水面の向こう側
私の進学した高校は、男女共学で、多香美中学よりも圧倒的に人数が多い。何よりも、男子もいるというのが、三年間、閉ざされた女子だけの空間にいた私にとっては新鮮だった。中には、懐かしい顔もあるが、中学のブランクは大きく、なかなか声をかけづらくなってしまう。広い会場でぼんやりしていると、学ラン姿の男子が、いきなり私に声をかけてきた。
「芦川、お前、戻ってきたとは聞いたが、まさか、また俺と同じ高校とはな」
大きくなっているが、すぐにわかった。幼馴染の佐藤拓哉だ。小学校の時はずっと同じクラスで、しかも私と同じスイミングスクールに通っていた。腐れ縁と言ってもいいほどの関係だった。
「佐藤君……久しぶり」
私の声は掠れていた。三年ぶりに聞く拓哉の声は、記憶の中のそれよりも低く、少し大人びていたけれど、あのころと変わらない陽気な響きがあった。
「芦川に、佐藤君、なんてつけられると、かえってむずかゆくなるよ。あの頃みたいに、おい佐藤、とか、あんた、でいいよ」
まだ何も知らないあの頃、私は彼を平気で「佐藤」と呼び捨てにして、からかったりしていた。でも、今は違う。私は女子校出身の引っ込み思案の女の子。男子に対する接し方も分からなくなっていた。それなのに、佐藤と話しているうちに、なんだか、小学校の時の感覚が次第に戻ってきた。
「久しぶりに地元に帰ったから、ちょっと緊張しちゃってね。しかも、向こうは女子ばかりだったから」
「まあ、それはそうだな。で、芦川は何組だ?」
「私は六組」
「俺は七組だから、隣のクラスだな。生徒が多くてびっくりしているかもしれないけど、六組には、俺と同じ中学の奴も何人かいるから、芦川のこと、宣伝しておくよ」
「佐藤って、相変わらず、世話焼きね。それで、自分のことは、おざなりになっちゃうんだから」
中学では、まず出なかったような気軽な口ぶりだ。でも、小学校の時の私は、いつもこんなふうだった。
「おい芦川、宿題やってきた?」
「また~。あるわよ、写したら」
そんな感じで。それが自然と出てくる。
「気にするなって。俺は俺で、うまくやっていけるから。それより、芦川こそ、分からないことがあったらいつでも聞いてくれ。この町も芦川がいない間に、いろんなものができたから、今度、案内してやるよ」
「ありがと。頼りにするわ」
高校生活は、当初、私が心配していたことは全くなかった。むしろ、驚くくらい順調だった。
佐藤と会うと、あの頃の、ちょっと砕けた口調になる。佐藤の方も、自然に私に話しかけてくれる。だから、つい、私も気を許してしまう。そういう私の気楽な様子が周りに伝わったのか、最初こそ、県外から一人だけ来た子として遠巻きに見ていたクラスの人たちは、すぐに私を受け入れてくれた。気づけば、友達が増え、休み時間には談笑するようになっていた。何しろこの学校の女子は、多香美女子中学のような陰湿さはない。
私が女子中学にいたと知っても、「ふ~ん、そうなんだ」というくらいで、特に気にもしない。もしかすると佐藤が、いろいろと根回しをしてくれたのかもしれないが。もっとも、あいつ(つい、そう呼んでしまう)が、そこまで計画性のあるタイプではない気がするが。
先生たちも、問題なかった。私の担任の先生は女性だけど、穏やかで優しい人だ。クラスのみんなから信頼されているのがわかる。他の先生方も同様だ。誰も私に特別な目を向けたりしない。それがどれほどありがたかったか。
この高校には屋内プールがある。多香美女子校にも屋内プールはあったが、それは水泳部専用で、私には狭苦しかった記憶しかない。この高校のプールは、かなり立派な設備で、水泳部が練習で使うほか、公式大会が開催されることもあるそうだ。また、学校以外の外部の団体も利用できるようになっている。水泳部は全国大会に出ることもあるが、多香美女子校のような徹底した管理主義ではなく、部員やOBが中心となって自主性を重んじる部活として運営されているらしい。顧問の先生もいるようだが、練習内容やメンバー選考は主に部員たちの話し合いによって決まるという話を聞いた。
四月の初めに、水泳部の顧問の先生が直々に勧誘に来てくれた。長谷川先生という、背の高い、眼鏡をかけた、ひょろっとした大人しそうな先生。私が中学で水泳をやっていたと聞いて、勧誘に来たのだった。丁重にお断りした。
「お誘いはありがとうございます。でも、水泳は、もうちょっといいかなと思っていまして」
長谷川先生は少し残念そうな顔をしたが、すぐに微笑んでこう言った。
「そうですか。芦川さんの好きなことをしてください。高校生活は、水泳が全てでもありませんからね。でも、水泳部に所属してなくても、泳ぎたくなったらいつでも泳ぎに来てかまいませんよ。この学校のプールは、部員でなくても、泳ぎに来る人たちがけっこういますから。経験者だからといって、無理に引き入れたりもしませんから、安心してください」
長谷川先生は穏やかに言った。その言葉からは、心から私の意思を尊重してくれているのが伝わってきた。水泳そのものが嫌いになったわけではない。ただ、どうしても、あの理不尽さとプレッシャーの中で泳がされた記憶と結びついてしまうのだ。
先生は一礼すると、きびすを返して職員室の方へ歩いて行く。そのひょろりとした後ろ姿を見送りながら、ふと不安が胸をよぎった。
――なんで、この先生は私が水泳部にいたことを知ってるんだろう?
この高校に入ってから、私は一度も水泳部に所属していたという話はしていない。軽い世間話の中で趣味の話題が出たこともあったが、「特にこれといったものは……」と曖昧に濁していたはずだ。
(もしかして……多香美女子中学の誰かから……?)
気になって後を追い、尋ねてみた。
「ああ、そのことですか。入試の時の書類に、中学時代の部活動欄があったでしょう? そこに『水泳部』と書かれていましたから。多香美女子校の水泳部は有名なので、それで、一応、お声掛けしたまでです」
なんでもないことのように先生は答えた。それを聞いてホッと胸を撫で下ろす。良かった。梅垣先生や他の部員たちから漏れたわけではなさそうだ。
しかし、念には念を入れておくべきだろう。
「あの……先生。中学の顧問には……私のことについては何も伝えないでいただけますか? もしかしたら、私が水泳部に入らなかったと聞くと、きっと悲しむと思うんです……」
これはもちろん建前だ。本心ではあの梅垣先生の耳に私の情報が入ることなど絶対に避けたかった。何を言われるか、どんな影響が残るか分かったものではない。
長谷川先生は、私の言葉に少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻った。
「分かりましたよ。芦川さんがそう希望されるのであれば。顧問の先生には何も申し上げません。心配なさらないでください」
その寛大な言葉に、改めて感謝した。入部を断られても、生徒の気持ちを汲んでくれる素晴らしい先生だ。この高校に来て良かったと思った瞬間だった。




