大聖堂が選んだ聖女には力がありません。わたしにもありませんでした――元聖女が断罪の石段で明かす、奇跡の仕組み
聖女の奇跡は、ぜんぶ嘘だった。
わたしがやっていたのは、ものが腐るのを遅らせることだけだ。
シレナ島の朝は、魚の匂いから始まる。
浜に並べた台で、わたしは開いたカレイを裏返していく。腹の側はもう乾いて、指で押すと薄く沈んで戻る。海から吹く風は塩を含んでいて、頬に当たるとざらつく。慣れるまで半年かかって、慣れてしまえば、これが無いほうが落ち着かなくなった。
塩を打って、風に当てて、夕方までに一度だけ触る。触るというのは、手を置くという意味だ。授かったスキルは《遅滞》という。鑑定の日、係の人が気の毒そうな顔をしたのを覚えている。ものが悪くなる速さを遅らせる。それだけの力だ。
ただ、遅らせ方が半端ではない。手を置いたものは、一日ぶん傷むのに千日かかる。置かなかったものはふつうに腐る。あいだも例外もない。
「エルマさん、今日のは大きいよ」
ヨナスが桶を抱えて坂を上がってきた。船を一艘持っていて、島で獲れたものを首都まで運んでいる。三十だと聞いたが、日に焼けているぶん少し上に見える。
「置いといて。あとで触るから」
「頼む。この前の便、首都ヴァレンツの肉屋に礼を言われた。あんなに身の締まった魚は初めてだって」
二日かかる航路だ。ふつうなら着く頃には匂いが出ている。わたしが触ったものは出ない。
ヨナスはそれを、助かる、としか言わない。三年のあいだ、一度も奇跡と呼ばなかった。首都では誰もがそう呼んだ。呼ばれるたびに、自分の手が自分のものでなくなっていく気がした。
その日の夕方、ヨナスが荷を下ろしに戻ってきて、桶の縁に腰を下ろした。
「ヴァレンツで妙な話を聞いた」
「妙な話」
「聖女が偽物だったって。明後日、大聖堂の前で裁くらしい」
指が止まった。カレイの身が、手のひらの下で冷たい。
聖女は、いまはティナという娘がやっている。わたしが辞めたあとに座らされた子だ。就いたとき十二だった。いまは十五になる。
「奇跡が起きないんだと」
そうだろう、と思った。あの子に《遅滞》はない。
大聖堂を出ていく朝、廊下の隅でティナとすれ違った。まだ次の聖女とは決まっていなかった頃だ。あの子はわたしに頭を下げて、それから何か言いかけて、やめた。わたしも何も言わなかった。言えば連れて帰りたくなると思った。
連れて帰らなかった。そのことを、三年ぶりに思い出していた。
「船、出せる」
ヨナスが言った。こちらを見ずに、沖のほうを向いたまま。
「明日の朝なら、間に合う」
「訊かないの」
「訊いてほしいのか」
わたしは答えられなかった。ヨナスは桶を積み直して、じゃあ明日、とだけ言って坂を下りていった。
船は夜明け前に出た。
風があって、帆がよく張った。わたしは船尾に座って、島が水平線に沈んでいくのを見ていた。あの島には市場も舗装された道もない。首都の人はそこを何もない場所と呼ぶ。わたしには、三年かけて手に入れた場所だった。
「首都の話、したことなかったな」
ヨナスが舵を握ったまま言った。
「したくなかったから」
「だろうと思ってた」
大聖堂は、聖女を血筋で選ぶ。力があるかどうかは誰も確かめない。鑑定書に何と書いてあったか、司祭長は最後まで読まなかったと思う。
十五で祭壇に座らされて、八年やって、辞めたのが二十三の秋だった。いまは二十六になる。怒鳴られたわけでも、追い出されたわけでもない。自分から降りた。
祭壇の前に座って手を組んでいると、人が列を作って通っていく。触れてほしいと言われれば触れた。触れた人は泣いて、神さまに礼を言って帰る。わたしには一度も言わない。それが嫌だったのではない。嫌ではないことのほうが怖かった。八年もそうしていると、自分は手が二本ついた台なのだと思うようになる。台は疲れない。眠らなくていい。台に明日は要らない。
このまま六十になるのだろうかと考えた夜、息の吸い方が分からなくなった。荷物は鞄ひとつだった。誰も引き留めなかった。引き留めれば理由を訊かれると、あの人たちは分かっていたのだろう。
黙ったままかと思ったら、ヨナスが続けた。
「俺もヴァレンツにいた。十年前まで」
初めて聞いた。
「何してたの」
「言うほどのことはしてない。うまくいかなくて、船を買って出てきた」
海が鳴っている。舳先が波を割る音が、ずっと同じ間隔で続いていた。
「戻りたいと思うことはあるの」
「思わない」
