2:癒やしの草原
なんとか午前中の授業をやり過ごし、昼休みを迎える。クラスの中の生徒達がガタガタと机を動かして昼食の用意をするのを尻目に、僕は教室を出てふたつ隣にある竜ケ崎のクラスへと向かった。
お昼時、美術科であるこのクラスの生徒は竜ケ崎以外全員芸術棟で過ごしているらしい。なので、クラスが違う僕がこの教室に来ても、だれも疑問には思わない。ここは他のクラスの声が遠くて心地良かった。
「よう、待ってたよ」
そう言って教室前面にある教壇に座った竜ケ崎が、僕にお弁当を差しだしてくる。僕はそれを受け取って、竜ケ崎の隣に座った。その時、かすかに竜ケ崎から甘い匂いがするのを感じ、張り詰めたこころがすこし緩んだ。
そうしていると足音が聞こえてきて教室のドアが開く。水海道と松戸もやってきたのだ。
「こんにちわ!」
「お邪魔します」
軽く挨拶をして入ってきたふたりは、生徒ホールのベンチに座ったときと同じ並びで教壇に座る。それから、安心したようすでお弁当を広げた。
僕も竜ケ崎から渡されたお弁当を広げてつぶやく。
「いただきます」
僕のために用意されたお箸を手に持って、おかずとごはんがぎっしり詰まったお弁当を夢中で食べる。これは、僕がまともに食べられる数少ない食事なのだ。
竜ケ崎が僕のお弁当を持ってきてくれるようになったのは、一年の時。一緒に昼休みを過ごすようになった頃からだ。購買でパンを買えた日以外はなにも食べるものがなかった僕を見かねて、お弁当を持ってきてくれるようになったのだ。
もちろん、お弁当を持ってきてくれるようになる前に、なんでお弁当を持ってこないのかの理由を訊かれた。正直に話して受け入れてくれるかどうかわからなかったし、そんなことがあるはずないと否定されるかもしれないと思って、話すのがこわかったのをよく覚えている。
けれども、どんな話をしても怒らないから。と真剣な顔をしていた竜ケ崎になら、話してもいいと思ったのだ。
僕は、家でまともな食事ができないこと、一切の家事をやらされていること、ことあるごとに両親が僕を殴ってくることなどを洗いざらい話した。
こんな話をしたら、怒らないまでも否定はされるかもしれない。そう思ったのに、竜ケ崎はこう言った。
「わかった。じゃあお前の分のお弁当も用意してくれないか、母さんに訊いてみる」
あまりにも当然のことのように言うので思わず耳を疑ったし、ほんとうにそんなことをしてくれるとも思っていなかった。当然期待なんてしていなかった。
それなのに、次の日から竜ケ崎は僕の分のお弁当も持ってきてくれるようになった。どうやら、たまには竜ケ崎も晩ごはんを作るという交換条件の下で彼のお母さんは僕の分のお弁当も作ってくれると言ったとのことだった。
はじめて竜ケ崎からお弁当を手渡されたとき、僕は何も言えなかった。あまりにも信じられない出来事で、心が硬直してしまったのだ。そんな僕の頭を撫でて、竜ケ崎はにっと笑った。
あれからもう一年は経っている。竜ケ崎と、竜ケ崎のお母さんのおかげで平日はお昼ご飯を食べることができている。竜ケ崎とそのお母さんには感謝してもしきれない。このお弁当があれば、休日の空腹にも耐えられるのだ。
僕が夢中でお弁当を食べていると、竜ケ崎が隣から僕の顔をのぞき込んだ。
「そういえば小絹、今日うちに泊まっていかない?」
喧噪が遠い教室で、はっきりと聞こえる突然の言葉に、僕はつっかえそうになりながらごはんを飲み込んで答える。
「急に言われても、家に帰って親のごはんを作ったり、洗濯したりしないと」
その声は、発した僕自身がおどろくほど暗い。隣のクラスから聞こえるちいさな笑い声にすらかき消されそうだった。
すると、竜ケ崎はすこし身をかがめて見上げるようにして甘えた声で言う。
「古典の宿題出ちゃったんだよー。
うち来て宿題教えて。ね?」
これは口実だ。そう直感した。
古典の成績は僕よりも竜ケ崎の方がいい。だから僕が教えるまでもなく片付けられるだろうし、なによりほんとうに宿題が出ているかどうかも疑わしい。
