陽菜も興味を示したようだ。
「それ、拓人のやつだったかしら。懐かしいわね」
希望の箱庭では、年に一度、寄付を下さった方々を招待して贈答として劇を披露するという習わしがあった。もっとも、近年は簡単にお礼の手紙を書くだけとなっているが。
拓人は俺の六歳年上の義兄で、現在は自立して、芸能プロダクションのマネージメント業で身を立てている。苗字が亀井だったばかりに『うさぎとかめ』のヒーローたるカメ役に抜擢されてしまったという悲しい経歴を持つ。
「陽菜のウサギ役も、ネタだったよな〜」
宇佐美だから、ウサギ。なんとも駄洒落た理由だ。
「そうね。那月はどんな役だったかしら、全然覚えてないんだけど……」
「俺はゴールの、木」
俺は木の擬態道具を手元に集め、装着してみる。
……人外だった。
なにぶん『うさぎとかめ』は、その題通りウサギとカメしか登場人物がいない。陽菜と拓人がいれば、それだけで成立してしまう物語なのだ。だから木の役や、競争を囃し立てるリスの役など、不要な役が残りのメンバーに割り当てられた。
演目を変えればよかった、と気づいたのは上場を終えてからだった。
「そういえば」
ふと、陽菜が言いかける。続きを聞くまでもなく彼女が何を言おうとしているのか、なんとなく分かった気がした。なんとはなしに、膝の痣が疼いたのだ。
「拓篤はどうしたの? まだ帰ってないみたいだけど」
予感的中。俺には人の心を読む力があるのかもしれない。
拓篤は、拓人の実弟でこの施設の現住人だ。父を病気で亡くし、母に捨てられたという経緯を辿って、拓人と二人でここへ来たらしい。
「……知らない」
俺がさして興味なさそうに返答をすると、陽菜はわかりやすく訝しんだ。
「あんなに仲良かったじゃない。喧嘩でもしたの?」
「……」
俺は答えない、というより答えられない。
陽菜が勝手に上京して、次いでに拓人が自立して、それがきっかけで不和になりました、なんて陽菜本人に言えるはずがない。
俺の故ありげな黙りに何かを察したのか、陽菜はそれ以上追求をしなかった。
そして、ようやく、陽菜が目当ての物を手に取った。
ルイス・キャロルの言わずと知れた名作、『不思議の国のアリス』。それをポップにアレンジした映像作品——それに登場するアリスの服装はまさしく、現代におけるメイド服である。これも劇で使用した物だ。そしてアリスは、金髪の少女である。
白と水色を基調としたエプロンドレスに、ふわふわでひらひらした生地が随所に遇われている。およそ男子とは無縁の代物に、俺はいやが上にも辟易した。
ナンセンス文学を、女装に使うなど、それこそナンセンスだと思う。
「マジでこれ着るの?」
これは確認というより、明確な意思表示だ。こんなもの着たくないのだ、という切実な。
だが、陽菜は無慈悲にも頷いた。
「流星のおぼし召しよ。それに、そんなに可愛くメイクしといて今さら何言ってんのよ」
そうだった……。PNRは遥か後ろにあった。
俺は改まった決意を胸に、メイド服に着替えようとすると、陽菜がそれを制した。
「それ着る前にこれ付けて」
すると、男子には刺激が強すぎる物が差し出された。男性が所持していようものなら、変態の汚名を避けて通れぬ物体、ブラジャーである。
「! 触れないよ!」
どぎまぎする俺に、陽菜は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
「ブラごときでそんなに取り乱すなんて、さてはチェリー?」
「……うるさい」
「むぅ」
陽菜は面白いリアクションでも期待していたのだろうか、俺のつっけんどんな物言いに、少しばかり頬を膨らませている。その様子がちと可愛らしかったりする。
そんな可愛い陽菜のブラを、触れるどころか直視できないのも致しかたないことだろう。陽菜の体躯にはいささか不釣り合いなサイズではあるけど。
「言い忘れてたけどこれはシラユキちゃんの私物ね」
「……げ」
道理でサイズが大きいと思った。
シラユキちゃん、というのは黒先院長のニックネームのことらしいが、誰も口にしないその名を陽菜は甲斐甲斐しく呼んでやってるみたいだ。姫、が抜けてますよ姫。
「シラユキちゃんのそれ、ストラップはどうにか調整できるみたいだけど、カップ部分は詰め物で誤魔化すしかないみたいね。つまり那月、アンタ巨乳になるしかないわね」
どうしてそうなった。
状況を整理してみる。ブラは、黒先院長のサイズではあるがストラップは調整可能ということで、俺でも装着は可能らしい。あとは大きすぎるカップ部分を詰め物で埋めると、自然と巨乳仕様となる、とのこと。なるほど納得。
「でも! 俺それの付け方わかんないし! そもそも、メイド服だってまともに着られないよ!」
俺の苦しまぎれの言い訳に陽菜が嘆息した。……そんな蔑みの目を向けられるいわれはない。だって、まともな男がメイド服を着られるわけがないんだもの。それが普通なんだもの!
