望むもの、それは
リエルナの張った防御壁を解き、アストルはその先に一歩踏み出した。リエルナはアストルをそれ以上近づけさせないように、再び防御壁を形成しようとする。
そんなリエルナに手を伸ばし、アストルは抱きしめる。リエルナは一瞬ビクリと身体を震わせたが、ようやく少し落ち着いた。それを確認し、アストルはその耳元で囁く。
「俺は、この世界が……みんなのいる世界が大好きだから」
「私だって、そう……みんなのいる世界が、アストルのいる世界がいい……」
「うん……」
「どうして……どうして、こうなるの?」
「うん……」
出会ってから、リエルナの涙を見たことはなかった。きっと、それは今まで我慢し続けてきたからだ。それが、遂に耐え切れなくなったのだろう。必死にこらえようとしているものの、その雫がアストルの肩に吸い込まれる。そんなリエルナの背中をさすってやりながら、アストルはその言葉にじっと耳を傾けていた。
しかし、ずっとこうしているわけにもいかない。時間がないのもそうだが、これ以上は互いに辛くなるだけだ。
少し落ち着いてきたところでリエルナを開放し、アストルは自分が首から下げていた水竜の笛を、リエルナの首にかける。
「レーンに、よろしく頼む。あとさ……リエルナには、笑っててもらいたいな。俺の我儘だけど」
アストルの顔には、笑顔が浮かんでいた。それが別れを意味しているのだろうということは、リエルナにも分かる。だから、リエルナはアストルが行ってしまわないように、呼び止めようとした。
「アス……っ!」
「……ごめんな、リエルナ」
だが、リエルナが言い終わるより早く、アストルの拳がリエルナの腹部に沈む。抵抗できなくなったリエルナを地面に寝かせ、アストルはアルタジアに歩み寄った。
涙で視界をにじませながら、リエルナはアストルに手を伸ばす。しかし、その手は届かない。叫びたいのに、それもできない。リエルナの瞳からは、とめどなく涙が溢れていた。
2人のやり取りを見守っていたアルタジアが、再び目の前に立った青年に問いかける。
「──本当に、よいのだな?」
アストルは静かに頷いた。
「……すまない。私のしたことが、結局人々に苦しみを与えてしまった」
アルタジアは原石なのでその表情を読み取ることはできないが、もしそれがあったならば、おそらく悲しい顔をしているのだろう。その口調からは、そう感じられた。
アストルは、そんなアルタジアに対して首を横に振る。
「アルタジアは、みんなのことを思ってそうしたんだ。謝ることなんてないよ。アルタジアや母さんがいなかったら、俺はこの世界を知ることもなかった」
アストルは、これまで歩んできた道のりを思い返した。
ふと、何も説明せずに飛び出してきたことを思い出し、クローリアにまた説教されるなと心の中で笑う。
いい加減聞き飽きたクローリアの説教が、今になって急に聞きたくなる。聞けなくなると思うと、聞きたくなるから不思議なものだ。消えたら──そんなことも、分からなくなるのだろうか?
無口だけど本当は優しいシルゼンの仏頂面や、ニトのやらかした大失敗……。リベランティスの軽くて明るい口調、いつも前向きなジェイドの姿。自分より年下なのに国をまとめようとしている京月や、滅んだ一族の生き残りを探して以前の国を再建させようとしている一閃たち……。
他人というほど遠くはないが、幼なじみというほど近くもない、そんな微妙な位置にいたグレン。いつの間にか避けられるようになっていたが、その理由も知ることができた。
ここに辿り着くまで、一体どれほどの人々に出会ってきたのだろう。
挙げだしたら、きりがない。
国民に好かれて、強くて、優しくて、俺の憧れだった親父。ヴェインズに見せてもらった過去の光景で初めて目にした母。ザイクを前にして倒れた自分に優しく微笑みかけてくれた母……自分を、生かしてくれた人。世界を教えてくれた人だ。
今も共に、自分の中にいるのだろう。どうか、この選択を最後まで見届けて欲しい。
そして──リエルナ。君は、俺のこと初めから知っていて、俺に真実を告げなければならなかったこと。それを、ずっとひとりで抱えていたこと……辛かったよな。使命を果たした後も、ずっと俺の傍にいてくれたこと……本当に嬉しかった。
最後はこんな別れ方になって、本当にごめんな。でも、この選択に迷いはない。ただ、少し名残惜しいのは、君の笑顔を最後に見られなかったことだろうか。まぁ、俺がそうさせたのだから、仕方のないことなのだけれど。
だけど、俺は君の笑顔に、今までどれだけ元気をもらったか分からない。その笑顔がもう俺に向けられることはないだろうけど、どうかその笑顔を、これからはこの世界の他の誰かに届けてほしい。その笑顔に救われる人は、きっといるから。
もし……もしだけど、またどこかで君と会うことができたなら、俺にその笑顔を見せてほしい。もし、また会えたらでいいからさ。その時まで、君の笑顔はいらない。今まで貰った分で、俺は立ち止まらずに、最後まで進むことができるから。
みんな、いろいろ俺にしてくれたけど、俺は何ができたのだろう?俺は、この世界で、どんな存在だったのだろう?
それは分からないけれど、俺はこの世界が本当に好きだった。だから、この世界を知ることができて良かったと、心から言える。
我儘を聞いてもらえるのなら、それは叶うことがないのだろうけど、みんなのいるこの世界でもう少しだけ……もう少しだけ生きたかった。
でも、俺だけ生きていても仕方がないんだ。俺の世界は、みんなが創ってくれた世界だから。みんながいる世界じゃないと、意味がないんだ。俺の居場所は、みんながいるこの世界だから。その両方をとることができないのなら、せめて──
せめて、世界に未来を繋ぐくらいのことは、許してもらえないだろうか。
「……アルタジア、いくぞ」
「ああ」
拳に持てる力すべてを託す。自分自身の力、神石の力、そして、この世界の人々の力。
アストルは、ありったけの力をアルタジアにぶつけた。
──ピシッ!
音を立てて、原石にひびが入る。それがだんだん広範囲に広がっていくのを見ながら、アストルは実感していく。
(ああ……消えるんだな、俺……)
それでも、力を緩めることはない。
亀裂が入っていくにつれ、音が大きくなり、輝きも増していく。
欠片が地面に落ちる。砕けた原石の欠片が、その役目を終えたかのように消えていく。次々と欠片は散り、溶けるように形を失っていく。その間にも、原石には深い亀裂が入っていく。
そろそろ、原石も限界だろう。
そう思った時、アストルは最後の最後に頭に浮かんだことを、微笑みながら口にした。
「みんな、俺の世界を創ってくれて……ありがとう──」
──バキィィィ!
音をたてて、原石が粉々に砕け散った。それと同時に中から凄まじい力が溢れだす。溢れた力は光となり、アストルの言葉を飲み込みながら、世界を包んだ。