不動の炎が上がる時
「――先輩、どうかしましたか」
突如響いた中野の声で、あたしはハッと我に返る。彼女が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「いや……なんでもない。昔のことを少し思い出していた」
苦笑いでごまかす。酒が回ってきたせいだろうか。中野紗耶香という存在の本質を思い返しながら、あたしは改めて目の前の彼女を見つめた。彼女は今も穏やかに微笑んでいる。だがその奥底に宿るものの大きさが姿を現した今となっては、その笑顔さえも底知れぬ何かに見える。
「先輩」
彼女が唐突に口を開いた。
「私の顧問をしている美術部なんですが」
「うん?」
「今度、全国規模で催される文化部合同の展示会に参加することになったんですよ」
中野はグラスをゆっくりと傾けながら、何でもないことのように続ける。その指がグラスの脚をなぞる動きさえも計算されているように感じる。
「様々な学校から参加する予定でしてね。もちろん……多香美女子校さんからもいらっしゃるそうですよ」
あたしは息を詰めた。
「……なるほど」
合点がいった。中野が先ほど話していた「各大学の関係者」「地域の有力者」「企業関係者」との接触。そして「顧問の保証を崩す」という策。全国規模の文化部の展示会に網を張ろうというわけだ。それも、全国規模のイベントも、中野にとっては網の一つに過ぎないのだ。
(やはり……な)
あたしはグラスに残った液体を呷った。喉を焼くアルコールの感触が現実を突きつけてくる。
みんな口を揃えて言う。「鬼のサカキ」「仏の中野」と。
それは真実だが、同時に欺瞞でもある。
あたしはどうだ? 生徒を叱り飛ばすのは確かだ。時に厳しく接することもある。だがそれは「人間として最低限のラインを越えさせるな」という信念から来るものだ。限度を超えたりはしない。生徒が萎縮するのを見るのが好きでもない。せいぜい鬼は鬼でも……小鬼程度だろう。ちょっと怖いけど根は優しい赤鬼くらいのものだ。いやむしろ青鬼かもしれない。
だが中野は違う。
仏は仏でも……。
(不動明王か)
あたしは小さく苦笑した。実はあたしの趣味の一つは寺社巡りなのだ。学生時代からの癖で、各地の神社仏閣を訪れてはその空気を吸い込むのが好きだった。だから仏像や神像にも多少詳しい。(こんなことをわざわざ言うのも、世間一般に「体育教師=脳みそまで筋肉」という偏見があるからだ。だが、真面目な体育教師ほど古今東西の武道やスポーツ理論を学んでいるため、意外と教養の厚みは馬鹿にできないものなのだ。梅垣みたいなのは例外中の例外だと、全国の体育教師の名誉のために声を大にして言いたい)
不動明王。
五大明王の一尊。憤怒の形相で悪しきものを打ち砕く破壊と浄化の象徴。その右手に握るのは煩悩を断ち切る智剣。左手に持つのは悪を縛る羂索。背後には金色の焔輪があり、あらゆる悪と迷いを焼き尽くすという。
まさにぴったりだ。
普段の柔和な中野は、その炎の中に潜む静かな慈愛の側面を見せているだけだ。彼女は怒らないのではない。怒りの表現方法が常人とは異なるのだ。敵対者や不当な圧力に対しては、彼女は一切の慈悲なくその論理と知略の炎を浴びせかける。そして最終的には相手を燃やし尽くし灰にする。そのプロセスは静かで合理的だから、傍からは気づきにくい。だが、対象となった者は文字通り「焼き尽くされて」しまうのだ。梅垣佳恵も、今回の「顧問保証」工作も、まさしくその対象リストに載ったということだろう。
そして面白いことに、不動明王は大日如来の化身であるとも言われている。万物の根源たる宇宙の大生命体・大日如来の分身として現れた怒りの化身。つまり「究極の善意と慈愛の権化」から湧き上がる「最終的な裁き」という構造だ。
なるほど。
中野紗耶香にこれ以上相応しい形容詞もない。
「――先輩、さっきから、何か変なこと考えていませんか?」
ふと、中野が鋭い目つきであたしをジッと見据えた。
「変なこととは?」
あたしはとぼけた。内心では笑いを堪えていた。
「別にー。どうせロクでもないこと考えていたんでしょう」
中野はぷぅと頬を膨らませた。その仕草が妙に幼くて可笑しい。
「まあ、いいですよ。それより、先輩。今年の夏は、私、忙しくなりそうなんです。何しろ、高3の生徒たちのためにあちこちの大学を訪問しないといけませんし、美術部の展示会の打ち合わせもあり ますし、わたしの学会活動のほうも……」
その細められた目がキラリと光る。
「…それで、色々と『ご協力』いただくことも増えるかもしれませんが……よろしいですか?」
あたしは降参するように両手を挙げた。
「……仕方ないな。『後輩』の頼みじゃ断れん」
「ありがとうございます! 優しい先輩で助かります」
パッと顔を輝かせる中野。その笑顔だけ見れば天使そのものだ。だがその影で次の一手が練られていることは火を見るより明らかだった。
(まぁ……いいか)
あたしは窓の外に広がる夜空を見上げた。星が見えない都会の空だが、なんとなく清々しい気持ちだった。
この「不動明王」が動き出したとなれば……案外あっさりと解決するかもしれない。もちろん、芦川には、一切、火の粉がとびかかることはなく。
そして。
その過程であたしもまた、中野という存在の深淵をさらに覗き見ることになるのだろう。
それもまた一興というものだ。
グラスが空になり、カランと乾いた音が鳴った。
「もう一杯どうですか? 今度は私が奢りますよ、先輩」
中野の声に頷きながら、あたしはテーブルに置いてあった記事にある「笑顔」の水泳部の顧問の顔を見てつぶやいた。
(さて……地獄の釜の蓋は開いたぞ、梅垣)