即答だった。それから少し間があって、
「思わなくなるまで、七年かかったけどな」
わたしは笑った。七年、と口の中で繰り返した。まだ三年だ。
二日目の午後、ヴァレンツの港が見えた。石造りの倉庫が海沿いに並び、その向こうに大聖堂の鐘楼が突き出ている。灰色の街だ。三年前より灰色に見えるのは、わたしが島の色に慣れたからだと思った。
「どこで待ってればいい」
「待たなくていい」
「帰りも乗せる」
それだけ言って、ヨナスは舫いを結び直した。
大聖堂の前の広場は、人で埋まっていた。
石段の上にティナが立たされていた。三年で背が伸びて、顔立ちが変わっていた。それでも、廊下で頭を下げたときの目のままだった。ひどく静かな目をしていた。
泣いていない。抗ってもいない。人前に立たされ慣れた子の立ち方だった。裾を握っている指だけが白い。あれをやめさせる方法を、わたしは誰にも教えてやらなかった。
「ティナ・レヴィンは、聖女の名を騙り、民を欺いた」
司祭長のヘルガーが読み上げていた。声だけはよく通る人だった。
「就任以来、奇跡は一度も現れていない。神はこの者を選ばれなかった」
聖名を騙った者は北の鉱山へ送られる。十五の娘が三月もつ場所ではない。
「申し上げます」
ティナの声だった。細いのに、広場の端まで届いた。
「わたしに力がないのは、本当です」
それだけ言って、また黙った。三年、あの子はそうやって数えていたのだと思う。自分に無いものだけを、毎日。
人垣を分けて前に出た。誰かがわたしの顔を見て、あ、と声を上げた。三年経っても覚えている人がいるらしい。
石段を上がると、ヘルガーの顔が変わった。
「エルマ」
「ひとつだけ話します。終わったら帰ります」
わたしは広場のほうを向いた。
「奇跡が起きていたのは、わたしがここにいたからです。ティナが偽物だからではありません。この子に力がないのは本当です。でも、わたしにあった力も、神のものではありませんでした」
ざわめきが起きた。ヘルガーが何か言いかけたので、先に続けた。
「三つ、確かめてください」
指を三本立てた。数えて話すと人は最後まで聞く、と帳簿係に教わった。
「ひとつ。地下の備蓄庫の記録簿です。中身が傷み始めた日が書いてあります。わたしが島へ発った翌週から、肉と乳が続けて廃棄されている。備蓄庫の中身は毎日出て、毎日入ります。わたしが手を置いていたのは、その日に運び込まれた分だけです。だから、わたしがいなくなって一週間で、触れたものは食べ尽くされている。ティナが祭壇に座ったのは、その一か月あとです。あの子はもう大聖堂にいましたが、まだ聖女ではなかった」
「それが何の証しになる」
ヘルガーが言った。声に力が戻っている。聖女がいない一か月だから腐った、と言えば教会の理屈のままだ。そう考えたのが分かった。
「神が聖女に力を授けるのなら、ティナが座った日から、備蓄はまた保ちはじめたはずです。記録簿を最後まで繰ってください。そういう日はありません。一度も戻っていない」
帳簿係のほうを見た。帳簿係は動かなかった。動けなかったのだと思う。
「神はこの子に何も授けていません。わたしにも授けていませんでした」
「ふたつ。資料室にわたしの鑑定書があります。授かったスキルは《遅滞》。ものが腐るのを遅らせるだけの、ハズレと呼ばれた力です。わたしが聖女に選ばれたとき、誰もそれを読んでいません。血筋で選んだからです。ティナも同じ選び方をされました」
「三つ。地下のいちばん奥に、三年前にわたしが最後に手を置いた樽があります。塩も酢も使っていません。生の肉を入れて、その場で封をしました。開けてください」
「三年前の樽など、中身はいつでも入れ替えられる」
「封の蝋は、あなたの印です」
ヘルガーの手が止まった。
「割れた跡があるかどうか、そこの神官に見せてください。わたしは三年、この街に入っていません」
広場が静かになった。
ヘルガーの唇が動いた。声は出ていなかった。この人は、奇跡がどうやって起きているのかを一度も考えたことがない。神が選ぶ、で全部片づいたからだ。わたしが黙って出ていったのも、それを楽にしていた。
若い神官が二人、地下へ走った。戻るまで、誰も何も言わなかった。
樽が運ばれてきた。木に染みた黒ずみも、縄の巻き方も、三年前のままだ。神官が封を切って、蓋を持ち上げる。
石段の前の列から、人がひとり近づいてきた。太った男で、袖に肉屋の印をつけている。ヨナスの魚を買っている店の親父だ、と遅れて気がついた。中をのぞいて、鼻を近づけて、指を入れて、それから広場のほうを振り返った。
