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水面の影と光  作者: 与一
ある先輩と後輩について
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水面下のさざ波

それから1学期が終わって夏休みの終わりまで、中野は出張に出ることが多かった。主張先は、大学関係、美術部をはじめとする文化部関係、それに、彼女が所属している日本水泳教育学会関係と、多岐にわたった。それをしながら体育の授業や、受験を控えた3年生の面談や面倒な書類作成などもそつなくこなすのだから大したものだ。生徒には相変わらず笑顔で接している。学校に戻ると、嬉々としてパソコンに向かっていた。何をしているのか、あたしはあえて聞かなかったが、外堀が確実に埋められているのは確かだった。

中野がどうしても授業に出られない時は、あたしが代わりに入った。これが中野の言う「ご協力」だった。

体育の授業が中野じゃなくてあたしだと知った生徒たちは、最初は露骨に嫌な顔をした。

「えー、なんで中野先生じゃないのー」

「うわっ、今日は榊原先生かよ」

「なんか今日は疲れる一日になりそうだな」

仕方がない。これも仕事だ。芦川のため、そして新たな芦川を出さないため。

「おい、今、何か言ったか?」

「いえ、何も言ってません!」

「よーし、じゃあ準備運動から始めろ。今日はいつもより多めにやるぞ」

「えーっ!」

あたしの厳しい指導で、生徒たちは悲鳴をあげながらも必死でついてきた。そんな感じの1ヶ月余りだった。



長谷川先生には、多香美女子校の情報を集めてもらうこともあり、芦川に関しては話しておいた。ただし、本筋に関係なさそうな部分は省いておいた。9月になって、長谷川先生から話があった。

「榊原先生。先日の全国スポーツ大会の競泳種目でね、ある県代表が、当日になって、急遽、参加を取り消したみたいですよ」

長谷川先生の声は相変わらず穏やかだった。

「その代表ってのが……多香美女子の生徒たち数名なんです。しかも皆、かなり有望な選手だそうでね。本番当日にドタキャンなんて、何かあったんですかねぇ」

あたしは内心で微かに息を吐いた。来たか。

「さぁ……どうでしょう。強豪校ってのはね、長谷川先生。いろんな事情があるんですよ」

わざとらしく肩をすくめて見せる。

「試合に全部出ればいいってもんじゃない。大学や企業のスカウトの目とか、将来的な選手寿命とか、色々と加味して、ある程度結果が読めると判断した試合は敢えて『捨てる』戦略もあるんです。無駄な消耗は避ける。勝負師の世界はシビアですからね」

長谷川先生は納得したような、しないような複雑な表情を浮かべていたが、それ以上は追及してこなかった。おそらく彼も薄々何かを感じ取っているのだろう。彼女の進む道を危惧しているのだから。

あたしは長谷川先生の話を聞きながら、自然と口角が上がるのを抑えきれなかった。中野の仕掛けが、ついに本格的に稼働しだした証左だ。第一段階は成功したということだろう。



それから後は、特に大きな動きはなかった。中野は例の件については口にせず、あたしも敢えて尋ねようとしなかった。まるでそんなものは最初から存在しなかったかのように振る舞うのが彼女とあたしの暗黙の了解になった。

彼女は再び「仏の中野」として通常の業務に戻っている。昼休みや放課後は相変わらず美術部の部室に顔を出したり、高3の生徒の面談を繰り返したりと忙しい毎日だ。その間も生徒たちには一点の曇りもない笑顔を向けている。あの中野紗耶香が腹の中で何を考えているのか、一体誰が想像できるだろうか。いや、想像できるはずもない。

芦川もまた、あれから特段の波風もなく登校しているようだった。時折廊下や昇降口で見かける彼女は以前と変わりなく、クラスメイトと普通に言葉を交わしている。そういえば、隣のクラスの佐藤とかいう男子生徒とは、入学して以来よく、廊下などで楽しそうに話しているのを見かける。彼は芦川とは小学校の頃からの友人だそうで、この学校で再会したらしい。芦川にとって唯一の男子の友達だそうだ。あたしも話したことある。ふわふわしてはいるが、憎めないやつだ。ただ芦川にとっては気の置けない友達というだけで、男子としては感じていないのが滑稽ではあるが。

とにかく、平穏な日常が戻ってきたかのように見えた。まるで嵐の前の静けさのように。



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