「……仕方ないわね。あたしも同じやつ、着て見せるから倣いなさい」
「え? それって……」
その意味を確かめる間もなく、陽菜はみずからの上着に手をかけた。で、そのまま一息に上着をたくし上げる。プルオーバーに起因するところがあるのか、その速さたるや、まさに脱兎のごとし。この現象を一言で説明すると、陽菜が俺の目の前で服を脱いだ!
ただ俺が予想したよりもずっと、肌色が少なかった。上着のパーカーはとっぱらわれたが、黒いキャミソールという遮蔽物がそこにはあった。
ボトムも同様。フレアスカートの下には、黒のストッキングと黒のショートスパッツがあった。二段構えだった。
「あら、期待した?」
陽菜が悪戯な笑みを浮かべ、徒らに訊ねてきた。全身黒どころではない、陽菜は腹の中まで真っ黒なのかもしれない。
「……べ、べつに?」
全然、と即座に否めなかったのが悔しい。
伊達にアイドルをやっているわけではなく、ともすると人々の視線を奪ってしまうような魅力が陽菜には備わっている。身長はちっさいし、胸だって無いに等しいけれども。
月に躍如として浮かぶ兎を忽然と眺めるように、彼女の放つオーラに見惚れてしまうのだ。そのくせ、ツインテールとか攻撃範囲が広すぎる。
「じゃ、まずはブラで豊胸しちゃいましょ」
陽菜は、手慣れた手つきで、下着のカップにパットを幾重にも詰めてゆく。俺が本能的にそれを触れてみると、ほどよい感触が指を包み込んだ。陽菜によると本物同然の質感らしいが、本物を触るよりも背徳的な気分になるのが不思議だった。本物触ったことないけど。
しかし、いくら陽菜が女性だとは言え、手慣れすぎてはいないだろうか? あたかも、豊胸が習慣になっているようなそんな感じ。
「陽菜っていつも、こんな感じで豊きょ——」
言いさす。
というのも、陽菜の殺人的な眼に射すくめられ、俺はそれ以上の発言を殺されてしまったのだ。怖い表情を改めない陽菜から偽乳を受け取り、さっそく胸もとに装着してみる。ずしりと重たいけれど、これは徐々に慣れていくものなのだろうか? だとしたら、とにかく慣れなくないものだ。
ブラの加工、装着が終わると、息つく暇なくボトムの下準備。本来メイドはドレスの下に、ドロワーズとよばれるものを履くらしい。これによって下着を見られることを防ぐほか、スカートのボリューム感を増すのだそうだ。
しかし今、ここにあるエプロンドレスは、せいぜい中学生までの背丈に合わせて作られているわけで。ただでさえサイズに余裕がないのに、ドロワーズを履くのはさすがに無理があるようだった。無理を押して履こうものなら、フレンチメイド……つまり、ナイトバーにいるような妖しいメイドになってしまうかもしれない。
どれ、試着してみると、
「きっつ」
……予感的中。思わず苦悶する。
ドロワーズのおかげでふわふわするどころか、スカートが弾けそうだ。というわけで急遽、陽菜のスパッツをお借りすることになった。これでスカートのふんわり感が再現できるかはわからないけど。とりあえずスパッツは、陽菜の体温が感じられるほどの温かさであったことを、ここに記しておく。
「あたしにはちょうどいいみたいね」
陽菜は別段てこずることもなくドロワーズを履き熟し、見事メイド服へとドレスチェンジを果たしていた。悪戦苦闘の末、陽菜に倣って俺もようやくメイド服を着終える。男として大切な何かを、失いながら。
「なんか陽菜と比べて短いんだけど」
スカートの丈を指して俺が言うと、陽菜は何故か悔しそうに顔を歪めた。
