5:悪魔の視線
そして翌週の月曜日。いつも通り部活の時間に、竜ケ崎君は大学の紹介誌を長机に広げて僕に見せた。
「この大学だったら、松戸が希望してる学科もあるし偏差値も低くない。お前の家からのアクセスも悪いからひとり暮らしする理由も付けやすい。
どうだ?」
にやりと笑う竜ケ崎君が指さしている大学は、所在地を見ても一体どんなところにあるのか僕には想像が付かない。僕が困惑していると、竜ケ崎君は東京近郊路線図を取り出して、その大学の最寄り駅を指さした。たしかに、僕の家からは十分に離れている。
「ひとり暮らしするのに大学から少し離れた場所にすれば、住む場所自体はもっと家からアクセス悪くできるだろうな」
竜ケ崎君は、ほんとうに僕の希望通りの大学を探してきてくれた。よろこびで胸が高鳴る。
「あの、この学校は竜ケ崎君がひとりで探してきたんですか?」
先への期待が隠せない僕の言葉に、竜ケ崎君は手を振って返す。
「まさか。東京に住んでる幼なじみにも手伝ってもらったんだよ」
「ああ、それは……幼なじみの方にもありがとうございますとお伝えください」
僕が頭を下げると、竜ケ崎君はあたたかい手でくしゃくしゃと僕の頭を撫でる。
「そう思うんだったら、なんか日持ちするお菓子でも用意してくれよ。俺とあいつで食べるから」
「ふふっ、そうですね」
お礼にどんなお菓子を用意しようか。今度近くのデパートにでも見に行ってみるか。そんなことを考えていると、図書館に行っていたらしき小絹君が戻ってきて僕に訊ねる。
「ところでお前の両親や親戚は、東京の地の利はあるのか?」
その問いに僕はすぐに答える。
「少なくとも、両親は東京に行かないので地の利はないでしょう。
東京に住んでいる親戚もいますが、その親戚は協力的なので、頼れないにしても厄介なことにはならないでしょうね」
すこし声を落とした僕の言葉に、小絹君は明るい窓辺のプランターの前でハーブの世話をしながら話をしている佐貫君と水海道さんのようすをちらりと伺い、小さめの声で言う、
「お前も上手く逃げろ」
僕は黙って頷いた。
とりあえず、大学卒業までどうやって両親や親族を受け流そう。それを考えなくてはいけない。高校を卒業したら、今まで以上に親戚や良家の子女と婚姻を結ばせたがるだろう。お見合いの話を上手く断れるだろうか。
そんなことを考えていると、突然甘い匂いが漂う。なにかと思うと竜ケ崎君が鞄の中からクッキーがぎっしりと入った保存容器を取りだした。
「そういえば、文化祭でうやむやになってたけど、この前みんな誕生日だったじゃん。
クッキー焼いてきたから誕生パーティーのお茶会しようぜ」
うきうきとしたその言葉と甘い香りを察知して、プランターの前にいた水海道さんがじょうろを置いて駆け寄ってくる。
「いいですね! ミントティー入れますか?」
「紙コップも蓄えてるし、ビーカーでお湯沸かして淹れようか」
水海道さんと竜ケ崎君のやりとりを聞いて、少し遅れて近くに来た佐貫君が呆れたように言う。
「勝手にビーカー使っちゃっていいんです?
それにお湯を沸かすってどうやって?」
「机にガスバーナー付いてるじゃん」
「だから勝手に使っちゃっていいんです?」
疑問の声もよそに、竜ケ崎君はさっそく生物室後方にある棚からビーカーとガスバーナー用のスタンドを取り出して、机に据え付けられている蛇口から水を汲んでいる。水海道さんは前方にある大きな机の引き出しから紙コップを出してきて、窓辺に置いているプランターからミントの葉を摘んで入れている。たまに生物部でやるお茶会でよく見られる光景だ。
竜ケ崎君がガスバーナーの栓を開けようとしたその時、先ほどまで期待に満ちた目で保存容器を見ていた小絹君が血相を変えて机越しに僕の肩をつかんだ。
「松戸、すぐに役所に行け!」
「え?」
どういうことだかわからなかった。僕は別に役所に用事はないのだけれど。そう思っていたら、小絹君は切羽詰まったようすでこう続けた。
「お前ももう十八歳だろう。このままぼやぼやしていたら、親や親戚に勝手に婚姻届を出されかねない。
そうなる前に、自分以外が婚姻届を出せないように役所で手続きをしておくんだ」
思わず血の気が引いた。たしかに、僕ももう十八歳になったから結婚は可能だ。けれどもまだ未成年。親の管理下だ。親の了承がなければ結婚できないということは、逆をいえば僕がどう思っていようと……それこそ、知らない間にでも僕と誰かの婚姻を結ぶことが、僕の両親には可能なのだ。
僕が震えている間に、事情を飲み込めていない佐貫君に竜ケ崎君が事情を説明している。それを聞いて、良家の子息だからといって、この年齢から縁談を持ち込まれていることに佐貫君は信じられないといった顔をしている。僕同様佐貫君も、僕と佐貫君では住んでいる世界が違うということに驚きが隠せないようだ。
「えっ、でも役所って、今日はもう今から行くんじゃ間に合わないでしょう。
そもそも、役所がやってる時間は学校があるし」
戸惑うような佐貫君の言葉に、竜ケ崎君は机の上に顔を寄せる僕たちを手で押し返してからガスバーナーに火を付ける。
「とりあえず落ち着け。今日はもう手遅れだけど、明日役所に行けばいい。
間に合ってるかどうかわかんないけど、行かないよりましだろ」
手際よく水の入ったビーカーにミントを詰めて火にかけている竜ケ崎君に、水海道さんは僕と竜ケ崎君を見比べておろおろする。
「でも、明日も学校ですよ?
