退屈な日々の味付けレシピ
ほおづえをついている左腕がしびれてきた。けれど体勢を変えるのもかったるくて、何とか足だけを組みかえる。
肘の下にはノート。右手にはシャープ。ぱっと見た感じ、ノートをとっているように見えるはず。それに加えて、俺の席は窓側の一番後ろ。永遠に席がえして欲しくないくらい最高の位置だ。
腕時計を見ると、昼までちょうど一時間。もう一眠りできそうだ。
あくびをかみ殺しながら薄目でそれとなく外を見やった、その時。
……え?
突然視界に飛び込んできたのは、一人の男子生徒だった。
今……どこから現れた?
ここは二階。すぐ下の教室の窓から飛び出してきたのだろうか。位置関係から、それ以外に考えられない。
授業放棄? ボイコット?
とにかくそいつは校門に向かって全力疾走している。短距離走のテストのときでさえ、あれほど必死に走るやつはそうそういない。
俺の眠気は吹っ飛んでいた。口を半開きにしたまま、そいつを目で追い続ける。
うちは名門私立でも何でもない、至って普通の公立高校だ。便宜上、校門と呼んではいるが、そこに厳かな鉄の門があったりはしない。学校名が刻まれた石柱が、二本、大人しく立っているだけ。だから出入りは自由。
そしてそいつはあっという間に校門にたどり着き、急カーブを切って、俺の視界から消えた。
自習時間なのだろうか。追いかけていく人はおろか、教師の怒鳴り声ひとつ聞こえない。
何だったんだ……?
クラスの大半の人間は、机に突っ伏していた。日本史の教師は延々と歴史を語っている。そろそろ江戸時代も終わりだ。校舎の裏手のグラウンドで、ホイッスルが鳴った。
日常の、空気だった。
とりたてて不思議なことが起こったわけでもないのに、なぜか落ち着かない。中途半端に狐に化かされた気分だ。
残りの一時間、いつも以上に目は冴えていたけれど、授業はまったく頭に入ってこなかった。
結局、あの脱走犯は戻って来なかった。
昼休み、弁当を食べながら、ケータイをいじりながら、友人の話を適当に受け流しながら、俺はずっと校門を見張っていた。
午後からの授業も、珍しく居眠りしなかった。まわりのやつらが次々と眠りの国にいざなわれていく中、俺は、あいつが戻ってくるのを待っていた。戻ってくるところを確かめないと、何故だかどうにも、気がすまない。
結局そのまま放課後を迎えた俺は、あいつの所在を突き止めようと思い立った。どこのどいつか突き止めて、それからどうするかなんて考えつかないけれど、とにかくあいつが飛び出したと思われる教室を調べに行こう。
一階は二年生だったかな。学校生活にそれほど積極的ではない俺は、各学年の教室の位置関係すら、記憶があやふやだ。自分の足元の教室くらい、把握しておくべきだった。そんなことを思いながら、リズム良く階段を下った。が。
あれはもしかして、白昼夢……?