けれども、僕が宿題を教えるという口実を使うのならば、僕の親は見栄を張るために宿泊許可を出すだろう。それを見越しているのだ。すこし安心して外から聞こえる鳥の声に乗せて返す。
「わかった。泊まりに行く。
でも、帰りはどうするんだ?」
そう、帰りの交通手段が問題だ。竜ケ崎は自転車通学で、僕はバスと電車。学校から竜ケ崎の家まで自転車で三十分ほどの距離なのだけれども、さすがにその距離を歩くだけの体力が僕にはない。
そう思っていると竜ケ崎はこう言う。
「学校に自転車置いてバスと電車で帰るよ。
それならお前と一緒に帰れるし」
「わかった。そうしよう」
そのやりとりのあと、僕はまたお弁当を口に詰める。ふと、水海道が松戸に話しかけてるのが聞こえた。
「小絹先輩はたまに竜ケ崎先輩の家に泊まりに行ってますけど、松戸先輩はお泊まりしないんですか?」
あまりに素朴なその問いに、松戸はくすくすと笑う。
「残念ながら、僕は友人宅に泊まりに行ってはいけないと親に言われているので」
「そうなんですか?」
松戸は松戸で家のしがらみが面倒だと聞いた。僕と彼とでどちらが不幸かなんて比べる必要はない。けれども、家のしがらみのせいでクラスになじめない僕と松戸、それに、自身の特性故にやはりクラスになじめない水海道のことを受け入れて守ろうとしてくれている竜ケ崎のことを、わずかな時間とはいえ独り占めできるという事実には優越感があった。
授業が終わり、放課後の日だまりのような部活の時間も終わったあと、僕と竜ケ崎はふたりで電車にゆられていた。
学校最寄り駅までは生物部の四人揃ってバスで向かったのだけれども、そこから先は行き先がばらばらだ。正直言えば、水海道をひとりで帰すのが心配ではあったけれども、竜ケ崎の誘いはその気持ちに勝った。
二駅ほど電車に乗ってから別の路線に乗り換え、終点から竜ケ崎の家まで人気のない道を歩いて行く。この道を歩いていると、ここまでは母親も父親も来ないんだと安心できた。
そしてたどり着いた一軒家で、竜ケ崎がチャイムを鳴らして玄関を開ける。
「ただいまー。小絹も来てるよ」
竜ケ崎が家の中に声をかけると、奥からあたたかい匂いと共にふっくらとしてはつらつとした女性が出てきて僕に笑いかける。竜ケ崎のお母さんだ。
「いらっしゃい。またこの子が泊まってほしいとか無理言ったんでしょ? 遠慮なく上がって」
「はい、お邪魔します」
竜ケ崎のお母さんが言うとおり、泊まりに来てほしいなんて急に言うのは無理矢理と言えば無理矢理だ。けれども僕は、この家に来るとひどく安心する。そう、自分の家なんかよりも、ずっと。
「それじゃあ、小絹君のお母さんには私から電話しておくね」
玄関に上がると、竜ケ崎のお母さんはそう言う。それからすぐに電話をかける声が聞こえてきた。
「もしもし、小絹さんのお宅ですか?
はい、いつもお世話になっております竜ケ崎です。
どうもうちの子が息子さんに宿題を教えて欲しいって言ったらしくて……
はい、はい、そうなんです。やっぱり立派なお母さんがいる子は違いますからね」
電話に向かって、竜ケ崎のお母さんは僕の母親を褒めそやすようなことをいくつも口にする。本心はどうだかわからないけれど、こうやっておだてておけば、僕の母親が大人しくしているというのをわかっているのだ。
ひとしきり話してから、竜ケ崎のお母さんが冷たい目をして静かに電話を切る。張り詰めた空気になったけれど、すぐ僕たちに笑顔を向けた。
「それじゃあ、晩ごはんの用意するからふたりともすこし待ってて」
そう言ってから、竜ケ崎のお母さんは僕の頭を撫でる。
「今夜はこれで大丈夫だろうから、安心して」
「……はい。ありがとうございます」
気恥ずかしくて僕が頭を下げると、竜ケ崎が二階にある自室へと僕を招く。ふたりで部屋に入ると、竜ケ崎がクローゼットの中からゆったりとしたスウェットの上下を出す。これは竜ケ崎のお母さんが、僕用にと用意してくれている部屋着だ。
「制服のままじゃ落ち着かないだろ。着替えよう」