役所に行くって言っておやすみさせてもらったらばれちゃうだろうし……」
そう、役所に行くから学校を休むなんて言ったら、両親には黙っておいても学校から両親に連絡が行きかねない。どうしたものか。
僕がそう思っていると、竜ケ崎君は親指で自分を指して言う。
「明日、日本画の画材買いに学校途中で抜けるから。松戸は荷物持ちで付き合え」
「え?」
「大きめのパネルも買うから、ひとりじゃ持ちきれないんだよ」
どういうことだろうと一瞬思ったけれど、きっとつまりはこういうことだ。竜ケ崎君の買い物を手伝うという名目で学校を抜け出して、役所に行こうというのだろう。
「上野まで出なきゃいけないから、時間かかるけどよろしくな」
そう言って、竜ケ崎君はにっと笑う。
「誰かしらからなにか言われたら、俺のせいにしろ」
笑っているけれど、竜ケ崎君の目は真剣だ。僕は黙って頷く。学校や両親にばれそうになったとき、竜ケ崎君を隠れ蓑にするのは心苦しいけれども、それが一番安全な手だと思った。
緊張が走る中、ミントが浮かんだビーカーのお湯が沸く。清々しい香りが広がる。
「とりあえず今日はお茶会だ。
せっかくの誕生日祝いにクッキー焼いてきたんだから食べてくれよ」
にこにことあたたかいミントティーを全員に配る竜ケ崎君に、佐貫君が渋い顔をする。
「そんな話を聞いたあとで、のんきにお茶会なんてできませんよ。
松戸先輩が心配ですし」
きっと彼は理解し切れていないだろうけれども、僕を気遣う素直な言葉を聞いて、僕はにこりと笑う。
「ご心配ありがとうございます。
でも、もし心配してくれるのでしたら、こういうときこそ誕生祝いをしてほしいものです。誕生日がいやなことばかりなんて、そっちの方がさびしいです」
「でも」
「それに、僕たち全員誕生日が同じでしょう? 僕だってみんなの誕生祝いをしたいんですよ」
「……それもそうですね」
渋い顔をしていた佐貫君も表情をほころばせて、納得してくれたようだ。
それから、誕生日おめでとう。のかけ声をしてみんなでクッキーを食べる。日が傾いて僕がいる長机まで光が届く。水海道さんは元々小食なせいかゆっくりと少しずつ、佐貫君は竜ケ崎君の手作りだからか多少訝しんでいたけれど、ひとくち食べて気に入ったようだ。竜ケ崎君は自分が焼いたということで遠慮がないのかざくざく食べている。僕もお茶をいただきながらゆっくりと味わう。小絹君を見ると、ずいぶんと真剣な顔つきで食べていた。
「小絹先輩、そんなに竜ケ崎先輩のクッキーがお気に入りなんですか?」
意外そうな佐貫君の言葉に、小絹君は口の中のものを飲み込んで返す。
「それもあるが、ここでなら安心して食べられるんだ」
「そうなんです?」
そんなやりとりを見て、竜ケ崎君は光に照らされて満足そうににこにこしていた。
そして翌日、一限目のあとの休み時間に竜ケ崎君が僕を教室まで呼びに来た。それから暗く冷たい廊下を歩き職員室に行って僕のクラスの担任に言う。
「すいません先生、ちょっとこれから美術科の買い物に行くんで、こいつの手を借りますね」
その言葉に、先生は馬鹿にしたような顔をして鼻で笑う。
「なんだ竜ケ崎、美術科のことは美術科でなんとかしろ。ほかのクラスに迷惑をかけるほど美術科は出来損ないなのか?」
この先生は美術科のことをよく思っていない。それはいつもの言動の端々から見て取れるし、竜ケ崎君もこの先生のことは苦手なようだ。
けれども竜ケ崎君は、いつものように萎縮するようすもなく飄々として返す。
「美術科は女子ばっかだから、男手が欲しいんですよ」
よくもまあ、こんなにするすると嘘がつけるものだ。思わず感心する。
いや、実際には嘘ではないのかもしれない。竜ケ崎君は実際に、上野の画材屋に行って欲しいものがあるとは言っていたし、美術科の生徒はほとんどが女子だというのも事実だ。だから、嘘をついているというよりは、ほんとうのことを全部は話していない。というのが正しいだろう。
納得できていないようすの先生を置いて、竜ケ崎君は僕の手を引いて職員室を出る。そのまま昇降口に向かい、静かで明るい校門を抜けていつものバス停へと向かった。