「那月って、足長かったのね。意外だったわ。なんか悔しい……」
座高は今日測ったけど、座高の良し悪しが分からぬ俺にはちんぷんかんぷんだった。陽菜はお世辞を言えるような人間ではないから、まぁ悪くはない数値だったのだろう。
陽菜は先の大人じみた黒装束をとっぱらうと、持ち前の矮軀が際立つ。
「陽菜はさっきよりも短足になった感あるな」
俺が直截に言うと、陽菜のこめかみがピクッと脈打った。そして声を荒げず、静かにこう言った。
「……口を開けば不満囂々。あたしのメイクアップじゃご不満のようね。隣には、いい塩梅にシラユキちゃんがいるのだけれど、そっちに任せたほうがいいかしら?」
「超ごめんなさい! 陽菜さんのメイク最高です!」
生命の危機すら感じた俺は、三つ指を付いて土下座して謝る。陽菜は俺の誠意を見下して、さらに駄目押しに、
「また、あたしに逆らったら……! 加えて流星にも!」
「絶対に逆らいません!」
姿勢をそのままに俺は誓う。陽菜の声が後半になるにつれ荒々しくなっていって、本気で怖かった。さしあたっては陽菜の機嫌を損ねないようにすべきだと思った。あとそもそも理不尽だ、とも思った。
◇◆◇
幾多の困難を乗り越えてミッションをクリアし、その努力の証として戴くもの——それこそは、栄冠である。もっとも、俺の場合は不善に不善を重ね、その悪行の罰として被る荊の冠にも等しい。
そして、その後死ぬまで十字架を背負っていくことになるのだろう。女装男という汚名を背負って。
自室にて陽菜にウィッグを繕ってもらい、仕上げに頭頂に黒いリボンをあしらうと、ようやく終わりを見た。並々ならない疲労感があった。
……ようやくである。
ようやく虎口をのがれ、そして竜尻に入るのだ。
退室のため、部屋の照明を落とすと、暗い自室には窓から射す月明かりのみがぽつりと浮かんだ。月の持つ力か、引き寄せられるようにそちらに歩みよる俺と陽菜。
ふたり寄り添って、見上げるようにして窓際から空を望むとその天頂には綺麗な満月が、星の海を泳いでいる。
星空にあって、月はとりわけ明るく、月白一色で、どこぞの伝説が言うような兎はそこにはいない。
当然のことだった。なぜなら兎は、俺のすぐ隣に、いるのだから。
「……那月」
その美しい惚れ惚れするような声が、俺の名前を呟いた。横目に見ると、陽菜はいつになく真摯な面持ちで俺を見つめている。月明かりに浮かぶ彼女の影はツインテールも相まって、いよいよ兎のようだった。
「ん」と俺はあいまいに返事すると、陽菜のほうへ向き直る。すると恥じらいも、躊躇いもなく、意を決したように陽菜は言った。
「あたしが助けを求めたら、那月はあたしを助けてくれる?」
まさに悲壮とも言えるような、鋭く切ない眼力。
唇はきゅっと固く引き結ばれていて、悲壮さをより生々しく演出している。
もし、その目から涙が滴ろうものなら。もし、その口から弱音が零れようものなら。
俺は、助けるべきなのだろう。
正直なところを言ってしまうと俺はまだ、陽菜のことを赦してはいない。俺ら家族を裏切って、家を出て行ったという行為は、五年やそこらで赦されるべきものではないはずだ。むしろ年を重ねるごとに、関係が悪化するのが一面の道理でもある。
しこりや傷は未だに残っている。触れば、障りが騒ぎだし、俺たちの傷を、溝をより深くしてしまうのだろう。触れ合わないほうが、よいのだろう。
でも俺たちは、やはり家族なのだ。陽菜だって、家族なのだ。
