1:囚われの薔薇
朝、日が昇る前。ひんやりとした空気の中、庭にはたくさんの薔薇が咲いている。この薔薇は近隣住人にこの家の豊かさを見せつけるために植えられている。そしてこの薔薇の世話をやらされているのは僕だ。
早朝の庭の手入れが終わったあと、柔らかくほころんだ薔薇の花を一輪摘んでかじりつく。華やかな芳香と密の甘さ、それと同時に火ぶくれができるほどの焼け付くような心地を感じながら薔薇の花をむさぼる。この庭の薔薇は主に春と秋に咲く。夏を控えたこの時期は、この薔薇の花を食べられるだけ僕の生活はましだった。
たくさん食べたいけれども、食べ尽くしてしまったら両親にばれてしまう。だから、薔薇の花を三輪ほど食べるに留めた。
空腹を抱えながら家の中に戻り、台所へ向かう。これから両親の分の朝食とお弁当を作らなくてはいけないのだ。数年前はこれに兄の分も加わっていたのだけれども、兄は東京の大学に通うためにこの家を出て久しい。医学部に通って今では医者をやっているのだけれど、親戚の集まりの時くらいにしか顔を出さない。正直言えば、兄の顔など見たくなかった。この家の長男だというだけでもてはやされて、すべての面倒ごとを僕に押しつけて、それでいながら両親の束縛がいやだと言って無責任に家を出た兄のことが、僕は嫌いだ。無責任に家を出たくせに、親戚の集まりの時に肩書きを振りかざして大きな顔をしているのもまた嫌悪感を煽る。
その兄の分の食事を用意しなくてよくなったのはいいけれども、それはそれとして、両親の分の食事を作ったら、僕の分の食料はない。朝ならば両親が寝ている間に、夜は両親の目を盗んで、料理の時に出る野菜くずをなんとか口にできるかできないかだ。
両親の朝食とお弁当を作り終え、学校に行く準備をする。本来ならこんなに朝早く家を出る必要はないのだろうけれども、僕は家にいる時間をなるべく短くしたかったし、可能な限り両親と顔を合わせることを避けたかった。
部屋に戻り、ベッドのマットレスの下に隠した制服を出して着替える。鞄も人目に付きにくいベッドの下に隠していたのを取り出す。鞄の中にはペンケースしか入っていない。教科書とノートは学校に置いておくようにしているのだ。なぜなら、家に持って帰ると母親に捨てられるからだ。
小学生の頃から、何度も教科書を母親に捨てられていた。その度に、近所の人がこっそりと教科書を僕にくれていたけれども、その人たちも僕の両親にはくれぐれも内緒にするようにと、そう言っていたっけ。
スラックスに定期券が入っているのを確認して玄関を出る。家の脇に止めている自転車にまたがり、僕は隣の駅へと向かった。
一年生の頃は最寄り駅から電車に乗っていたのだけれども、今年ににはいったあたりから学校方面からは一駅戻った隣駅に行って電車に乗るようにしている。
その理由は、より早く家を出ることができるということ以外にもあった。
隣駅の駐輪場に自転車を止めると、元気な声が聞こえてきた。
「小絹先輩、おはようございます!」
振り返ると、そこには小柄な女子生徒がいる。朝日に照らされた彼女の姿にほっとした。
僕の名を呼んだ彼女に、軽く手を振って返す。
「おはよう。念のために訊くが、水海道は忘れ物はしていないか?」
すると小柄な女子生徒、水海道は鞄のポケットをごそごそと探ってまた元気に返す。
「定期券はあるから大丈夫です!」
にこにことしている水海道に僕は頷いて見せて歩き出す。
「それじゃあ行こう。そろそろ電車が来る」
水海道がちゃんと付いてきているのを確認しながら改札を通り、ホームに出る。ホームにはいろいろな制服を着た高校生や、これから出勤なのだろうなという社会人がちらほらと立っている。
アナウンスが鳴る。けたたましい音と共に電車が来る。開いたドアに滑り込んで、なんとか空いている席に水海道を座らせる。僕はその前に立ってつり革につかまった。