「これ、塩っ気がねえ」
声がひっくり返っていた。
「生だ。生のまま三年だぞ」
広場が鳴った。三年前の樽だぞ、開けろよ、嘘だろ、という声が重なって、どれが誰のものか分からなくなった。腐敗の匂いはどこにもない。
ヘルガーは樽を見て、それからティナを見て、最後にわたしを見た。
「ならばこの三年、疫病が出なかったのはどう説明する」
最後の一手だった。神がこの街を守っている、と言いたいのだ。
「出ています」
わたしは言った。
「去年の冬の熱病を、あなたがたが流行り病と呼ばなかっただけです。埋葬の記録を数えてください。わたしがいた八年の、どの冬より多いはずです」
ヘルガーは数えなくても分かる顔をしていた。数えたことがある顔だった。
「戻りなさい」
やはり来た、と思った。
「あなたが聖女なのだ。これは神の意志で――」
「わたしのスキルです」
さえぎるつもりはなかったけれど、さえぎった。
「神さまなら、樽じゃなくて人を助けています」
ヘルガーの顔が赤くなった。何か言い返す言葉を探しているのが分かった。見つからないだろう。この人が持っている言葉は全部、神が選ぶという前提の上に載っていたから、前提が抜けたあとは何も残らない。
「ひとつだけ話すと言いました。もう話しました」
わたしはヘルガーに向き直った。
「この子は、神に選ばれなかったから偽物なのではありません。血筋で選んで、力を確かめなかったのはあなたがたです。聖女の名を騙ったのは、この子ではない。――告発を、いまここで取り下げてください」
誰も口をきかなかった。樽は蓋が開いたままだった。取り下げなければ、次に裁かれるのは誰なのかを、広場の全員が数えはじめる。ヘルガーにも、それは分かったはずだ。
「……ティナ・レヴィンへの告発は、取り下げる」
声が小さかったので、前にいた誰かが後ろへ伝えた。伝わっていくのが、波の引く音に似ていた。
わたしはティナのところへ行った。近くで見ると、手首が細かった。三年、ちゃんと食べていたのだろうかと思った。
「ごめんなさい」
ティナは首を振った。
「あの朝、何を言おうとしたの」
しばらく黙ってから、あの子は言った。
「行かないで、って言おうとしました」
わたしは、その言葉を三年遅れで受け取った。言ってくれていたら、たぶんわたしは残っていた。残っていたら、この子は十二で聖女にされずに済んだ。どちらがよかったのかは、いまも分からない。
「言われなくてよかった」
ティナが顔を上げた。
「言われていたら、わたしはここにいた。ここにいるわたしは、たぶんあなたに優しくできなかった」
石段を下りた。ヘルガーが後ろで何か叫んでいたが、振り返らなかった。復職も、名誉も、詫びも要らなかった。要るものは、もう島にある。
広場を抜けるとき、ティナが追いかけてきて、わたしの袖をつかんだ。
「島に、行ってもいいですか」
「魚くさいよ」
「はい」
それだけで話は済んだ。
港に戻ると、ヨナスが舫いを解かずに待っていた。桟橋に腰かけて、足を海に垂らしている。わたしと、後ろのティナを順に見て、それから一度だけうなずいた。
「二人分、乗るか」
「乗る」
理由は訊かれなかった。訊かないことが、この人のやり方だと知っていた。
船が出て、ヴァレンツの鐘楼が遠ざかっていく。鐘は鳴らなかった。あの街はこれからしばらく、なぜ奇跡が起きていたのかを自分たちで説明しなければならない。できないだろう。できないまま、聖女という椅子はたぶん無くなる。
「なあ」
舵を握ったまま、ヨナスが言った。
「七年って言ったけどな」
「うん」
「三年でも、いいと思う」
わたしは船尾に座ったまま、返す言葉を探した。風が強くて、髪が顔にかかる。押さえながら、見つかりませんでした、という顔をしたと思う。
ヨナスは前を向いたまま、少し笑っていた。
ティナが舷側から身を乗り出して、海を見ている。
「エルマさま、お店って何を売ってるんですか」
「さま、はやめて。干物と塩漬け」
「わたしにもできますか」
「触るだけなら誰でもできる。腐るかどうかは、また別」
ティナが笑った。笑った顔を見るのは初めてだった。
島が見えてくるまで、あと二日ある。わたしは風上に顔を向けて、久しぶりに何も考えずに海を見ていた。
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