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グレートヒェンの祈り  作者: 藤和
第1章 メフィストの呪縛
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2:旅立つあの人

「それで、牛久先輩との縁談は断ったのか?」

 竜ケ崎君のひとことにはっとする。

「はい。お断りしました。

 まあ、そのあと母親に、あの子が二号だと困る。と文句は言われましたが」

 僕のその返答に、小絹君は渋い顔をして竜ケ崎君と水海道さんはきょとんとしている。

「二号ってどういうこと?」

 のぞき込むように僕を見て無邪気に問いかけてくる竜ケ崎君の言葉に、水海道さんも僕をじっと見る。

 困った。この意味がわからない子達に意味を教えて良いものだろうか。そもそも高校生がこういった意味で使っていい言葉でもないのだから。

 僕が答えあぐねていると、小絹君が遮るように手を伸ばし、ふたりの追求を止めるように口を開く。

「あまり気にするな。良い意味ではない。

 ……まったく、いつまで昭和の感覚なんだ」

 ため息交じりの言葉になにか不穏なものを感じ取ったのか、竜ケ崎君も水海道さんも追求するのはやめたようだ。

 それにしても、あのあと牛久先輩が肩身の狭い思いをしていなければいいけれど。思わず心配になる。今朝登校してきたときに生徒ホールで見かけたから、学校に通えなくされたということはなさそうだけれども、家での居場所があるかどうかはわからない。僕が縁談を断ったとき、牛久先輩を睨みつけた彼女の両親の顔がなかなか頭から離れなかった。

「そういえば牛久先輩、いずれ留学するつもりだって言ってたけど、松戸の話と関係あんのかな?」

 思わず俯いてしまったところに竜ケ崎君の言葉が飛んできて、はじかれたように顔を上げる。

「牛久先輩、外国に行っちゃうんですか!」

 僕と同じように竜ケ崎君を見る水海道さんが、余程おどろいたのか体を上下に揺らしている。それに合わせておさげも揺れた。

 水海道さんの言葉に、竜ケ崎君がちらちらと芸術棟の方を気にしながら答える。

「どうなんだろうな。俺も詳しくは聞いてないからよくわかんないんだけど」

 牛久先輩は、いつから留学のことを考えはじめたのだろう。それはわからないけれど、『留学』という言葉が僕の心にこびりついた。


 牛久先輩とのお見合いを破談にしてから数ヶ月。寒風吹きすさぶ冬を越え、降り注ぐ日差しも柔らかくあたたかい。桜のつぼみも膨らんでいる。時は春。三年生は卒業式を終えたばかりだった。

 竜ケ崎君が言うには、美術科の三年生はまだ芸術棟に荷物を置いている人も多いらしく片付けに追われているそうだ。どこからともなく寝袋が出てきたり、備品だと思っていたIHヒーターが先輩のものだったりと、驚きは尽きないらしい。

「日本画室は片付いているのか?」

 卒業生のせわしなさをよそに、僕たち生物部員はいつも通り半分ほど日の差し込む生物室でのんびりしている。そのなかで、小絹君がふと窓辺にある水槽を洗っている竜ケ崎君にそう訊ねた。

 竜ケ崎君は愛想よく笑って返す。

「片付くもなにも、俺らが蓄えたものもあるからな。割り箸とかカイロとか」

「たしかにあると助かるが、なんで蓄えているんだ?」

 日本画室に割り箸とカイロを蓄えているのは、他でもない竜ケ崎君だ。蓄えている理由は小絹君同様僕も疑問なのだけれども、いざというとき竜ケ崎君の蓄えに助けられることもあるのであまりどうこう言えたものでもない。

 両手で持った亀と目を合わせてにこにこしていた竜ケ崎君が、ふと寂しそうに言う。

「そういえば、牛久先輩がつまみ食いするのにいつも蓄えてた納豆も冷蔵庫からなくなってたよ。

 ほんとうに卒業しちゃうんだなぁ」

 それを聞いて、水海道さんが青々としたハーブが植えられたプランターの前で振り向き、寂しそうな笑みを浮かべて俯く。ハーブの世話をする手はしばらく止まっていたようだ。いまだにクラスになじめず、昼休みを僕たちと一緒に竜ケ崎君のクラスで過ごしている水海道さんが学校に一人残されたとき……そう、僕たち三人が修学旅行に行っていて学校に来られなかった間……牛久先輩が水海道さんを日本画室に匿ってくれていたのだ。水海道さんは元々人懐っこいのもあり、あれ以来頻繁に牛久先輩と仲良くしていたっけ。

 そう、牛久先輩がはじめて生物室に来たときの用件にも、水海道さんは興味を示していた。その時の用件というのが、栗を使って納豆を作りたいというというものだった。お見合いの時の楚々とした印象からは想像できないけれど、牛久先輩は無類の納豆好きで、どうしても試してみたいとのことだったので、納豆菌の小瓶を貸したのだっけ。あれを渡したのは竜ケ崎君だったか小絹君だったか、今では定かではない。なんせ、牛久先輩と一緒にはしゃいでいる水海道さんが印象的で、そのことばかりが記憶に残っているのだ。結局、栗納豆づくりは失敗したようだったけれど、その時生物室に来たのがきっかけで、牛久先輩は水海道さんを気にかけてくれるようになったのだ。

 学校の中では数少ない気を許せる相手が卒業してしまう。きっと水海道さんは心細いだろう。

 両手をもじもじと動かしてから、水海道さんが顔を上げて竜ケ崎君を見る。

「あの、私、牛久先輩にご挨拶したいです!」

 すると、竜ケ崎君は少しおどろいたような顔をしてから、亀を水槽に戻してにっと笑う。

「よし、じゃあ卒展に行こう。

 今日の受付担当は牛久先輩だからな」

 竜ケ崎君の言葉を皮切りに、小絹君も鞄に手をかける。

「卒展は福祉会館でやっているのだろう?