そこは物置と化した、空き教室だった。
保健室では爆睡できるっていうやつが多いけれど、俺は逆に目が覚めるタチだ。
次の日。授業をサボって保健室へ来たのはいいけれど、俺は暇すぎて困っていた。さっきまでは眠くて仕方がなかったのに。
保健の先生はどこかに行ってしまった。置き去りにされた生徒が具合悪くなったらどうするんだ。完璧にサボりだってバレているけれど。
保健室には、俺一人。静かだ。時々、誰かの足音が響く。
散歩がてらトイレにでも行こうと思い立ち、そっとベッドをおりて上靴を履く。トイレに行くのは別に悪いことじゃないけれど、なるべく足音を殺して保健室を出た。
学校をやめようと思ってから、何週間たっただろう。
勉強についていけないわけでもなく、いじめられているわけでもないけれど、俺は学校をやめたい。毎日つまらないし。何しに来てるんだかよくわからないし。
もう我慢できない今すぐやめたい、なんて切実に思いつめてはいないけれど。いっそ留年の危機だとか、激しいいじめにあっていたらよかったのに。やめる理由が見つからないまま退学届けを下さいなんて言っても、余計面倒なことになるだけだ。だからいい理由が見つかるまで、退学は保留にしている。
中卒になってしまうのが引っ掛かるけれど、中卒でも立派に生きている人がいるだろうし。
一日の大半を無駄にして高校生をやっているより、もっと有意義なことがしたい。なんて考えてみたり。……具体的にどういうことかって言われると困るんだけれど。
あ、腹鳴った。この先にある食堂から、カレーのにおいが漂ってくる。パンのひとつでも隠して持ってくれば良かった。
と、誰かが来る気配。急いでトイレのドアを押し開け、からだを滑り込ませ……
「なっ……」
思わず言葉を詰まらせる。
俺の真正面。暖房の上の窓から、今まさに乗り込んできたやつと、ばっちり目が合った。
「ど、泥棒……?」
なわけないよな、制服着てるし。
「騒がないでね、ぼくここの生徒だから大丈夫」
やつはにっこり笑って床に降り立つと、音をたてないよう注意深く窓を閉めた。
「あの、何、してるんですか?」
顔つきからして年下に見えるけれど、そんなわけはない。多分、同じく一年生だろう。
「ちょっとそこのコンビニまで。肉まん食べたくなっちゃって」
「は?」
「ここで出会ったのも神の思し召しかなぁ」
こいつ、何、言ってるんだ。
「君もサボりでしょ」
「まぁ……」
「保健室に転がり込んだってとこ?」
「そうだけど」
「やっぱりね。みんな大抵そうなんだ」
物凄く嬉しそうにやつは言う。あまり関わらないほうがいいかもしれない。
「保健室って暇でしょ?」
「……どういう意味だよ」
「ぼくね、つまんない授業のときは学校抜け出すんだ」
学校を、抜ける? そのキーワードに、突然ひらめいた。
「お前、もしかして、昨日の脱走犯?」
やつは少しだけ目を見開いた。
「見てたの?」
「うん。授業ボイコットしたのかと思ってた。ていうかあそこ、空き教室だろ……?」
「玄関から出たら事務室の人にバレるでしょ。ぼくが調べた限りでは、あの空き教室が一番脱出に適しているんだ」
「はぁ……? かなり必死に走ってたみたいだけど」
「昨日はね、コンビニでチョコチップメロンパンを買って帰ってくるまでの最速タイムを更新しようと思って」
「いや、帰ってこなかったろ」
「……君、ずっと教室から見てたでしょ? 帰りはね、ここから入るんだ」
やつは顎で、先ほど入ってきた窓を示す。なるほど、教室からは見えない位置だ。
「あの空き教室の窓はね、潜入には向いてないんだ。足をかけるところがないからね。ここなら常に鍵あいてるし、校舎の裏手だから踏み台を確保できる」
「踏み台?」
「ダンボールとかタイヤが散乱してるから。校舎の裏、探検したことないの?」
「……興味ねえな」
「けっこう楽しいよ、学校探検」
「くだらねえ。だいたい俺もうすぐ学校やめるから」
勢いに任せて言ってしまった。嘘はついていないけれど。今週中にやめる、みたいなノリじゃないか。
途端、やつは黙り込んだ。興味深そうに、ただじっと俺を見ている。俺は無理やり話を戻した。