僕がスウェットを受け取ると、竜ケ崎はベッドの上にたたまれていたスウェットを広げ、僕に背を向けた。僕も竜ケ崎に背を向けて着替える。同性同士といえども、僕はあまり自分の体を他の人には見られたくない。そのことを話したら、竜ケ崎はなにも問い詰めもせずにこうやって気を遣ってくれるようになった。その気遣いも相まって、このスウェットを着るとなんとなく柔らかくてあたたかくて安心する。
着替え終わって、ほっとしてから竜ケ崎に声をかける。
「着替え終わったぞ。そっちはどうだ」
「俺も着替え終わった。
それじゃあ、ちょっとお風呂湧かしてくるからここで待っててくれ」
すっかり着替え終わった竜ケ崎はそう言って、僕の頭をわしわしと撫でてから部屋を出る。僕は部屋の中でひとりきりになった。
改めて竜ケ崎の部屋の中を見る。おそらく小学生の頃から使っているのであろう学習机にはあまり使い込まれていない辞書が並んでいる。クローゼットの横には僕の胸くらいの高さの本棚が置かれていて、その中にはマンガと古典作品が詰まっている。アンバランスな取り合わせは、持ち主の二面性を表しているようだ。本棚の上には陶器製の香炉が置かれていて、時折竜ケ崎から感じる甘い香りを思い起こさせる。竜ケ崎はよくお香を焚くと聞いていて、その香りが制服に移っているようだった。たまにある服装検査の時に、香水を着けているのではないかと教師に疑われたこともあると言っていたっけ。
そんなことをぼんやりと考えながら、竜ケ崎と僕の制服をいつもの場所にハンガーで掛ける。こうやって目に付く場所に制服を掛けていても捨てられないのが、なんだか不思議な感じだった。
ぼんやりと並んだ制服を眺めていると、竜ケ崎が部屋に戻ってくる。
「おまたせ。もうすぐ晩ごはんもできるみたいだから下行こう」
「うん」
竜ケ崎について部屋を出て、階段を降りる。それから、すぐ側にあるドアを開けてダイニングキッチンへと入った。油の跳ねる音とおいしそうな匂いがしてきておなかが鳴る。ダイニングキッチンとつながっている居間を見ると、誰の視線も浴びないままテレビがニュースを流していた。
竜ケ崎のお母さんから声がかかるまで、ダイニングにあるテーブルについてニュースを聞きながら竜ケ崎と話をする。ふと、テレビが原発について話しはじめた。僕はそれに耳を傾ける。原発の話を聞くたびに、僕が何度も考えている進路のことがはっきりしてくる。けれども、それは両親はもちろん、竜ケ崎にすら言いづらいものだ。
ふと、キッチンから声がかかった。
「できたよー。ふたりとも持っていって」
「はーい」
竜ケ崎のお母さんの声かけに竜ケ崎が返事をし、ふたりで立ち上がる。ダイニングとキッチンを仕切っているカウンターの上に、竜ケ崎のお母さんがごはんと味噌汁、それにお箸を置く。それをそれぞれの席のところへ置くと、今度はおかずのハンバーグがカウンターの上に置かれる。それも席へと持っていった。自分の分のごはんがあることに、どうしてもそわそわしてしまう。
「小絹君はハンバーグ好きかな?」
竜ケ崎のお母さんの問いに、一瞬言葉が詰まる。
「えっと、わからないです」
好きな料理を認識できるほど、まともな食事をしたことがあるわけではない。小学校や中学校の時の給食も、苦痛に満ちたものだった記憶がある。だから、ハンバーグが好きなのかどうかは僕にはわからない。
失礼なことを言ってしまっただろうか。そう心配する僕に、竜ケ崎のお母さんはにっと笑う。
「そっか。
まあ、追々好きな食べ物も見つかるようになるでしょ」
好きな食べ物が見つかる日は来るのだろうか。
ああ、でも。僕は好きな食べ物に、すこしだけ心当たりがあった。
「この家で食べるごはんは好きです」
ぽつりとそうこぼすと、急に顔が熱くなる。すると、隣にいた竜ケ崎が僕の肩を抱く。
「それじゃあ、もっと泊まりに来てくれよ。
母さんもいいよね?」
「小絹君が泊まりに来てくれると緑が宿題をサボれなくなるからね。歓迎だよ」
