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5話 静なる侵略 前編

暗い水面が、静かに揺れている。

映っているのは、清水港。歪んだ路面。崩れた構造物。そして——一体の巨人。

観測は、すでに終わっていた。

「……合体機構は確認した」

ヤルダバオトが、淡々と告げる。感情の起伏はない。結果だけを見ている。

「想定外ではあるが問題ではない」

背後で、影が動く。

ヴォルグは無言。タイドは、わずかに口元を緩めただけ。

次の瞬間。

「西だ」

ヤルダバオトの声が、はっきり響く。

「同じ場所に価値はない」「環境を変える」

ゆっくりと、指先が水面をなぞる。

映像が切り替わる。

浜名湖。冬の淡水と海水が混じる水域。静かに張られた、海苔棚。

「奪取対象は、ここだ」

その言葉を受けて、ガルムが一歩前に出る。

短く、頷く。

「了解だ」

「アビスノリミドロを投入する」

水面が、暗転する。


浜名湖の冬の朝の水面は、凪いでいる。空気は冷たく、息を吐くと白くほどけた。

湖面には、等間隔に並ぶ海苔棚。黒い網が水に沈み、ところどころで浮きが静かに揺れている。

「今朝は、いいな」

漁師の一人が、湖を見渡して呟く。

風は弱い。波も立たない。この時期にしては、穏やかすぎるほどだった。

船がゆっくりと進み、網を引き上げる。

水面から現れた海苔は、深い緑から黒に近い色をしている。冷たい水を吸って、ずっしりと重い。

「いい出来だ」

誰かが、そう言った。

浜名湖の海苔は、淡水と海水が混じるこの水域で育つ。流れが緩く、栄養が溜まりやすい。だからこそ、この時期の収穫は、一年の中でも重要だった。

船のエンジン音。網が擦れる音。水が落ちる音。

すべてが、いつも通りだった。

だが、

湖面の一角が、わずかに濁る。

「……?」

誰かが、網の向こうを見る。

水の色が、違う。黒でも、緑でもない。どろりとした、濁った影。

次の瞬間。

——ぐずり、と嫌な音がした。

網が、沈んだ。

「おい、重すぎるぞ!」

船が、わずかに傾く。水面が、不自然に盛り上がる。

湖は静かなままなのに、水の“中”だけが、動いていた。

誰も、まだ知らない。

この収穫の朝が、“奪われる側”の始まりだということを。


網が、引き上がらない。

「絡まってる……?」

漁師が顔をしかめる。

海苔棚の網は、本来ここまで重くならない。引っかかるにしても、流木か、貝殻だ。

だが——水面に現れたものは、どちらでもなかった。

黒い。

いや、黒よりも濃い。湿った闇のような塊が、網一面にまとわりついている。

「……なんだ、これ」

指で触れた瞬間。

「うわっ!」

漁師が、思わず手を引っ込めた。

ぬめる。冷たい。そして——

臭う。

生臭さとも違う。腐った藻とも違う。鼻の奥に残る、嫌な匂い。

「海苔が……」

網の中の海苔は、色が落ちていた。さっきまでの深い緑は消え、灰色に近い、濁った色に変わっている。

触れると、崩れた。

溶けるように、指の間から落ちていく。

「……嘘だろ」

別の網も引き上げられる。

同じだ。

さらに、隣の棚。その隣も。

黒い塊は、網から網へ。水の中で、静かに広がっている。

湖面は、相変わらず凪いでいる。風もない。波もない。

それなのに——被害だけが、増えていく。

「全部……ダメだ」

誰かの声が、震えた。

海苔棚は壊れていない。支柱も、網も、無事だ。

だが、商品になるはずの海苔だけが、確実に“死んで”いた。

湖の底で、何かが、ゆっくりと動く。

絡みつき、覆い、溶かしながら。

まだ、姿は見えない。

——だが、浜名湖の静けさだけは、確かに、ここで終わっていた。


湖畔の道を、いずみは一人で歩いていた。

朝の冷気が、頬に刺さる。

浜名湖は、遠目には穏やかでいつもと変わらない湖だった。

――だが。

いずみは、足を止めた。

「……おかしい」

声に出したのは、それだけだった。

湖から吹く風が、重い。湿っているのに、冷たくない。鼻を突くわけでもないのに、呼吸の奥に残る。

“水が、淀んでいる”