「……でもここから入るのは危険だろ。現にこうして俺とばったりだし」
「少しくらいスリルがないと。安全策ばっかりじゃ、つまんないでしょ」
こいつ、絶対、馬鹿だ。
「んなことしたって疲れるだけじゃね? 腹減ったんなら学校の売店で何か買った方が早いだろ」
鼻で笑ってやった俺を見て、やつは呆れたように視線をそらした。……腹立つ。
「君、名前は?」
言いながらやつは、手洗い場の横に適当に積まれたトイレットペーパーを、きれいに並べだした。
「自分から名乗るのが礼儀だろ」
「これは失礼。ぼく、楠木理玖。王って書いて里。王って書いて久しい」
「……若山柊也」
「柊也、ね。千円持ってる? 小銭じゃなくて、お札がいいな」
両替でもしたいのか。脈絡のないやつだと思いながらも財布を確かめる。
「一応あるけど」
「貸して」
「ちょっ、お前」
ひょいと財布を取り上げられてしまった。
「賭け、しよっか」
理玖は俺の財布から、千円札を一枚抜き取った。自分の財布からも一枚取り出し、それらを限界まで小さく折りたたむ。
「……ちゃんと返せよ」
「心配しなくても、柊也が勝ったら倍になって返ってくるよ」
「負けたらお前のものってか?」
「そういうこと。わくわくするでしょ」
心底楽しそうに理玖は言う。
「その賭けって何だよ」
理玖は、きれいに並べた大量のトイレットペーパーを指さした。
「柊也はどのトイレットペーパーが一番好き?」
「は? 全部同じだろ」
「よく考えて選んでね」
何を基準に選べばいいんだよ。たぶん全部同じメーカーだろうし。
手前の列は避けた方が無難な気がする。店で手前の商品を避けるのと同じ原理だ。この原理に従うと、やっぱり真ん中が妥当か。
俺は真ん中の列の真ん中のトイレットペーパーを指さした。
「じゃあこれ」
「柊也が選んだんだからね。勝っても負けても恨みっこなしだよ」
そう言うと理玖は、折りたたんだ二枚の千円札を、俺が選んだトイレットペーパーの芯の中に放り込んだ。
「なっ……」
「今はだいたいお昼だから……今日の五時までにしよっか」
「何が」
「五時までにこの二千円が生き残っているか、どこぞの悪党に見つかってネコババされちゃうか。ふたつにひとつ、どっちに賭ける?」
「んなのネコババされるに決まってんだろ」
最近、トイレットペーパーを私物化するやつが多い。机の横に取り付けたり、コート掛けに設置したり。ティッシュ代わりだったり、雑巾代わりだったり。
こんなにたくさん置いてあったら、お持ち帰りされ放題だ。発見されるのは時間の問題。
「じゃあぼくは生き残るほうに賭けるね」
こいつ、アホだ。
「なくなってたらどうするんだよ」
「二千円払うよ。もしぼくが負けたら、ね」
愚問だと言うような、ため息混じりの答え。
負けるはずはないけどね。そんなニュアンスが込められている気がした。
聞こえてくるかけ声は、野球部のものだろうか。校内に残っている人はあまりいない。廊下は静かだ。
もうすぐ午後五時。約束の時間より少し早めに来てしまった。例のトイレの前に立ち尽くし、中に入ろうか考えていると。
「五分前行動? えらいね」
突然した声のほうを見やると、理玖が立っていた。壁に軽くもたれかかって、意味ありげに笑っている。いつの間に来たんだよ、こいつ。
「金、取り返しに来ただけだから。」
できるだけ素っ気なく言い放ったのに。
「楽しみで待ち切れなかったんでしょ」
「だから違うって。金、返してもらいに来ただけ」
「お金なら、あのあとすぐ回収しに来ればよかったのに」
言い返せない自分を恨む。その通りだ。
でも、賭けの結果を楽しみにしていたかというと、ちょっと違う。
理玖は確かに変なやつだ。一緒にいるとおかしなことに巻き込まれそうだけれど、でも
いい暇つぶしになりそうだし。もう少し関わってやっても損はないと思う。……バカがうつらない程度に。
「柊也の負け」
先にトイレに入った理玖が嬉しそうに言った。
「はっ? 嘘だろ」
トイレットペーパーは……手前のが二個、減っただけだ。
「ありがたくもらっておくね」
「……いいよ千円くらい」
本当はものすごく惜しいし悔しいけれど。
