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水面の影と光  作者: 与一
第2章 ある先輩と後輩について
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暗闇を超えて

「芦川はその出来事をきっかけに水泳部を逃げるみたいに引退した」

あたしはゆっくりと言葉を紡ぐ。グラスの氷がカランと音を立てた。

「だが話はそこで終わらなかった。むしろ、彼女の受難はそこから始まったと言ってもいい」

中野は黙ってグラスを見つめている。

「引退した後だ。芦川に関する嫌な噂がじわじわと広まり始めた。彼女が自分から水着を脱いで泳ぎ出したっていう……『そういう趣味があるんじゃないか』という根も葉もない中傷だったらしい」

中野の顔から血の気が引いていくのが分かった。

「そんな馬鹿な! 中学生ですよ? まさか真に受けるなんて……」

「ああ。普通なら一笑に付す程度の話だ。でもな……多感な時期の子供たちにとって、ちょっとした異分子は簡単に悪者にされるものだ。ましてやエースだった芦川だ。嫉妬や羨望、そして梅垣への恐怖がごっちゃになって噴出したんだろうな。あたしはそこまで聞いていて直感したよ。これはただの偶然の噂じゃない。作為的だ」

「先輩、それってもしや誰かが……」

中野が慎重に切り出す。彼女の賢さなら、背後に何があるか読めているはずだ。あたしは頷いた。

「ああ。この噂を裏で煽っていた可能性のある人物が一人いる」

「梅垣……ですか?」

「あくまで私の推測だ。確証はない。だが状況を考えると辻褄が合う。梅垣にしてみれば、芦川の抵抗を許せなかっただろうし、自分への忠誠心を試したかったのかもしれない。あるいは単純に腹いせか……。それに彼女は水泳部の顧問であると同時に体育教師だ。生徒たちの動向を把握するのは容易だろうしな」

「最低ですね……」

中野が低い声で吐き捨てる。

「そうだ。だが証拠がない。学校も梅垣も下手に動かない。だから芦川は耐えるしかなかったんだ」

あたしは改めてジョッキに手を伸ばした。既に温くなっている。

「芦川は中学で完全に孤立した。友達だと思っていた連中も次々に離れていく。先生たちは見て見ぬフリだ。梅垣に睨まれたくないからな。それでも芦川は諦めなかった。この逆境を乗り越えるための術を見つけたんだ」

「それが……うちの学校への進学ですか?」

中野が顔を上げた。

「そうだ。芦川の地元のこの高校なら多香美の影響が少ない。新天地で気持ちを新たにする。そのための準備を秋から密かに始めたんだろうな。入試もトップレベルの成績で合格している。彼女の意志の強さが表れている」

「芦川さんのその経験が……今の彼女を作ったんですね」

中野の声に同情と共感が混ざっている。

「芦川は水泳部時代、高熱にもかかわらず試合に出場させられようとしていた後輩がいたのをかばって、自分がその子の分も出たことがある。卒業式の直後、寮にその子からの手紙が届いていた。内容は、『先輩、あの時、かばってくださったのに、何もできなくてごめんなさい。新しい高校で幸せになってください。私は大丈夫ですから』というものだった。それだけが、この話のわずかながらの救いかな」

 あたしは付け加えた。少しだけ声が柔らかくなったのを感じた。

「先輩に全てを話した後、芦川さんはどうだったのですか?」

中野が心配そうに尋ねた。

「あの子は……安堵したような表情をしていた。長い間、ずっと一人で抱え込んでいた重荷を下ろせたような、そんな感じだ。泣きながらな。初めて見たよ……あんなにも感情を露わにする芦川を。今までずっと、我慢していたんだろうな……。それに中学の話をしながら、何度もあたしに『ごめんなさい、ごめんなさい』って謝るんだ。あたしのことを勝手に警戒していたことを。仕方ないよ、芦川にとって女性の体育教師と言えば、ずっと梅垣のイメージだったんだからな。そこへ、あたしみたいな怒りっぽい奴を見れば、そうもなるよ……」

芦川のその時の様子を思い出す。今にも消え入りそうな声で何度も謝る姿が、あたしの胸に刺さる。

「芦川さん、梅垣のせいで謝る癖がついてしまったんでしょうね」

中野も深刻な顔で言った。あたしは無言でうなずいた。

「それで、今は体育の授業はどうしているんですか?」

「ひとまず、水泳の授業に関してはな。見学でさえも厳しい状態だと判断した」

あたしは静かに説明を始めた。

「水着姿の女子生徒の集団を目にするだけでも、相当な苦痛になるだろう。あの時の記憶が呼び起こされて、また動けなくなる可能性がある」

「それは分かります。辛すぎますね……」

中野が眉を寄せる。

「ああ。だからな、毎年なんだかんだ言って水泳の授業をサボる生徒が一定数いるから、芦川もその中に紛れてくれればいいと言ってある。特に追及もしないし、見学票も必要ない。あいつが無理をしないことが最優先だ」

「そうですよね」

中野が同意する。

「だがな、それ以外の種目に関しては積極的に参加してくれるようになったんだ。以前は、目立たないようにあえて手を抜いたり、距離を置いていたりしたがな」

あたしは続けた。グラスに残ったビールを回しながら。

「最近ではボール拾いなんかも率先してやってくれるし、マット運動なんかの補助もしてくれる。あたしが教えている最中も、他の生徒と楽しそうに話し合ったり笑ったりする姿を見ることも増えてきた」

「それは大きいですね」

中野の顔がパッと明るくなる。

「ああ。やはり信頼関係ができてきたのかもしれない。あたしに対しても随分と打ち解けてくれたようでな」

「よかったですね。先輩」

中野がほっとしたように微笑む。あたしも少しだけ口元を緩めた。

「芦川自身はな……本当は、泳ぐこと自体は嫌いではないようなんだ。過去にあんな形で中断してしまったが、本来持っていた情熱のようなものはまだ心の奥底に燻っているような気がする」

「ええ。多香美女子校での実績を考えれば、当然でしょうね」

「だからな……今はまだ早い。無理をさせると、かえって悪化させるだけだ。あいつ自身が『もう一度泳ぎたい』と思えるようになるまで待つしかないと思っている」

「焦らず見守るのがベストでしょうね」

中野が深く頷いた。

「ああ。かなり厳しいものを抱えてはいるがな……見方を変えれば、よくここまで回復したともいえるのかもしれない」

あたしは窓の外に目をやった。夜の街灯がぼんやりと道を照らしている。

「確かに。ここまでの話から考えれば、芦川さんの回復力と精神力は相当なものだと思いますよ」

中野がポツリと言った。


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