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そもそも、どうしてエディリアの山中にサムライがいたのかとか、しかも血まみれの鎧を着て剣で襲って来るとか、そんな見るからにヤバい奴がいると知ってたなら女神様はもっと本気出して剣士を引き留めろとか、色々ツッコミ所の多い絵本ではあったが、素直なヴォルフはそれらをスルーして、
「つよくなろうとするのは、いけないことなのですか、シェルシェおねえさま」
物語のテーマに即した事を、姉シェルシェに尋ねた。
「いい質問ですね、ヴォルフ」
シェルシェはにっこりと微笑んで、「無心」に開眼した剣士がサムライを倒す場面のページを開いて見せ、
「もちろん、いけない事ではありません。武芸者を志すからには、強くなりたいと願うのは当然の事です。でも」
胴を斬られたサムライの挿絵を指差し、
「『誰よりも強くなりたい』という願いは、船乗りを惑わす人魚の歌と同じくらい魅惑的で、人を容易く破滅へと導きます。このサムライも、『誰よりも強くなりたい』と願った結果、魔物と化して人を殺し続けた挙句、最後はあっけなく倒されてしまったでしょう?」
と教え諭す。
「『だれよりもつよくなりたい』とねがっては、いけないのですか?」
「最初はそれでいいのです。大半の人はいずれ、『自分は最強になれない』と諦める時が来ます。ですが、諦めが悪い者はその願いに取り憑かれたまま、危険な方向に引き寄せられてしまうのです」
「ねがいすぎたのが、いけなかったのですね」
「そうです。『武芸の為なら死ねる』、そんな風に酔い痴れた挙句、本来身を守るはずの為の武芸によって身を滅ぼすという、本末転倒な事態を招くのです」
そこでシェルシェは、幼い弟ヴォルフの小さな手を握り、
「ふふふ、こうしてあなたに偉そうに言い聞かせていますが、私もその諦めの悪い者の一人かもしれません。あなたがもっと大きくなって剣の修練をたくさん積んだ時、きっと、私と同じ気持ちになる事でしょう。気を付けるのですよ」
と言って、優しさと寂しさが混じり合った笑みを浮かべた。
「はい、きをつけます、おねえさま」
三歳に満たない幼児には難し過ぎる話だったが、口応えせずにそのまま返事をするヴォルフ。よく訓練されている。
後年、シェルシェが無理を言って、アリッサ・スルーに剣術の勝負を挑んだ数日後、
「ふふふ、あなたが小さい頃、私が読んであげた、『血まみれの鎧を着たサムライ』のお話を覚えていますか?」
と、自嘲気味にヴォルフに尋ね、
「はい、覚えています」
ヴォルフも真顔で簡潔にそう答え、しばらく無言で見つめ合っていたのだが、その時、二人の頭の中でサムライとシェルシェ、剣士とアリッサの姿が、それぞれ重なっていたであろう事は想像に難くない。