「あの、さ」
ていねいに開いて財布にしまう理玖を眺めながら、俺は思わず言ってしまった。
「また何かやるのか?」
「何かって?」
「いや、こういう賭けとか・……リベンジ! リベンジ戦やらねえ?」
「今度は一万円賭ける?」
「それは……キツいな」
「それにまたぼくが勝っちゃったら悪いし」
「う……」
正直、理玖には勝てる気がしないのでしぶしぶ引き下がる。
沈黙。この場所といい、この状況といい、かなり気まずい。
財布をポケットに押し込みながら、不意に理玖は言った。
「今度、お供してよ」
「えっ?」
「一緒に学校抜け出して、コンビニでも行かない?」
「あぁ……いいよ、いつでも暇だし」
顔には出さないけれど、急にテンションが上がった。こんな感覚、久しぶりだ。
「いつ行く? 明日?」
「ぼく明日は都合悪いな。日時はあとで連絡するよ」
「わかった。じゃあアドレス教えろよ」
「やだ」
「やだって……お前ケータイ持ってねえの?」
「あれはよっぽどの緊急事態じゃないと使わないの。それにメールって芸がなくてつまんない」
やっぱり、こいつ、おかしい。
「そうだな……西玄関の前の階段わかる?」
「わかるけど」
「一階と二階の中間地点に」
「どこだよ」
「頭固いなあ。踊り場のこと。そこにね、カサブランカの絵がかかってるんだけど」
「……何だそれ。見たことねえな」
「そこ、柊也の私書箱ね。額縁の裏に暗号文隠しておくから」
「いや何でそうなるんだよ、めんどくせえ。メールなら一発じゃん」
理玖は軽くため息をついた。俺がつくところだと思うんだけれど。
「誰にも見られないようにチェックするんだよ。じゃあぼくそろそろ帰るね」
「ちょっ……」
「帰りに確認しておくといいよ、踊り場の絵。じゃあ、また会う日まで」
ひらっと手を振って、理玖は出ていった。
……まったくどういう思考回路してるんだよ。
と思いつつ、俺は理玖の思考回路にハマってみることにした。
一瞬だけ解放される十分間の休み時間、俺は毎回、例の踊り場へ出向いた。
足音や話し声に耳を研ぎ澄まし、人がいなくなるタイミングを計算しながら、さりげなく階段を下り、素早く絵の裏をチェックする。何もないとひどく落胆するのだが、そのたびに、次のチャンスへかける期待がふくらむのだ。
小さい頃に映画で見て憧れた、潜入捜査官とか、秘密結社のスパイとかになった気分。……俺もガキだな。
昼休みは人通りが多すぎるから、一時待機だ。手持ち無沙汰な時は仮眠をとった。体力温存も大切な任務のうちだと、何かの漫画で読んだ。
そして貴重な千円札を奪われたトイレ事件から三日後、転機が訪れた。
午後の一度しかない休み時間。そろそろ見飽きてきた白い花の絵の裏に、細長く、丸まった紙切れが挟まっていたのだ。周りを確認しないうちに思わず手が出てしまったが、運良く誰にも見られなかった。
さっとブレザーのポケットに突っ込んで、教室へ歩き出す。誰かとすれ違うたび、気分が高潮する。
怪しまれてはならない。これは極秘文書だ。敵の目をかいくぐり、無事持ち帰らなければ。
実際は誰一人としてかまってはこなかったのだが、俺は完全に舞い上がっていた。
そ知らぬ顔で席に着く。授業が始まり、休み時間の余韻が完全に消え去ってから、極秘文書を取り出した。ここまで完璧だ、俺。……が。
アョイキツスウノョマノゴアウデシレキシ。
そこにあったのは、意味不明なカタカナの羅列。俺は理玖の言葉を思い出した。暗号文だ。
絶対解いてやる。この時間内に解いてやる。
ちらりと時計を見る。あと四十分。俺は姿勢を正し、ノートを広げた。問題を解くときはとにかく書いて考えろ、という数学の教師の口癖に従おうとして、……ノートをとじた。
証拠を残してはならない。頭で考えるんだ。今まで休ませ放題だった脳を使う時が来た。
一文字置きに読んだり、逆から読んだり、ローマ字にしてみたりと試行錯誤を繰り返す。
癖の強い筆記体の英文が黒板を埋め尽くした頃、サビついていた思考回路が、突然、冴えわたった。
何故、細長い紙に? 何故、この紙は丸まっている?
何かに巻きつけて書いたんじゃないのか?
