第2話 経緯2(プロローグに代えて)
第2話 経緯2(プロローグに代えて)
人の身体の構成を納得できるまで調べてみたいと思う。というのは医者の処方する薬も人によって働きが異なるのではないかと考えたというか実体験したというか、ともかく当たり前のことであるが、科学も医学も完全なるものではないはずだからである。何が大切かと考えるとやはり当事者の納得感であろうと思われる。
本文章をもって誰かと議論をするつもりは全くなく、叶うことなら自分の体調や精神面にいい影響を与える文章になればといいなと考えている。調べたり考えたりして書いた文章内容もそうであるが、書き物をするという行為自体が1本とはならずとも効果か有効となって欲しいと願うものである。
ふと、中学時代のことを思い出した。確かあれは知能テストだったと記憶している。そこで、数学に類する部門で偏差値を90近くもらったようだ。それも数学の特定の分野だけが飛びぬけて点数が高かったらしく、偏差値の意味すらほとんど理解していない本人よりも親や先生たちが喜んだようである。話題になった記憶がないから、その他の分野の偏差値はそれほど高くなかったと思われる。
これが、わたしの能力をあらわしていたというより性格の偏りを示唆していたとすると、天はわたしに酷くむごい天物を与えてくれたと嘆きたくなるときがある(あった)。例えば、全くといっていいほど協調性がなかった(今もかもしれない)。理屈(筋)として納得する説明が得られないと絶対といっていいほど賛成と言わなかったようである。この性格が少しずつ加速しながら自分自身を追い込んでいたなどと近年まで知ろうともしなかった。自分のことを知ろうと努力し始めたのは病名を告げられた9年前からである。
また、いくつかの感情の実感も持ち合わせがないようである。例えば、「寂しい」ということがどんなことか書物などから知識としては知っているが、そう感じたことがないようなのである。少ない友人などとの会話で話の内容が大きく食い違うことが度々あった。その理由がその感情の共有性のなさから来ているのかもしれないと気が付いたのも9年たっていないようである。ネットなどで調べると「アレキシサイミヤ」のようでもあるが、わたしはそうではないと思っている。理由は、特定の感情だけが失われていることと先天性だと思うからである。
結論として言いたかったのは、何を学ぶにせよわたしの脳の回路は数学的、それもある偏った分野の発想しかできないらしいということである。
大多数の人が、「自慢話か」と眉をひそめるわたしの学びは小学校4年のころに始まった。幾人かの叔父や叔母と暮らしていたおかげで彼らの残していった学校の教科書がいたるところに点在していた。そこから、選び出したのは中学や高校の数学の教科書だけであった。そして、何故なのかその数学の教科書だけは、書いている内容が理解できた。その他の教科書は理解できないせいもあって、目もくれなかった。
そうこうしているうちに、小学校のときに昔の高校数学の分類で数Ⅰまで理解が進んでしまった。ところが、中学に入り学びを進めると「確率」のあたりから急にやるきがおきなくなってしまった。微分や積分になるとその傾向は強まり、数学の学びは数Ⅰで終わることになってしまった。微分や積分は理解できないというより、興味がない、つまり面白くないという理由だけで終わりにしてしまったようだ。
中学に入学して英語という科目が増えたが、さんざんな記憶しかない。英語を学び始めたのは、後に天職となる仕事についてからで、入試のための英語は落第に近かったような気がする。高校に入学してからも数学だけは、完全に理解できていたが、他の科目は平均以下だった。物理が不得意なことを不思議がる先生や生徒たちもいたが、興味がなかったのだから仕方がない。結果として行きたかった大学に行けず、最終学歴は専門学校卒となってしまった。その学歴の選択に今でも後悔はない。行きたくない大学の学部を選択することをわたし自身が許さなかったことを今でも正解だと思うのは、一本の芯が通っているか、成長していないかのいずれかであろう。
やがて、就職し数年後に海外勤務となった。当時、パソコン自体が珍しく、コンピュータに触ることは一部の人にしかできなかった。ところが、世間ではコンピュータの普及にはずみがつき始めた時代で、わたしもプログラマーの一人となってしまった。なにしろプログラムを組める人が需要より遥かに少ないのだから、そうなるのは必然かつ簡単だった。後は腕次第というところまでセッティングされたのだが、海外での仕事のせいでマニュアルや専門書は全て英語で書かれてあった。
少し学生時代に英語の学びをさぼったことを呪ったが、めげることなく英文の理解の仕方、読解方法を編み出した。乱暴ではあったが、先に重要なキーワードを探し出し、そこに周りの文脈をくっつけていった。動詞はいいのか悪いのかだけの意味しか持っていなかった。重要なキーワードの選択は、自分がやりたいことや困っていることが基準であって、スマートなプログラムの学習方法ではなかったと思う。そのため、コンピュータについて書かれた英文以外は今でも読むことはできない。もちろん、英字新聞などもってのほかである。
プログラムの仕事についてから2年ほどして、巡回セールマン問題に繋がる問題に直面した。そのとき抱えていた仕事をこなすには、その問題を速く計算する必要があり、文献を探し回った記憶がある。しかし、その問題は現在でも未解決問題として残っているから文献を探すのは無駄な努力であった。当時のわたしは、解かれていない数学の問題が存在することすら知らず、科学に類するものは万能だと思っていたようだ。「論理が全て」だと思い、死ぬまでこの道を歩むのだと思っていた。もちろん、道にはレールがきちんと敷いてあると思っていた。この仕事はわたしの天職であると信じ切っていた。
しかし、歳を重ねるにつれ、何かがおかしいと気づくようになる。人と接するよりコンピュータと接していた方が楽しく、気が楽だったからこの気づきの進行は極めて遅かったようである。人と接することが少ないということは、外界(自分に比して)からの情報を得難いということである。本当の意味でこの世界に自分が存在することに気付いたのは病となってからのようである。
病となってから数年は苦悩の日々が続いていた。自分自身を見つめなおし、この世界を学ぶことによって自分の存在とこの世界の接点を探そうと模索し苦悩していた。そして、その結論は今でも出ていない。開き直ったつもりはないのだが、その自信はない。わたしは嫌でも存在し、この世界も存在している。接点は探さずともやってくるから、それに何とか対応していこうというのが、わたしの姿勢となったようである。
今でも理由がわからないのだが、わたしに対して味方と敵がはっきりとわかれるようである。このように自分自身のこともわからないのだからこれから学ぶことはたんまりとあるはずだと思う。
そこで、今日図書館から高校生物の本を借りてきて読んでいるところである。この「話」まではプロローグとして、次の投稿からは生物の学びとわからない部分についてはそれなりに論じてみたいと思っている。その論は偏論、変論である可能性が極めて高いことはいうまでもないだろう。