鞄を抱えた水海道がまだ空間の空いている周囲を見渡してから、心配そうに僕を見上げる。
「小絹先輩は座らなくていいんですか? 代わりますよ?」
その言葉に僕はぼんやりと返す。
「お前は座っていろ。どうせ手すりに手が届かないだろう。
それにこの後、人が増える。僕が座ってお前を立たせていたら、痴漢をあしらうのが面倒だ」
僕がわざわざ一駅分戻って電車に乗っている理由はこれもある。水海道が入学したての頃、小柄で気弱そうに見える彼女は頻繁に痴漢に遭っていた。それを見かねたので、痴漢よけとして一緒に通学することにしたのだ。
揺れる電車の中で立ったままうとうとする。周りに人が増えてぎゅうぎゅう詰めになる。いつ電車が止まって発車しているのか、今どの駅にいるのかもわからない状態だ。それでも特に問題はない。どうせ終点まで乗るのだから。
学校最寄り駅に着いたら、今度はバスに乗り換えだ。たくさんの人に紛れてバス停へと向かう途中で、僕はまた聞き慣れた声に呼び止められた。
「小絹君、水海道さん、おはようございます」
声の方を向くと、僕と同じ制服を着て学生鞄を持った男子生徒が手を振っている。きっちりと制服を着込んで、全身整えられた姿からは育ちの良さがうかがえる。彼は別の路線でここまで来て、いつもここで合流している友人だ。
僕が歩く速度を落とすと、水海道が彼に元気よく挨拶をする。
「松戸先輩もおはようございます!」
「はい、おはようございます」
にこりと笑ったふたりが挨拶を交わしたところで僕も軽く挨拶をして、バス停に向かって歩き続ける。バス停には、これから通勤や通学でバスに乗りたい人々で長蛇の列ができていた。
この人数をバスに詰め込むのだから、当然水海道を座席に座らせることなんてできない。僕と松戸で水海道を取り囲むようにして、なんとか彼女の身の安全を確保するのだ。
ぎゅうぎゅう詰めのバスにゆられて学校最寄り駅に着く。バスのドアが開くと、たくさんの生徒がバスから吐き出されて校門へと向かっていった。
校舎の昇降口を上がり、正面にある生徒ホールに行くと、そこには見慣れた男子生徒の後ろ姿がある。天井まである窓から差し込む明るい日差しの中、彼に駆け寄って水海道がまた元気よく挨拶をする。
「竜ケ崎先輩、おはようございます!」
「おっ、おはよう。みんな来たか」
生徒ホールのベンチに腰掛けている彼、竜ケ崎が振り返って水海道とハイタッチをする。竜ケ崎は毎朝、僕たちが来るのを待っているかのようにこの朝づく日が差す生徒ホールにいる。電車やバスのダイヤに影響されない自転車通学だから好きな時間に来られるのだろう。それにしても竜ケ崎が毎朝ここにいる理由はわからないのだけれども、それはそれとして彼がここにいて、その姿を見るとひどく安心した。
生徒ホールに入りベンチを見る。それから水海道がいそいそと竜ケ崎の隣に座り、僕はその反対隣に座る。松戸は水海道の向こうに座った。
朝が早かったせいで小さくあくびをする僕に、水海道がブレザーの内ポケットからなにかを取り出して差し出す。
「そういえば、また飴ちゃん買ってきたんです。よかったらどうぞ!」
「ああ、ありがとう」
ちいさな手のひらに乗った飴をありがたく受け取る。その飴は心なしかあたたかくて、薔薇の花びらが入っていた。空腹で胃が痛む。僕は人目を気にする余裕もなく、飴の個包装を開けて口に放り込んだ。
僕のようすに気づいているのかいないのか、水海道は竜ケ崎と松戸にも飴を渡している。これもいつものことだ。飴を食べる僕を見て、水海道はにこにこしている。まるで善意の塊のようだ。
きっと水海道は僕の事情を知らないだろう。いつも飴を持ってくるのも、ただ口寂しいときになめるためだろう。そしてそれを僕たちに分けるのは、おいしいものを共有したい。ただそれだけだろう。
けれどもこの気遣いで、僕の体はだいぶ助かっていた。




