特別な声、特別な貴女
今は真夜中。長い橋の上の丁度真ん中辺りに、一人の女性が立っている。規則正しく並ぶ外灯から少し離れていて、オレンジ色の光が急激に暗くなる、そんな場所にいた。
スレンダーな体型に、タイトな赤いワンピースを纏い、しゃんと立っている。こちらを向いた時、美しい人だと思った。だから「お美しいですね」と素直に声を掛けた。彼女は「ありがとう」と言った。その声には嫌悪も、期待も、嘲る時の嫌な湿度も、無かった。純な「ありがとう」だった。
彼女の歳は三十くらいだと思う。僕よりも十は年上だろう。
「それは?」彼女は、僕の手の中にあるものに目をやった。
「大切な、大切な……」言葉は出てこなかった。泣いたわけじゃない。何と続ければいいか分からなかった。「今日はお別れなんです」
そう言い換えた。
彼女は「私も」と手鏡を見せてくれた。大分色褪せた黄色の、古くさい、プラスチックのものだった。昔は白い猫の絵が描かれていたのよ、と言う。
「私ね、病気なの」悲しい目をしている。「あなたも、そうでしょう」
「分かりますか」
「なんとなくね。同じ匂いがするっていうのかな」
この人になら話してもいいかと思った。
「こいつ、ミオっていうんです。もう死んだも同然で。本当は諦めたくなかったけど、諦めなきゃいけないんです。だから、最後に、川に」
そこからは声が出なかった。今度は泣いていたからだ。
「好き、だったのね」
頷く。
「愛していたのね」
頷く。何度も何度も。
彼女は独り言のように話始めた。
「私はね、自分しか愛せなくて、そのキッカケがこの手鏡なの。初めてこれで自分の顔を見たとき、虜になったのよ。確か、四歳だったかな」
愛するってキスをしたいとか、そういう、恋の延長線上にあるものよ、と付け足した。
「ほら、私、美しいでしょ。私以上に美しいものは見たことがないから、私、私以外を愛せなかったの。でももうそれは終わりにしようと思って」
手鏡が滑り落ちた。真っ直ぐに橋の上から伸ばされた手から、するりと。ぽちゃんと聞こえた。
手の中のミオが「私の事も、お願い」と言った。感触を手に覚えさせる。
「僕が愛したのは、記念樹だった。産まれたときに親が植えてくれたんだ。一緒に、ここまで育った。今日学校から帰ってきたら切り倒されてたよ。家を広くするには邪魔だったんだって。バレないようにこの枝を拾って、それで、親が寝てからここに逃げてきたんだ。親の前で泣くわけにはいかないだろう」
水や土に挿せばまだ、大丈夫だろうけど、ミオが別れようと言った。僕にしか聞こえない特別な声。ミオがそう言うならとここに来たんだ。
「さようなら」
さっきよりも小さなぽちゃんが聞こえた。
あれから一ヶ月が経った。橋の上でたまたま彼女を見かけた。相変わらず美しかった。声は掛けなかった。
彼女は彼女を愛することをやめられたのだろうか。
僕は未だにミオの夢を見る。