そして、その家族が困っているのなら。苦しんでいるのなら——。
「助ける————、と思う」
そう言うと、陽菜は目を潤ませて、その瞳が月の輝きを返した。
「本当に?」
約五年ぶりにその、心から嬉しそうな顔を見る。踊るような笑顔。彼女の笑顔は、人間関係の溝など容易く飛び越えるし、きっと星間だって飛び越えていくだろう。
「じゃあ、その姿で、あたしと一緒にアイドルをやってくれるのね!」
感動的なシチュエーションかと思った矢先、その一言はぶっ飛んでいた。理解の外へぴょーん、とぶっ飛んでいた。
「え? 今、なんて?」
聞き間違い、という奇跡を信じて陽菜に訊ねる。
「あたしと! 一緒に! アイドル!」
ポップ! ステップ! ジャンプ! みたいな感じで陽菜は声を次第に弾ませていった。内容に関してはそのような段階は一切踏んでいない、ぶっ飛んでいる。
「……バンド、じゃなくて?」
陽菜は躊躇いなく頷く。
「いや、ちょっとよく分かんないなー」
だが俺の話など、陽菜はもう聞いちゃいなかった。目を輝かせながら勝手に話を進めている。陽菜の瞳に映る、月が美しい。陽菜の瞳は、月のように美しい。
「実はもう那月の芸名も考えてあるのよ」
「……いや、だからね……?」
あたかもこしらえてきたように文句をつらつら並べている。
「深山那月の名前を入れ替えて、『月』をてっぺんに持ってきて、つきみやまな! 月の宮にカタカナのマナで、月宮マナよ! いま考えた!」
——デジャヴだった。今朝もこんなやり取りがあったような気がする。
まぁ、今朝のよりはクオリティが高いのは認めよう。みやまな「つき」、「つき」みやまな。難解なアナグラムを用いた、レトリック的評価には値しよう。
だがそれと、陽菜の言うことに従うのは話がまったく違う。俺の答えはもちろん——
「嫌、だからね?」
合点! と応える俺ではない。
だが、俺の拒否とて想定済みだったらしく、陽菜は間髪いれずに詰めてくる。
「あれー? さっきの誓いのこと、まさか忘れたわけじゃないでしょうね?」
——絶対に逆らいません。
つい今しがた誓った言葉だ。つい、今しがた誓ってしまった言葉だ。
「そ、そんなこと言われても、本当に……」
閉口頓首な俺に、陽菜はようやく落ち着きを取り戻したようだった。
まさか俺のほうが涙を、弱音を零すことになるとは思わなかった。
「なにも今すぐにとは言わないわ。月曜日、返事を聞かせてちょうだい」
俺の返答を聞くことなく陽菜は話を切り上げてしまう。つまり月曜日に、またこの話をするということなのか……。なぜ月曜日なのかはわからないが、憂鬱だ……。その日までにまともな断り口上でも考えておこう。
最後に、月明かりを頼りに姿見で全身を確認する。
確かに皆が言うように、男には見えそうもない。どころか、こう言っては何だが陽菜と並び立つほどの美少女に見えなくもない。どうして俺は男なんだろう。女に生まれていれば、幸せな人生が待っていたのではないだろうか。そんな気持ちになる。
陽菜は、鏡を通して俺のことをじっと厳しく見定めている。何か手落ちがあったのだろうか。俺が見る限り、ちょっと胸の大きさが不自然かなと思う程度なのだが。
「そういえば、ずーっと思ってたんだけど」
陽菜は納得いかなさそうな様子で言った。
「那月、その格好で目隠しして流星にカレー食べさせてもらうの? 流星に食べさせてもらった後に着替えた方が、良かったんじゃないの?」
「あ……」
ナツキは めのまえが まっくらに なった!