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グレートヒェンの祈り  作者: 藤和
第2章 呪われたファウスト
9/14

3:日だまりの期限

 その日は竜ケ崎と一緒に、電車とバスを乗り継いで登校した。家を出るときに、竜ケ崎のお母さんが直接僕にお弁当を渡してくれた。

「お昼、ちゃんと食べてね」

 そう言って彼女から渡されたお弁当はきっちりとお弁当包みで包まれていて、僕専用のお箸もついている。当然お弁当箱もお弁当包みもお箸も、僕が用意したものではない。竜ケ崎のお母さんがわざわざ用意してくれたものだ。

 中身も外側も彼女が用意したお弁当を受け取るのは泊まりに来るといつものことだし、毎日お弁当を作ってもらっているにもかかわらずおどろいてしまって、僕はありきたりなお礼しか言うことができなかった。この家庭のあたたかさに憧れるのに、僕はいまだに慣れることができない。そのことが歯がゆくて、竜ケ崎の腕を引いて駅へと向かった。

 駅へ向かう道中、竜ケ崎とこんな話をした。

「なんか、いつも迷惑をかけてるような……」

 僕のつぶやきに、竜ケ崎は僕の頭をわしわしと撫でる。

「迷惑じゃないって。母さんも小絹が来るの楽しみにしてるみたいだしさ」

 社交辞令でもそう言われるのはうれしかった。竜ケ崎と並んで歩く朝の道は明るく、さわやかだった。

 電車通学になれていない竜ケ崎と一緒に学校最寄り駅まで行くと、いつもよりすこし遅い時間だったので、水海道と松戸のふたりとは合流できなかった。挙げ句の果てにはバスに乗客を積みきれず、一本あとのバスに乗ることになってしまった。竜ケ崎はそのことに辟易したようだけれども、僕からすればこれもいつものことだ。次に来たバスに乗り込んで、すし詰めになりながら学校へ向かう。人混みに押されて竜ケ崎とぶつかるたびに、昨夜焚いていたお香の香りを感じる。

 このままふたりでどこかへ逃げられれば良いのに。そう思った。


 夕方になり、学校から家に帰る。途中までは水海道と一緒で気をしっかり持てたけれども、駅から自転車に乗って家に向かう間、気持ちが沈んでしかたがなかった。

 これから家に帰ったら、どんな目に遭うかがわかりきっていたからだ。

 日が落ちてきた頃、強張る体をなんとか動かし、渇いた口で息をしながら、家に着き玄関を開ける。するとすぐさまに母親が出てきて僕のみぞおちを殴りつけた。

 思わずかがみ込んだ僕のことを何度も殴り、蹴りつけながら母親がヒステリックに叫ぶ。

「はやく家のことをやりなさい!

 あんたがいない間に溜まってるんだからね!」

 母親が他の部屋へ移動してから、僕は起き上がって自室へ向かう。まずは制服と鞄を隠して、それから家のことをやらなくては。

 いつものようにベッドのマットレスの下に制服を、ベッドの下に鞄を隠して着古した部屋着に着替えてから台所へと向かう。台所には使用済みの食器が積まれている。

 食事を作る前に食器を片付けないと。機械的に食器を洗っていると、突然後頭部に衝撃が走った。

「なにもたもたやってんの! 早くしなさい!」

 これは早く夕飯を作れという催促だ。まずは食器を片付けないと夕飯の用意もできないということが母親には理解できないのだろうか。いや、理解した上でただ僕を殴る理由が欲しいだけだ。理由もなく誰かを殴りたい人間というのも少なくない。

 殴られた衝撃で目がくらむ中、なんとか食器を片付けて夕食の用意に取りかかる。冷蔵庫の中には一昨日のうちに僕が買っておいた食料がまだ残っている。もっとも、昨夜の夕食を作ったのであろう母親の仕業か、僕が食べるだけの食料はないけれども。

 あり合わせの食料を調理しながら、竜ケ崎の家で過ごした時間を思い返す。僕は神の許しがあってもこのまま一生呪われて過ごすのだろうか。僕にとって竜ケ崎は、神の許しそのものだ。けれどもその許しでも、僕の呪いを解けそうにもなかった。

 夕飯の用意ができ母親を呼ぶと、テーブルの上に並べた料理をすべてなぎ払われ、また殴られた。

「今日食べたいのはこれじゃないってなんでわからないの! この愚図が!」

 何を食べたいかなんて言われないとわからないのに、母親はいつもこうだ。自分の考えていることは言わなくても伝わって当然だと思っている。理解できない方が悪い。いつだってそういう態度だ。母親の言うことは数十秒ごと、いや、ひどければ数秒ごとに変わる。言っていることに一貫性がないのだ。その上自他境界線がなく、僕のことを自分の所有物、なんならどれだけこき使ってもいい自分の分身だと思っているようだ。だから、なにも言わなくても僕が母親の要望を汲むのは当然だし、なにも言わずに働いて尽くすのも当然だと思っている。そのくせ外の人間に対してはいい親の顔をする。外に見せる顔だけは良く見えるように繕うので、端から見ていると一貫性のある良い母親に見えるようだ。実際には、人の形をしているだけで、どんなけだものよりもけだものらしい生き物なのに。

