1:穏やかな日々
「わああ! 先輩やめてください!」
悲鳴を上げて亀のいる水槽まで走って逃げる。ふたつ上の先輩が生物部で飼っているハムスターを俺に渡そうとしたのだ。
さんさんと日が差す生物室のシンク脇にある窓辺には、亀を飼っている水槽とハムスターを入れるケージが隣り合って置かれている。先輩は俺たち一年生が入学したときに部活動の一環としてホームセンターで買ってきたハムスターをいたくかわいがっていた。部活の時間ともなればケージの掃除をして、そのあとは明るい机の上にハムスターを乗せて一緒に遊ぶのが常だった。
「ははは、やっぱり竜ケ崎は小さい生き物がだめなんだなぁ」
そう言って笑う先輩に、俺はふくれっ面を返す。亀みたいにしっかりと固い生き物ならともかく、ハムスターみたいな小さい上に柔らかい生き物は苦手だと、以前から言っているからだ。
別に、ハムスターがかわいくないわけではない。かわいいと思うし、できれば撫でてやりたい。でも、小さくて柔らかい生き物に触るのはこわいのだ。下手をしたら、殺してしまいそうで。
俺は亀の水槽に向き直って先輩に言う。
「俺はこっちの世話してるんで、その子は先輩がお願いします」
「はいはい。この分だと、この子は生物室に置いていけないなぁ」
先輩のうれしそうな声が聞こえてくる。先輩ももうすぐ部活を引退するらしいし、そうしたらハムスターを引き取って家に連れて帰るつもりなのだろう。生物部の中でも特に先輩はハムスターをいたくかわいがっているし、ハムスターにとってもその方がいいだろう。
亀の水槽の砂利を洗い水を替えて、シンクに出していた亀を水槽に戻していると後ろから声が聞こえてくる。
「先輩、僕にもその子を触らせてくれませんか?」
「だめだ。松戸に渡すといじりすぎてこの子が疲れるし、お前嫌われてるだろ。噛まれるぞ」
俺と一緒に生物部に入った同学年の松戸は、生物部員なのに小さい生き物に嫌われがちだ。理由は単純。かわいい一心でしつこくかまうので、小さい生き物からしたらうざったいのだろう。
「ああ、どうして僕は動物に嫌われるんでしょう」
ハムスターを触らせてもらえないのが不満なのだろう、松戸がいかにも哀れっぽい声を出す。その松戸に、すぐさまに声がかかる。
「動物側の気持ちも考えずに絡むからだろうな」
核心を突いた素っ気ない言葉だ。
「小絹君は容赦ないですね……」
そのやりとりを聞いて、手を洗ってからみんながいる机に俺も付くと、しょんぼりした松戸の向かいで先ほど松戸に容赦ない言葉をかけた小絹が図書館で借りた本を読んでいる。読みかけの本をしおりも挟まずに閉じて小絹が立ち上がる。
「それじゃあ、図書館に本を返しに行ってきます」
先輩にそう言って小絹は冷たい廊下に出て行った。読みかけなのに借りた本をすぐに返さないといけない理由は知っている。その理由を聞いたときはすごく腹が立ったけれども、俺ひとりではどうしようもなくてすごく無力感を覚えた。
小絹の後ろ姿を見送っていると、先輩がハムスターをケージに入れる。
「それじゃあ近々この子は俺が連れて帰るよ」
うきうきとしたその言葉に、松戸はさみしそうな顔をして頷く。
「仕方ないです。先輩以外にお世話ができる人がいませんから」
松戸としてはハムスターにまだ生物室にいて欲しいのだろう。けれど、俺はハムスターの世話ができない。松戸は嫌われている。そして小絹もハムスターに触るのは避けている。ちゃんとしっかり世話ができるのは先輩だけだと理解せざるを得ないのだ。
小絹が図書館から明るい生物室に戻ってきてから、先輩はハムスターを連れて帰る旨を小絹にも伝えた。すこしだけ寂しそうな顔をしたけれど、小絹も文句はないようだった。
「それじゃあ、亀の世話を頼んだぞ」
亀がいる水槽が置かれた窓辺を見ながら、先輩は俺にそう言って笑う。
「任せてくださいよ」
俺も笑い返す。俺からしてみれば、亀もかわいい生物部の一員だし、亀なら安心して世話ができる。
