5:うつくしい時よ
卒業式も終わり、最後に生物室を訪れてみんなで話をする。結局僕は、まだ東京に移るための家も探せていなかったし、当然両親の許可も得られていなかった。
これからも親に奴隷のように扱われながら生活するのか。暗い未来に思いを馳せる僕に覆い被さるように日陰になっているいつもの席でそう思っていたら、竜ケ崎が住所と連絡先、それに知らない人の名前が書かれたメモを差しだしてきた。
「小絹、まだ東京で住む場所が決まってないなら、ここに行って欲しいんだけど」
「……ここはなんなんだ?」
僕の問いに、竜ケ崎はにっと笑って答える。
「シェアハウスだよ。
俺の幼なじみの先輩がここに入りたいらしいんだけど、申込が最低でももう一件ないと借りられないらしいんだ。
どうだ。人助けだと思ってここに行ってみないか?」
思わず顔を上げて竜ケ崎を見る。もしかして、僕のためにわざわざ調べてきてくれたのだろうか。僕のその思いを察したのか、竜ケ崎は笑いながら言う。
「別にお前のために探してきたんじゃないぞ?
今回はほんとうに、幼なじみに泣きつかれた感じだな」
これは半分ほんとうで、半分嘘だ。でも、そんなことはどうでもいい。竜ケ崎はたしかに、僕を救おうとしてくれている。震える手でメモを受け取る。松戸が真剣な目で僕を見る。
「小絹君、これはチャンスでしょう」
確信に満ちた声。僕は頷いて、ぽろりとこぼす。
「もしここに引っ越せたら、竜ケ崎のお母さんに挨拶したい。もう大丈夫だって」
すると、竜ケ崎は険しい顔をして僕に言う。
「引っ越すんだったら、小絹はもう俺の母さんに会っちゃだめだ」
「え?」
どういうことだろう。もしかして、僕のことを迷惑に思っていたのだろうか。だとしたら……不安になる僕に竜ケ崎が理由を説明する。
「引っ越したあとに俺の実家に行くようなことがあったら、そこからお前の親に尻尾をつかまれかねない。
俺の実家の近くでお前がつかまって連れ戻されるかもしれないから、もう俺の実家には近寄っちゃだめだって母さんが言ってた」
松戸もなにかを考えるように指で机を叩きながら渋い顔をしている。
「話を聞いている限り、小絹君が家から逃げた場合、小絹君の両親は使える限りのつてを使って連れかえそうとするでしょう。
そのための手がかりは少しでも消して置いた方が賢明です」
あれだけお世話になった竜ケ崎のお母さんにもう会えない。そのことに愕然とした。
胸が痛んで思わず俯くと、竜ケ崎の強い声が聞こえる。
「それでも逃げたいんだろ?」
逃げたいけれど、まだ決心できなかった。渡されたメモを持つ手が震える。このあと、学校の電話からこの連絡先にかければ逃げるためのチャンスが手に入る。けれども、そのことがひどく難しく感じた。
迷いを抱える僕の顔を竜ケ崎が両手でつかみ、まっすぐ目を見て毅然と言う。
「お前、まだ決めかねてるな。
家から逃げろ。これは命令だ」
今まで、両親から命令されることは何度もあった。その度に理不尽な目に遭った。だから、命令というものに今まで拒否感があったのだけれども、竜ケ崎の命令は僕のための祈りに聞こえた。
竜ケ崎がテレホンカードを差し出してくる。僕はそれを受け取る。きっとこのために用意された、まっさらなテレホンカードを見て決意が固まった。
「松戸も、家から逃げるんだな?」
確認するように訊ねると、松戸はすでに覚悟が決まったようで頷く。
僕は立ち上がって一歩踏み出し、震える声でこう言った。
「いいか、これからが勝負だ」
僕と松戸と竜ケ崎で拳を付き合わせ、覚悟を確認し合う。
ふと、生物室のドアが開いた。入ってきたのは、僕たちの卒業を祝ってくれている水海道だった。
あの日、あのあと学校の電話から連絡をし、無事にシェアハウスに入れることになった。
保証人協会というものを使って親を保証人にせず、契約を結んだ。
両親はまだその事に気づいていない。最低限の荷物だけを持って、いつも通りに両親が起きる前に僕は家を出た。しかし、向かう先は学校ではなく東京だ。東京の神保町で、竜ケ崎や松戸と落ち合うことになっている。
朝日に照らされる電車の車内は、通勤客でいっぱいだ。この人混みに紛れていれば、両親も僕を探し出すことはできないだろう。
義姉さんからもらった路線図を見て、それでも何度か乗り換えを間違えながら神保町にたどり着く。まだ時間が早いのか、近隣にある本屋はまだ開いていない。
駅周辺をぶらぶらと歩いていてどれくらい経っただろう、待ち合わせの時間になった。待ち合わせ場所である大通り沿いの本屋に向かう。開店した本屋の入り口の前に、竜ケ崎と松戸が立っている。その姿を見て安心した。
「おはよう。無事ここまで来られたみたいだな」
いつものようににっと笑って竜ケ崎がそう言う。松戸も、にこりと笑ってこう訊ねてきた。
「おはようございます。とりあえず、これからどうしますか?」
その問いに、僕はすぐに返す。
「大学がこの近くだから、法務部に相談に行きたい」
ふたりがわかったとばかりに頷き、歩き出そうとする。そんな竜ケ崎の袖をすこし引っ張って、僕はすこし俯いてこう続ける。
「でも、その前にみんなで食事がしたい」
そう、いつもどおり薔薇の花しか食べずに家を出てきたので、おなかが空いているのだ。
そんな僕の頭を撫でて竜ケ崎が本屋を指さす。
「それじゃあ、この本屋に喫茶店が入ってるからそこに行くか。松戸、いいよな?」
「はい、ご一緒します」
心なしかふたりの顔は晴れ晴れとしている。もしかしたら僕もそうなのかもしれない。
明るい光を受けながら、みんなでそろって本屋の中に入り、エスカレーターを上って喫茶店に入る。注文をして料理が運ばれてくるまでの間、たわいもない話をする。高校時代、生物室で過ごしていたのと同じような時間だけれども、この時間のあとには、もう虐待は待っていない。
ああ、なんてすばらしいのだろう。ずっとこのままでいられたらいいのに。
とまれ、今この時はいかにもうつくしい。