 仕方なくひっくり返った料理と食器を片付けて、食材を買いに行く準備をする。この食材を買うのも僕のお金だ。世間体を保つためか、父親は一応僕にお小遣いをくれる。けれどもその中から両親のための食費を出さなくてはいけない。こんな状況で僕がなんとかやっていけているのは、今は東京に住んでいる兄の妻、僕からしたら義理の姉に当たる人が、こっそりとお金を送ってくれているからだ。

 義姉さんがどうしてそんなことをしてくれるのかはわからない。ただ、なかなか会えないながらにも、義姉さんにも感謝していることはたしかだ。

 僕はいろいろな人の善意に助けられているという自覚はあるけれど、その善意を両親が食い潰していることが耐えがたかった。

 買い物から帰り両親の分の料理を作り終えると、また殴られた。なんでこんな時間までかかったのかと言っていたっけ。

 両親が寝たあと、体が痛むのを感じながらシャワーを浴びる。あらためて自分の体を見てみると、服で隠れるところだけにいくつも痣ができていた。


 翌日、また両親が目を覚ます前に家を出て学校へ行く。日が昇る頃隣の駅に行けば水海道がいる。それから電車に乗れば学校最寄り駅で松戸とも合流できるし、学校の生徒ホールまでたどり着けば朝日の中で竜ケ崎が待っている。僕はその日常の一部にすがりつきたいのだ。

 いつも通りに学校について午前中の授業をこなし、昼休み。僕はまた竜ケ崎のクラスに行く。竜ケ崎の隣に座ると、彼はまた僕にお弁当を手渡した。それから、松戸と水海道もやってきて、いつも通りのお弁当の時間だ。家から離れて安心できる貴重な時間。

 その中でふと、松戸が固い声でこう言った。

「前から思っていたのですけれど、小絹君は児童相談所に行った方がいいと思うんです」

 空に雲がかかって教室の中が暗くなる。すこし言いづらそうに聞こえるその言葉に、僕は頭を横に振る。

「児童相談所は行くだけ無駄だ。少なくともあの地域の児童相談所は、僕よりも僕の親を信用しているからな」

 それを聞いて、松戸はやはり。という顔をする。

 児童相談所にはすでに相談に行ったことがある。その時、自分よりも外面の良い親の言い分だけに納得され、助けてもらえなかった。外面しか整合性がとれていない親の言い分しか聞いてくれなかった。家の中では一貫性がなく、ただただ僕に暴力を振るう親の言い分を。

 そして僕が児童相談所に相談したと言うことで激怒した親にひどい目に遭わされたのだ。思い出すだけで背筋が凍り、口の中がカラカラに乾く。

「そもそもうちはあのあたりの大地主だからな。信用していなかったとしても逆らえないだろう」

 僕の言葉に、松戸が視線を外してため息をつく。

「それに、あの手の親は外面がいいですからね」

 松戸もなにか思い当たる節があるのだろう。苦々しくそうつぶやく。それから、竜ケ崎がしょんぼりと俯いて口を開いた。

「なんか、うちでできることがほとんどなくてごめんな。下手な手出しはしない方がいいって母さんが言うから」

 気持ちが沈むこのやりとりを聞いていた水海道が、暗い顔をして俯く。

「私、小絹先輩がそんなにたいへんなんだって知りませんでした。

 でも、私何もできなくて……」

 震える声で、今にも泣き出しそうに口元をおさえる水海道に僕は言う。

「学校で一緒にいてくれるだけでいいんだ。

 水海道も、松戸も、竜ケ崎も」

 すると、水海道は目をぎゅっとつむってからにっこりと笑う。

「それじゃあ、またみんなでお茶会しましょう! ね、竜ケ崎先輩」

 おそらく、竜ケ崎が焼いてくるクッキーを期待しているのだろう。きっと、竜ケ崎が焼くクッキーが僕も松戸も好きなことには気づいている。水海道が竜ケ崎のことを見ると、竜ケ崎は水海道の頭をわしわしと撫でて笑う。

「そうだな。せっかく生物室でハーブも育ててるし」

 その言葉に、みんなで笑い合う。みんながいれば僕は家のことも耐えられる。

 でも、もしみんながばらばらになったら?

 その時のことを考えるとこわくなった。

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