俺って名探偵の素質あったりして。嬉々として、愛用のシャープに巻きつける。
……ああ。窓の外には、すがすがしいまでの青い空。
アスノショウゴレイノアキキョウシツマデ。
明日の正午例の空き教室まで。
「……で、ノーヒントでわかった俺ってすごくね?」
時刻は十一時五十七分。具合悪そうな演技をしながら、保健室に行ってきますと教師に告げ、俺は例の空き教室へやって来た。
「あれはね、スキュタレー暗号っていうんだ」
「へえ……お前が考えたの?」
「まさか」
ゆっくり窓を開けながら、理玖は笑った。
「昔々ね、ギリシャのスパルタっていうところで、よく使われてたらしいよ」
「スパルタか……」
世界史で出てきたような、そうでないような。
「本来はスキュタレーっていう棒と革紐でやるんだけどね。ぼくたちには学級通信の切れ端とその辺にあるペンがお似合いでしょ」
外に誰もいないことを確かめ、まず理玖が地面に降り立った。俺もすぐに続く。石ころの感覚がダイレクトに伝わってきて、上靴の底が思いのほか薄いことを初めて知った。
「さて、校門まで一直線にダッシュしてスリルを満喫する? この場合、一階で授業してる先生にバレる可能性があるけど」
「……バレたら面倒だな」
「じゃあ初めてだし、安全な橋わたろうか。ほとんどの教室、窓開いてるから音たてないようにね」
俺たちは中腰になって、忍び足で壁伝いに進みだした。
黒板をたたきながら公式の説明をする教師。棒読みで教科書を音読する生徒。英語のリスニングテープは音が飛び飛びだ。いい加減、CD に乗り換えたほうがいいと思う。……このクラスはテスト中だろうか。体育でいないのかもしれない。
普段決して見ることのない他の教室の風景が、断片的に流れていく。聴覚でしか捉えられないのが残念だけれど、俺は軽く優越感に浸っていた。透明人間になった気分だ。でも視覚は封じられているから、完璧じゃないな。半透明人間というべきか。……ちょっと違うな。
すべての教室から死角になったところで、俺たちはどちらからともなく走り出した。
昼間のコンビニは静かだった。朝や放課後とは、雰囲気がまるで違う。
まず、棚にサンドイッチがびっしり並んでいる光景を初めて見た。いつもはいちごサンドが一つか二つ残っているだけで、ほぼ売り切れ状態だ。
レジは当然、学生ではなかった。少しやつれた感じのおばさん。ツナマヨサンドを袋に入れながら、「今日もいい天気だねぇ」と話しかけてきたけれど、一瞬、気の毒そうな顔をしたのを、俺は見逃さなかった。
コンビニを出てすぐ理玖に話すと、
「あれじゃない? 朝、普通に制服着て家出て学校に行ったと見せかけておいて、実は悪友と街ぶらついてますって感じの子どもを持った親のこと考えちゃったんじゃない?」
という答えが返ってきた。なるほど。
「でもあながち間違ってないんじゃないか?」
「どうして? 学校にはちゃんと行ってるし。何よりぼくは悪友じゃないでしょ」
「ふーん、そうかなあ」
わざと棒読みで言ってやった瞬間、理玖は俺の目の前、至近距離で勢いよく指を鳴らした。反射的に目を瞑り、顔をそむけてしまう。……油断した。
「ってどこ行くんだよ」
理玖は来た道とは逆の道に歩き出す。
「せっかくだから遠回りして帰ろ」
「……いいけど」
時間には余裕があるはずだ。
「柊也」
理玖はてのひらの上で器用にサンドイッチの包みを解いた。
「学校、楽しい?」
「いきなりどうした?」
笑いながら聞き返す。同年代のやつにこんなことを聞かれたのは初めてだ。担任の先生には個人懇談のたびに聞かれるけれど。
「楽しそうに見えるから」
「そうか?」
「いつやめるの?」
「……考え中。てか別に本気でやめたいわけでもねえし。まぁ授業はつまんねえし勉強も嫌だけど」
「別にそれでもいいんじゃない?」