息子の名前を呼んでにやりと笑う竜ケ崎のお母さんの言葉に、竜ケ崎が気まずそうに笑う。僕としては竜ケ崎が宿題を教えてくれと言うのはただの口実だと思っていたのだけれども、ほんとうに宿題をサボっているのだろうか。それとも、竜ケ崎のお母さんも口実に乗ってるだけなのだろうか。それはわからない。でも、どちらでもいい。僕のことを受け入れてくれるだけでうれしかった。
竜ケ崎のお母さんも席に着いたところで、みんなでいただきますをして食べはじめる。こんな風にあたたかい料理を食べたのはいつぶりだろう。多分、以前竜ケ崎の家に泊まりに来たとき以来だ。
夢中でごはんを食べる僕に、竜ケ崎のお母さんが笑いかける。
「おかわりしても良いからね」
口の中にごはんを詰め込んだ僕は無言で頷く。
それにしても、竜ケ崎のお母さんはどうして僕にこんなに良くしてくれるのだろう。以前そのことを訊ねたことがあったけれども、彼女は竜ケ崎と似た顔でにっと笑ってこう言っただけだった。
「小絹君みたいな子はたくさんいるからね」
その時はその言葉の真意がよくわからなかったのだけれど、あとで竜ケ崎に聞いたところ、竜ケ崎のお母さんは母親……竜ケ崎から見れば祖母だ……と絶縁しているらしい。竜ケ崎自身は母方の祖母と会ったことがないからどんな人なのか知らないと言っていたけれど、僕には絶縁している理由がわかってしまった。おそらく、竜ケ崎のお母さんも、僕と同じ立場だったのだろう。それなら、僕の母親のあしらい方を心得ているのも納得がいく。
竜ケ崎と竜ケ崎のお母さんがたのしそうにたわいのない話をしているのを聞きながら、おなかいっぱいごはんを食べた。恥ずかしいことだけれども、おかわりがたくさんあるという言葉に甘えてごはんを二杯もおかわりしてしまった。
竜ケ崎もよく食べるので炊飯器の中が空になってしまい、終電で帰って来るであろう竜ケ崎のお父さんの分のごはんが心配になった。けれども、また仕掛ければ帰ってくるまでにはごはんが炊けると、竜ケ崎のお母さんは笑っていた。
多分、竜ケ崎の家族のありようが普通で当たり前の家族なのだと思う。そのことを考える度に、この人たちが僕の家族だったら良かったのにと思ってしまう。
叶うはずなどないのに。
夕食後、お風呂に入ってから竜ケ崎の部屋でふたりでたわいのない話をする。予想通り、古典の宿題が出たというのは嘘だったようだ。けれども竜ケ崎は悪びれずに笑う。
「だって、小絹に泊まりに来て欲しかったんだもん」
なぜ僕に泊まりに来て欲しかったのか。その理由は今まで一度も訊ねられたことがない。訊ねられない理由は簡単だ。どうせ訊ねても竜ケ崎は嘘をつく。僕を傷つけないように、こいつはいつだってやさしい嘘をつくんだ。
竜ケ崎が焚いているお香の香りが部屋の中に漂う。竜ケ崎の隣に座ったときに、時々感じる香りだ。その香りを嗅いでいるとだんだんとまぶたが重くなってきて、用意された布団の上に倒れ込んだ。
くすくすという笑い声と共に、体に柔らかくてあたたかい布団が掛けられる。
「体冷やさないようにしろよ」
部屋の電気が消えて、瞼を閉じる。ベッドのきしむ音が聞こえる。
「おやすみ」
優しいその一言を聞いてしばらく、僕はゆっくりと意識を手放した。
夢を見ているのだとすぐにわかった。僕は明るくて柔らかい草地の上に横たわって、時々視界に入る花を見ていた。体は重いけれども、花の甘い香りは僕の体の疲れを癒やしてくれる。
ずっとここにいたいけれども、夢だから覚めてしまうのはわかりきっている。それに、きっとこの草地にはまた来られるだろう。僕は何度もここに訪れているのだから。
柔らかい日差しを浴びて、柔らかい草に包まれて、花の香りを感じて。夢の中で僕はまた眠った。
目を覚ますと夜が明けかけていた。この家に泊まる時だけに夢の中で行くことができる草原から帰ってきてしまった。夢の中の草原が名残惜しいけれども、いつもよりはゆっくりと眠れた。そう思いながら起き上がり隣のベッドを見ると、竜ケ崎はまだ眠っている。
どんな夢を見ているのだろうか。時々顔をしかめてうめき声を上げている。この寝顔を見ると、僕からすればしあわせな世界で生きている竜ケ崎も、なにか苦しみを抱えているのだろうとすこしだけ安心した。