バスを待っている間、竜ケ崎君が真剣な顔をする。
「しっかりやれよ」
「……はい」
これは、僕が家から逃げるための第一歩なんだ。ここでいきなりくじけたりしてはいけない。
そう思っていると突然、犬の鳴き声が聞こえてきた。おどろいて声の方を向くと、リードを付けていない黒い犬が、こちらに向かって何度も吠えてくる。
僕はなぜか動物に嫌われがちなので僕に向かって吠えているのかと思った。けれども。
「おう、どうしたワンコ。飼い主はどこだ?」
竜ケ崎君がそう言って黒い犬に近づくと、犬はうなり声を上げてなおも鳴き声を張り上げる。そして、竜ケ崎君に噛みつこうとした。
「うおっ、あぶねぇ!」
ひらりと身をかわして竜ケ崎君が黒い犬を避けると、バスの音が聞こえてきた。
「竜ケ崎君、乗りましょう」
威嚇し続ける黒い犬に不気味さを感じながら、竜ケ崎君の手を引いて開いたバスのドアに滑り込む。
座席に座っても、先ほどの犬が頭から離れない。いつもなら動物に好かれる竜ケ崎君が襲われそうになるなんて、思ってもみなかったのだ。
「とんだ災難でしたね」
いやな動悸を感じつつ、隣に座った竜ケ崎君に話しかけると、竜ケ崎君は大きく伸びをする。
「なんかあの犬、俺が松戸を連れ出すのを止めようとしてたみたいに見えたな」
すっと背筋が冷たくなる。まさか、あの犬は僕が家から逃げるのを阻止する悪魔かなにかだったのだろうか。いや、そんなことはあるはずがない。あれはただの犬だったのだ。きっと。そう思っても不安が拭えない。
体を固まらせる僕の頭を竜ケ崎君がくしゃくしゃと撫でる。
「お前、あの犬か悪魔かなにかだと思ったな?
気にすんな。いなせただろ。それに」
「それに?」
「悪魔はお前に勝てない」
その言葉に、僕は家で禁じられている所作をする。胸の前で十字を切って、指を組んだ。
バスで学校最寄り駅に着いた僕たちは、そのまま電車に乗る。そして役所へと向かった。受付の人が制服を着た僕たちを見ておどろいた顔をしていたけれど、なんとか番号票を取って窓口に並ぶ。大きな役所だからか、待ち時間も長く手続きにずいぶんと時間を食ってしまう。早くしないと手遅れになるかもしれない。そう思うと気持ちが焦る。いつもなら気にならないはずの、周りの人のざわめきが苛立たしい。
時間を食った理由は待ち時間だけではない。入籍に関する手続きを僕のような学生がやることに疑問を持たれたのだ。ここで正直に親が勝手に籍を入れられないように。などと言ったら、それこそ役所から親の方に話が漏れるかもしれない。だから、親族が勝手なことをしないように手続きをしたいと言って誤魔化した。役所の人も僕の戸籍を見て、その言い分に納得したようだった。
それにしても、このままだと昼休みまでに学校まで戻れないかもしれない。手続きを終えて役所を出て、竜ケ崎君に訊ねる。
「どうします? このまま上野まで行くと午後までに学校に戻れませんよ」
人のざわめきの中でもはっきりと聞こえるように竜ケ崎君はすぐに答える。
「上野も行きたかったけど諦めよう。
柏にも画材屋があるから、そこで済ませる。
柏に行くだけでなんでそんな時間かかったんだって詰められたら、俺がゲーセン寄ってたって言うよ」
「……なんだか申し訳ないです」
彼の言うとおりのいいわけを使ったら、きっと竜ケ崎君の内申点は下がるだろう。高校三年生のこの大切な時期に、進路に関わるようなリスクを負わせてしまうのはさすがに悪い気がした。けれども、竜ケ崎君はきらきらした光の中でいつものように笑う。
「俺はどうとでもなる。まずどうにかしなきゃいけないのは松戸の方だろ」
その言葉に、僕はまっすぐ竜ケ崎君を見る。
「はい。僕の賭けはたしかなものです。
僕に幻の富と栄誉を見る人たちには負けません」
そう、竜ケ崎君にリスクを負わせているならなおのこと、僕が弱腰になって家から逃げることを失敗してはいけないのだ。
竜ケ崎君が頷いてから僕の背中を軽く叩く。
「とりあえず急ごう。小絹が心配だ」
僕は頷いて、竜ケ崎君と並んで歩きはじめる。
あとはこの足で逃げられるよう、両親を騙し続けるだけだ。




