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三年前に十六歳でマントノン家に就職し、以後ずっと当主の妻ユティルの侍女として仕えていたビーネ・ヴァルトは、万事控えめな性格である。
やや短めの少し茶がかった黒髪に、誠実さの溢れる大きな目、あまり華はないが愛らしい顔立ちをしており、小柄な体格ながらもまめまめしく働くビーネは、ユティルの大のお気に入りであり、ホスピス生活でも最期までその側に置かれ、
「家族がいない時でも、こうしてあなたがついていてくれるから、私は不安にならずに済むのですよ」
と、感謝されていた。
ビーネの方でも、ユティルに対し多大な尊敬と親愛の念を抱いており、その死に際しては、耐え難い程の悲しみに包まれたのは言うまでもない。
妻の葬儀を終えて虚脱状態になったスピエレは、ビーネに手伝わせて、少しずつ遺品の整理をする事にしたのだが、
「これは、ユティルが特に気に入っていた帽子だ。お前も覚えているかい」
「はい。奥様がご旅行に行かれる時は、絶対忘れない様に、と心掛けていました」
などという具合に、遺品を一つ手にしては、それにまつわる思い出話に長々と耽ってしまうので、ちっとも整理は捗らない。
むしろ捗ったのは二人の恋仲で、同じ愛する人を失った悲しみを共有する者同士が急速に惹かれ合った結果、あっと言う間にビーネのお腹に新たな生命が宿る事になる。
いい大人なんだからもうちょっと自重しなさい、と娘に説教されるのも無理はない。
その娘の取りなしで、何とか結婚と出産を認められたものの、もし男の子が産まれれば、将来マントノン家の後継者問題がこじれる可能性がある事を、ビーネはよく理解している。
もちろん、控えめな性格のビーネにお家乗っ取りの野望など微塵もないが、マントノン家の一族内におけるパワーゲームの有力な駒として、本人の意志と関係なく担ぎ出されてしまったら、この子は恩人であるシェルシェの敵となってしまう。
どうか、お腹の中にいるのが女の子であります様に。
かつてユティルが願っていたのと真逆の事を、ビーネは切に願っていた。
そんなビーネの目の前で、シェルシェの父スピエレに対する説教はようやく一段落し、
「今回、私達の幸せと引き替えに、まだ子供のお前にマントノン家の当主という大きな責任を負わせてしまった事は、本当に申し訳ないと思っている。私に出来る事があったら何でも言ってくれ」
と、スピエレがすまなそうに言う。
シェルシェはにっこりと微笑み、
「では、一つだけお願いがあります」
「何だい」
「何もしないでください」
実の父親に戦力外通告を突きつけた。