◆326◆
ヴォルフがマントノン本家に一人で預けられていたある日、ミノンとパティは都合がつかず、おじいちゃまとおばあちゃまは既にこの可愛い孫と遊び疲れてしまい、たまたま時間が空いていたシェルシェが一人でこの幼い弟の相手をする事になった。
もっともヴォルフが生まれた時から、シェルシェは当主という多忙な身分にも拘わらず、
「私がこの子を立派な当主に教育します」
という執念に近い信念から、なるべく弟と一緒にいる時間を作る様に心掛けており、ヴォルフが普段住んでいる山奥の家に、自家用ヘリで直接訪れる事もしばしばで、
「赤ちゃんの頃からヴォルフはヘリの音がすると、それまでしていた動作をぴたっとやめて、窓の外をじっと見てたよ」
などと、父スピエレに笑われる程だった。
そんな地道な努力が効いたのか、ヴォルフはこの一番上の姉に絶対の信頼を置き、よく懐いている。
「今日はご本を読んであげましょう」
「はい、シェルシェおねえさま」
居間のソファーにシェルシェとヴォルフが寄り添って座り、大きな絵本を一緒に持つ。
「むかしむかし、ある所に剣士がいました」
シェルシェが優しい声で絵本を読み、ヴォルフはそれを拝聴しながら挿絵を食い入る様に見つめている。
「その剣士はあまりにも強かったので、もう誰も彼と戦おうとしません。そこで剣士は、『俺より強い相手に会いに行く』、と言い残して、武者修行の旅に出ることにしたのです。
「旅の途中、剣士が険しい山道を歩いていると、鬱蒼と茂る木々の合間から世にも美しい女の人が現れて、『気をつけなさい。この道の先には世にも恐ろしい魔物が棲みついています。今まで生きて帰って来た者は誰もいません』、と彼に警告しました。
「ところが剣士は怯えた様子も見せず、『ならば私がこの剣で、人に害なすその魔物を退治してやろう』、と言い捨て、女の人の警告を無視して、そのまま山道をずんずんと進んで行きました。
「やがて辺りに霧が立ち込め、昼間だと言うのに空は暗くなりました。それでも剣士は恐れることなく先へ先へと進むと、道の向こうから何者かがこちらへ歩いて来る気配がします。それは全身血まみれの鎧に身を包んだサムライでした。
「黒い仮面を被っているので、どんな表情をしているのか分からないサムライは、『オマエヲ、キル、オマエヲ キル……』、と低い声でつぶやき続けながら、ぎらりと光る抜き身の剣を上段に構え、ゆっくりこちらに近付いて来ます。
「剣士は驚きながらも自分の剣を抜き、『この俺を斬れるものなら斬ってみろ!』、と叫んで、逆にサムライに向かって行きました。
「そして互いの間合いに入った瞬間、剣士の剣は空しく宙を斬り、サムライの剣は剣士を肩口から腰にかけて斜めに深く斬り裂いてました。剣士の悲鳴が山奥にこだまします。
「大量の血を流して、その場にバッタリ倒れた剣士は、激しい痛みに悶えながら、『ああ、俺はなんて思い上がった愚か者だったんだろう』、と後悔しましたが、やがて意識が途切れました」
そのページに描かれているリアルな血まみれの鎧武者もさることながら、その足下に倒れている剣士の死体が醸し出す怖さは、三歳に満たない幼児の心にトラウマを与える事必至かと思われたが、ヴォルフは動じる様子もなく、姉の語る話に聞き入っている。
この姉に比べれば、血まみれの鎧武者など全然怖くないのかもしれない。