 水海道がお世話になったし、僕もご挨拶しないと」

 僕も慌てて鞄を持つ。

「僕もご一緒します。僕もご挨拶しておきたいので」

 僕たちが鞄を持って立ち上がると、竜ケ崎君も生物室を出る準備をして、全員の顔を見てから手を振って号令をかける。

「よし、じゃあ行くぞ」

 僕たちが生物室から出ると、竜ケ崎君が制服の内ポケットから出した鍵で生物室に鍵をかけた。


 学校のすぐ近くから出ているバスに乗り、卒展の会場である福祉会館最寄りで降りる。普段は駅まで乗ってしまうので、ここで降りるのはなんだか新鮮だ。道中、普段降りないバス停で降りるからか水海道さんは落ち着かないようすだった。普段降りないバス停で降りるというだけでなく、これから牛久先輩と別れの挨拶をするのも落ち着かない要因だろう。にこにこしているけれども、その笑顔はどこか寂しげだった。

 竜ケ崎君の先導で福祉会館の中へと入る。会期中、卒展と一緒に美術科全体の展示会も行われているようで、一階には一年生の作品が、二階には竜ケ崎君も含む二年生の作品が、そして卒展会場となっている三階では卒業した三年生の作品が展示されている。

 せっかくなので、一階から順に展示を回っていく。受付の一年生に挨拶をしてから展示室に入る。僕には美術というものがよくわからないので、展示されている作品がすばらしいものかどうかはわからない。ただ、一年生が作ったものも努力のあとが見えた。観覧者もぽつりぽつりといる。時折他の観覧者とすれ違いながら二階へ。竜ケ崎君が受付の二年生に軽く笑いかけてから中に入ると、そこには一年生のものよりも個性の強い二年生の作品が飾られていた。作品を見ていると、水海道さんがある作品の前で足を止める。どうやら竜ケ崎君の作品のようだった。あまりにも真剣に見ているのでその作品についてすこし話をしてから三階へ向かう。人気はないけれど日が差して明るい三階の受付には、竜ケ崎君が言っていたように牛久先輩が座っていた。以前会ったときのように穏やかな態度なのに、どこか近寄りがたさを感じる。それは、僕が牛久先輩に感じている後ろめたさ故なのか、牛久先輩からにじみ出る決意のようなもの故なのかはわからない。

 そんな牛久先輩がふわりと笑って話しかけてくる。

「あら、来てくれたのね」

 うれしそうにする牛久先輩に、水海道さんがおさげを揺らしながら元気よく声をかける。

「牛久先輩に挨拶をしようと思ってきました!

 先輩にはお世話になったから」

 はつらつとした声を聞いて牛久先輩はうれしそうにくすくすと笑う。そこへ、小絹君が真面目な顔をして軽く頭を下げてから言う。

「僕たちが修学旅行に行っている間、水海道がお世話になりました。そのお礼もしないとと思って」

「うふふ、あの時は私もたのしかったから、そんなに気にしなくてもいいのに」

 小絹君に手を振ってから慈しむような目で水海道さんを見ている牛久先輩に、今度は竜ケ崎君が無邪気に声をかける。

「まあ、こいつらも展示会を楽しんでるみたいなんで。

 そういえば、先輩は結局留学するんですか?」

 それを聞いて、なぜか心臓を捕まれるような心地がした。僕ではなく、牛久先輩自身のことであるはずなのに。

 なんとか動揺を隠していると、ちらりと僕を見てから牛久先輩がおっとりと答える。

「そうね。とりあえずは家を出て東京の夜間学校に通うことにしたの。

 それで、学校に行きながら働いて、お金を貯めてそこを卒業してから留学する予定よ」

「えっ? 夜間学校はともかく、就職は決まってるんですか?」

 おどろいたような竜ケ崎君の言葉に、あたたかな光の中で牛久先輩は笑う。

「もちろん。ちいさな金工工場だけど、留学を目標にしてるって言ったら応援するって言ってくれた、いいところなの」

 胸がますます苦しくなる。牛久先輩が勘当されたのかと不安になった。実際のところはわからないけれど、彼女が選んだ道は、決して楽なものではないはずだ。よく見ると、竜ケ崎君に向けた目は強く輝いている。まるで自分自身が選んだ決断にすべてを賭けているかのように。

 息苦しいのをなんとか押して、僕は牛久先輩に訊ねる。

「なんで、そこまでして留学しようと思ったんですか?」

 牛久先輩の視線が僕の方を向く。

「松戸君なら、わかるでしょう?」

 瞳の奥に潜む決意に哀愁を滲ませて、牛久先輩は儚げに笑う。明るい日差しの中で、もう彼女の手は震えていなかった。

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