理玖はそう言ってたまごサンドにかじりつく。立方体の白身がこぼれ落ちたのを見て、ツナマヨにして正解だったと思った。
「物は考えようだよね。視点をどこに置くかって話」
「視点?」
「そ。今楽しいでしょ。授業中なのに」
「……そういう考え方もありなのか?」
「自分の時間どう使おうが自由でしょ」
思わず笑ってしまう。絶対、自由すぎる。けれど俺は否定しなかった。
たわいない会話が妙にはずむ。排気ガスがミックスされていたわりに、ツナマヨサンドはうまかった。
話すのと笑うのに夢中で足はなかなか進まず、学校に着いたのは、昼休みも後半に差しかかった頃だった。
校舎の裏手、例のトイレの窓の下には、理玖の言った通り、ダンボールや古タイヤが散乱していた。理玖は手際よく足場を作り、俺を先に潜りこませた。
しかし今日はいい日だ。運良く、トイレには誰もいなかった。
理玖は窓枠に左足をかけると同時に、右足で足場を蹴り崩した。
「証拠隠滅」
目を少し細め、小声で言う。無事生還だ。
トイレを出て、秒数にすると五秒、歩数にすると七歩だろうか。
偶然か必然か、俺はばったり担任と出くわし、そしてサボったことはしっかりとバレていて、そのまま生徒指導室へと連行された。
「ったく裏切りやがって」
あの後、くどくどとうるさいことで有名な生徒指導の教師まで加わり、昼休みが終わるまで長々と説教された。ところで理玖はというと、ただの通行人を装い、俺を残してさっさと逃げてしまった。
そして今は放課後。生徒玄関で俺を待っていた理玖に、開口一番、文句を言ってやったところだ。
「あれが最善策だったんだよ。捕まる人数が多いほどボロが出るんだから」
俺の愚痴を一通り聞き終わった理玖は、なだめるようにそう言った。
「……そうか?」
「そうだよ。だって抜け出したことはバレなかったでしょ?」
「授業サボって、ずっとトイレでゲームしてましたっていう設定で押し通したからな。抜け出したなんてバレたら、こんなもんじゃすまねえだろ」
「クラスの違うぼくがいたら、その設定も苦しいし」
「……確かに」
うまく逃げられた気がしないでもないが、俺はとりあえず納得する。
ぶらぶら歩いて帰ると言う理玖に付き合って、俺も歩くことにした。
「で、生徒指導の佐々木先生に捕まったんだよね」
「そうですよ」
「後味悪い?」
「そりゃ当たり前」
「じゃあ口直しが必要だね」
理玖は鞄をごそごそあさりだした。
「チョコレートは好き?」
「好きなほうかな。なに、くれんの?」
「佐々木先生ね、職員室の机の引出しに、チョコたくさんストックしてあるんだよ」
「……意外だな」
「はい、これ」
そう言った理玖のてのひらには、色とりどりにきらきら輝くチョコレートが三つ。
「赤いのはイチゴ味で、黄色はバナナ味、青はブルーベリーだったかなぁ。嫌いなのがあったら、ぼくが食べるよ」
「お前、これって」
「うん。佐々木先生の机から頂戴してきた」
「ちょ……」
「先生が柊也を怒りに行ってた隙にね。バレない範囲だから大丈夫だよ。敵はとっておいた」
真面目な顔で言い放つ理玖に、俺は思わず吹き出した。やっぱり、こいつ、普通じゃない。
「ありがたく貰っておきます」
次々と口に放り込む。そのたびに、どろっととろけ出すジャムの感触。
「どう?」
「……全然だめ」
「そう? ぼくは結構おいしかったけど」
落ち込む理玖を横目で見やる。
「赤はピーチ、黄色はマンゴー」
理玖は目をそらして笑った。
「だけど」
お前、最高。
なんてもちろん口には出してやらない。
「だけど、何?」
「……青はブルーベリーだよ」
本当はいろいろ混ざりすぎて、味なんかわからなかったけれど。
上等だ。味気ないよりずっといい。
見慣れたいつもの帰り道が、新鮮に感じる。退屈な日々の味付けは、まだ始まったばかりだった。