笑顔の奥の策士
中野は学校ではいつも穏やかな先生で通っている。誰からも慕われる優しい体育教師だ。新任の頃からそうだった。彼女の柔らかな物腰や包み込むような笑顔は生徒はもちろん教師陣にも安心感を与えた。常に生徒の立場に立って考え、寄り添ってくれる。そんなイメージが定着している。実際、部活の指導でも基本的には生徒の自主性を尊重するスタイルを取っており、決して無理な要求や高圧的な態度はとらない。それが、この高校の体育教師「中野紗耶香」の一般的な評価だ。
だが……あたしは知っている。
彼女のその穏やかさの下支えとなっているものが何かを。
それは圧倒的なまでの計算力と戦略眼。そして一度方向性を定めたら徹底的にそれを遂行し抜く鋼の意志だ。
彼女が本気を出した時の凄まじさを、あたしは何度も目の当たりにしてきた。
例えば去年の文化祭。あるクラスの模擬店が準備不足で開店できないという危機的状況に陥った時。ところが最終的には、そのクラスが最高賞を取るまでに立て直した。あれは奇跡ではなかった。中野が状況を分析し、関係者全員の特性と潜在能力を把握し、時間と資源を最適配分する完璧なシナリオを瞬時に練り上げた結果だ。彼女が指示する必要最小限の動きだけで、まるで精密機械のようにすべてが噛み合っていった。しかし彼女はその成果を「たまたまみんなが頑張ったからですよー」なんて涼しい顔で誤魔化す。
あいつはその能力を表には出さない。芦川には、中野が運動部を任されたら全国レベルに持っていくことができるだろうと言ったことがある。それは誇張ではない。あれほどの戦略的思考と人心掌握術があれば不可能ではない。だが、中野自身はそういうことにまったく興味がない。運動部の顧問になって全国優勝を目指すなんてものは、彼女の眼中にないのだ。その類い稀な才知と情熱は、あくまで生徒たちを守ること。そして社会正義のためにのみ使われるべきだと割り切っている。だから普段は温厚で優しい。
中野は基本的に争いを好まず、角が立つようなことからは巧みに距離を置く。だがそれは臆病だからではない。効率が悪いからだ。彼女の中で「避けるべき」と判断した火種については、巧妙なルート選択によって回避し続ける。その引き際の見極めは天才的だ。
しかし。
その穏健路線を貫く彼女が、唯一例外とする場合がある。それが「不条理な暴力や権力による抑圧」「弱者に対する組織的な加害」が自身の関係する者に及んだ場合だ。特に子どもの未来を踏みにじるような行為に対しては容赦がない。そういう時も表面上は柔和な笑顔を浮かべつつも、その頭脳は氷のように冷徹に復讐のシナリオを紡ぎ出す。
徹底した情報収集。論理的矛盾の徹底追求。相手の弱点と利害関係の洗い出し。そして容赦のない攻撃開始。目的達成のために手段を選ばない――わけではない。だが選択肢は多ければ多いほど良く、その中で一番効率的かつ最大効果を得られるものを迷わず採る。それだけだ。
中野紗耶香という人間の本質は……
弱者を踏みにじる強者に対する、絶対零度の怒りを秘めた氷のような合理主義者なのだ。
* * *
あれは確か高校生の頃だった。テニス部の一員として参加した練習試合での出来事だ。場所は県内の強豪校のテニスコート。私たちは招かれた側で、最初から不利な条件が多かった。
相手校の顧問はベテランで、明らかに自分の生徒たちに有利になるよう試合を運ぼうとしていた。ポイントの判定は曖昧なライン判断でもほとんど自分たちの選手に有利につけられるし、休憩時間の取り方もこちらがペースを乱されるように仕掛けてくる。抗議しようにも相手は強豪校の威光を笠に着て譲らず、我々の部長である3年生も悔しさを押し殺しながら耐えていた。試合は惨憺たるもので、精神的にも追い詰められていくのが肌で感じられた。
コートサイドのベンチでは私を含めた控えメンバーが息を潜めるように応援していた。そんな膠着状態の中、突然、一人の少女がスッと立ち上がった。
中野だった。まだ1年生で、レギュラーでもなかった彼女は、応援席の後方でじっと試合を観察していたはずだ。その彼女が、まるで当然のように右手を挙げた。
「失礼します」
落ち着いた声だった。コートの緊張感がピリッと張り詰める。
「すみません。先ほどからいくつか気になる点がございましたので、確認させていただきたいのですが」
彼女は決して声を荒げることはなかった。むしろ、穏やかすぎるほどに淡々と話し始めた。だがその内容は、審判が行っていた微妙な判定操作や不公平な運営方法を一つ一つ丁寧に、しかし容赦なく指摘していくものだった。まるで予め準備していたかのように論理的で隙がなかった。
「第2ゲームの7ポイント目でのボールイン/アウトの判定基準についてですが」「第4ゲームのサービス違反に対する警告発令のタイミングに若干の不一致が見られます」「インターバルタイムの取り方についても、明確な基準との乖離が見受けられました」
一つ一つの指摘は正論で、しかもデータに基づいていた。その冷静かつ完璧な指摘に相手校の顧問や審判は反論する余地を見つけられず、次第に顔色を失っていった。特に彼女の指摘によって明らかになった「公平性の欠如」は、試合展開にも影響を与え始めていた。
あたしたちは茫然と見ていた。応援席の奥にいた無名の一年生が、強豪校の大人たちを黙らせてしまったのだ。最後には相手チームの部長である3年の男子生徒が困り果てた顔をしていた。その気持ちはあたしたちには痛いほどわかったが、同時に中野の冷静さと正義感に胸を打たれた。
試合は中断となり、その後の進行は大きく改善された。もちろん結果は覆らなかったが、私たちのチームのモチベーションは明らかに上がっていたし、不正に屈せず戦えたこと自体に価値があった。
その帰り道で、あたしは中野に言った覚えがある。
「お前……すごいな」
中野はいつもの穏やかな笑顔で首を傾げた。
「え? 先輩方のプレーの邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした。ただ、フェアにやらないと楽しくないですから」
そう言ってさらっと受け流す中野に、あたしは内心舌を巻いた。
* * *
そうだ。みんな中野に「榊原先輩に壊されたりしなかったか」「かわいそうに。榊原の下にいたからこうなっちゃったの」などと言っているが、本当は逆だ。あたしのほうこそ、よく中野のような奴の先輩をやってこれたと言ってもらいたいくらいだ。あいつのあの合理的で抜け目のない思考パターンは、元から持っていた天性のものだろう。あたしは、そう確信している。そういうとんでもない奴が、なぜだか今でも、あたしのことを「先輩、先輩」と呼んで、慕ってくれるのだ。
中野は「榊原先輩こそが素晴らしい方です」「先輩のおかげで今の私がありますから」とストレートに尊敬の眼差しを向けてくる。その純粋な敬意が時折くすぐったい。あたしなんかが何をしたっていうんだ?と思うことが多い。あたしはいつも感情の赴くままに動いてしまう。それで失敗も多い。不器用なのだ。それに引き換え、中野は常に冷静で的確だ。物事を客観的に捉え、最短距離で目標を達成する。まるでプログラムが組まれているかのようだ。
(本当に……あたしみたいなのが、お前の先輩をやっていていいのか……?)
口に出しては言えないが、それが本音だった。
そして今日、久しぶりに―――あの中野紗耶香がその能力を発揮しようとしている。