視線を落とす。岸近くの水面に、細かな泡。自然に立つものではない。弾けもせず、流れもしない。

いずみは、しゃがみ込み、手を伸ばした。

水に触れた瞬間、指先が、わずかに粘った。

「……」

引き上げた指に、何も付いていない。だが、感触だけが残る。

水の“重さ”が、違う。

湖の奥。海苔棚の並ぶ方向から、微かな歪みが伝わってくる。波ではない。流れでもない。

――広がっている。

いずみは、無言でシゾーカブレスに触れた。

通信が、静かに開く。

「徳川指令、いずみです」

声は低く、落ち着いていた。

『どうしましたか、いずみさん』

「浜名湖の 水が、何か変です」

短く、要点だけを伝える。

「何かが壊れているわけでも湖が荒れているわけでもないです。」

「でも……何かが蠢いている感じがします。」

少しだけ、言葉を選ぶ。

「広く、薄く  何かが、湖に張り付いています」

通信の向こうで、間が空く。

『現地被害は確認できています』

静の声は、冷静だった。

『先ほど漁業関係者から、収穫異常の報告が入りました』

『海苔の価値消失が起こっています。』

いずみは、湖面から目を離さない。

「何かが削られてる、そんな感じですね。」

『そうです。』

徳川指令は、即答した。

『他のメンバーを招集します』

『いずみさんは、そのまま現地で様子を見ること。一人では不用意に近づかないで』

『成実さんと合流後調査を開始してください。』

「了解です」

通信が切れる。

いずみは、もう一度湖を見た。

凪いだ水面。何事もない朝。

だが、その下で、確実に“何か”が動いている。

いずみは、静かに息を吐いた。

「……見えない方が、厄介だな」

浜名湖の水は、答えてはくれない。

ただ、ゆっくりと、価値だけを奪い続けていた。


教室は、静かだった。

チョークが黒板を叩く音。ページをめくる音。窓の外で、冬の風が鳴る。

成実は、ノートに視線を落としたまま、教師の声を半分だけ聞いていた。

その時——

手首が、微かに震えた。

音はない。光も、ない。

だが、確かに“合図”だった。

成実は、ペンを止めない。顔も上げない。

ブレスの内側だけが、静かに開く。

『成実さん』

徳川指令の声。短く、はっきりしている。

「はい」

声は、心の中だけで返した。

『浜名湖で収穫中の海苔に異常が出ています』

黒板に書かれる数式を、目で追いながら聞く。

成実の指が、ノートの端を押さえた。

「……何かを削るタイプですね」

『現地に、いずみさんがいます』

『成実さんも、直接向かってください』

一瞬、教室を見渡す。

誰も、こちらを見ていない。

「了解です」『安全第一で』

通信が、切れる。

成実は、静かに立ち上がった。

「先生、お腹の調子が悪いので、トイレへ行ってきます。」

教師は一瞬だけ成実を見て、小さく頷いた。

「無理するなよ」

教室を出る。廊下の空気が、冷たい。

成実は、歩きながらブレスに触れた。

そしていずみに通信を入れる。

「いずみくん、今から行きます。どこで合流すればいいですか?」

いずみが答える。

『知波田駅で合流しよう』

「了解。今から向かうと50分後くらいに知波田駅に着くと思う」

『50分後に知波田駅で待ってる。』

成実はいずみとの通信が終わると小さな声でつぶやいた。

「……冬の湖、か」

胸の奥で、嫌な感覚が広がっていく。

走り出す前に、立ち止まる。

窓の向こう。遠くに見える空は、澄んでいる。

「……穏やかな時ほど、来るんだよね」

そう呟いて、成実は校舎を後にした。

浜名湖へ向かうために。


中編へ続く

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