そんなやりとりをした数日後、先輩はハムスターをケージごと連れて帰った。それから夏休みが過ぎて、校庭の木々が色づいて葉を落とし、肌を切るように冷たい風が吹く冬を越し、先輩は卒業していった。ハムスターとはそれ以来会っていない。先輩はいつでも会いに来てくれと言っていたけれど、東京に出てしまった先輩の元にいつ行けるのかはわからなかった。
先輩とハムスターがいないことに慣れた生物室。そこは桜が咲いて新入生が入ってきても穏やかな日々が続いていた。
うららかな日差しがあたたかい春つ方、ひとりの新入生が生物室を訪れた。どこかおどおどしたようすの女子生徒だ。
「あ、あの、生物部に入部したいんですけど!」
頼りなさげな態度とは裏腹に、元気な声でそう言った新入生に俺は手招きをする。
「入部希望なら歓迎だよ。おいで」
すると、新入生は早足で俺の近くにやってきてそわそわしている。その新入生を冷ややかな目で見て小絹が訊ねる。
「生物部に入る理由はなんだ」
整った容貌のせいで一層威圧感のあるその言葉に新入生は一瞬ひるんだけれども、ちらちらと亀のいる水槽を見てこう答える。
「あの、生物部で亀さん飼ってるって聞いて、亀さんのお世話がしたくて来ました!」
その言葉に小絹はおどろいたような顔をしてから表情を柔らかくする。
「亀が好きなのか?」
すこしだけやさしくなった小絹の言葉に、新入生がおさげが跳ねるほど大きく何度も頷いて返す。
「そうです! 昔から亀さんが好きで、でも、亀さんはすごく長生きで面倒見切れるかわからないから、うちで飼っちゃだめって言われてたから!」
それから、早速亀を探そうときょろきょろする新入生を見て小絹もついに笑みをこぼす。
「そういう理由なら歓迎だ。よろしく」
受け入れられたのがうれしいのだろう、にこにこしている新入生に、松戸がロザリオをたぐる手を止めて話しかける。
「生物部は特に部員名簿などはありませんので、好きなときに来てくださいね。
とりあえず自己紹介をしましょうか」
ちらりと松戸が俺を見るので、俺は新入生に笑いかけて言う。
「俺が生物部部長の竜ケ崎だ。なにか困ったことがあったら俺のところに来い」
「はい!」
元気よく返事をする新入生に、次は松戸が軽くお辞儀をする。
「僕は副部長の松戸です。よろしくお願いします」
続いて小絹が口を開く。
「僕は小絹。よろしくな」
二年生が名乗ったところで、新入生が元気よく口を飛び跳ねる。
「一年の水海道です! よろしくお願いします!」
これで全員分の簡単な自己紹介は終わりだな。そう思っていると、松戸がそわそわとこんなことを言った。
「ところで、生物部では新入生が入るとハムスターを飼うのが習わしなんですけれど」
先輩が連れて帰ったハムスターに未練があるな。そう思った俺は手を振って松戸に言う。
「俺たちがハムスターの世話をできないから先輩が連れて帰ったんだろ?」
世話ができなくてハムスターを無駄に死なせるようなことはしたくない。俺はそう思ったのだけれど、小絹はちらちらと水海道を見ながら、伺うように俺に訊ねる。
「でも、水海道がハムスターの世話をしたいというのなら考えてもいいのではないか?」
触るのを避けていた割には、小絹も先輩のハムスターに未練があるようだ。なので、俺は確認するように水海道に訊く。
「こんな話が出てるけど、水海道はハムスター飼いたい?」
すると水海道はきょとんとしてこう答えた。
「えっと、私はハムスターより亀さんがいいです」
「そっか。じゃあハムスターは飼わなくていいな」
念を押すような俺の言葉を聞いて松戸と小絹は残念そうだったけれども、俺はハムスターを飼わなくていいことにひどくほっとした。
その日以来、水海道は毎日明るい生物室にやってきて、俺と一緒に亀の世話していた。その時に庭で育てているハーブの話や家であったことなんかをいろいろと話してくれていたのだけれども、そのことに違和感を覚えた。
なぜ水海道は、クラスの話をしないのだろう。この違和感は、水海道とは逆で滅多に家のことを話したがらない松戸や小絹に抱いたものに近かった。




