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グレートヒェンの祈り  作者: 藤和
第2章 呪われたファウスト
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4:呪いを解くために

 ゴールデンウィークと文化祭も終わり、校内を行き交う生徒達の中に半袖の人も混じるようになった頃、三者面談の時期が近づいてきた。

 竜ケ崎は美大を目指すと以前から公言しているけれど、松戸はまだどこの学校に行くかを決めかねているようだった。学科自体は決めているのだけれども、家からアクセスの悪い大学を自力で洗い出せないのだそうだ。

 家からアクセスの悪い大学を選ぼうとしている松戸の意図は僕にもわかる。なるべく家から距離を置きたい……正確には、少しずつ家から離れたいのだろう。

 志望校をなかなか探せないでいる松戸に、竜ケ崎が学校を探してくると申し出た。父方の祖母の家が東京にあるのと、美術科の買い物で時々東京に出ているので、僕たちの中では一番地の利があるからだ。

 とはいえ、電車の路線に詳しいわけではないようだったので、東京近郊路線図を貸すことにした。

 松戸の話が一段落したところで、竜ケ崎が僕に訊く。

「小絹の大学も探しとく?」

 その言葉に、僕は自分の中に抱えている希望がおそろしくなり顔から血の気が引く。

「僕はもう、志望校は決めてるんだ。

 あとは、母親を納得させるだけだから……」

 竜ケ崎は黙って震える僕の頭をあたたかい手で撫でる。それから、確認するようにまた訊ねる。

「お前も、東京に出るんだな?」

 僕は黙って頷く。そう、東京の大学を受験するつもりだから、僕は東京近郊の路線図を持っていた。東京に出たくてもどうしたらいいかわからなかった僕に、義姉さんがお守り代わりにとこっそりくれたのだ。僕が東京の路線図を持っていることは、両親はもちろん兄も知らないだろう。

 そのお守りを持っていても、僕はまだ迷っていた。進みたい進路は決まっていても、ほんとうにその道に向かっていいのかがわからない。いや、わからないというよりもこわかった。両親に知られたらきっとまた殴られる。それだけならまだしも、もしかしたら松戸や水海道、それに竜ケ崎にさえ否定されるのではないかと思ってこわかった。

 でも、ここでこわがって立ち止まっていたら僕はずっと家に閉じ込められたままになる。だから、僕は縋るように顔を上げてみんなに訊ねた。

「僕は、僕のしたいことをしても良いのだろうか?」

 その問いに、水海道がきょとんと訊ね返す。

「なんでだめだと思うんですか?

 だってやるのは小絹先輩ですよ?」

 無邪気な言葉に泣きそうになる。僕は震える声でさらに言う。

「危険だと言われることでもいいのか」

 すると、松戸がおどろいたような顔をしてから真剣な顔をして返す。

「法に触れなくて迷惑でなければ、誰にも止める権利はありません」

 水海道も興奮したようすでおさげをゆらし、頭を振る。

「もちろんです! 危険なことだと心配だけど、危険でも必要なことはいっぱいあるんです!」

 ふたりの言葉を聞いて、僕は縋るように竜ケ崎を見る。松戸と水海道が肯定してくれても、まだ不安だった。

 視線の定まらない僕の目をじっと見て、竜ケ崎も言う。

「お前にも権利がある。

 でも、茶色い毒を飲んで死ぬようなことはしないと約束してくれ」

 その言葉で、僕は一歩だけ前に進めた気がした。

 ふと、僕の口から言葉が漏れる。

「僕も家から出ることは許されるだろうか」

 竜ケ崎は即座に答える。

「なるべく早く出た方がいい」

 期待と不安で動悸が激しくなる。命綱につかまるように竜ケ崎の手を握る。ひとりであの家を出られるかどうか不安だった。自力ですべてを片付けられたらとも思うけれど、助けが欲しい。

 言葉にできないその気持ちを察したのか、竜ケ崎がしっかりと僕の手を握り返す。

「大丈夫だ。俺もできる限りのことはする」

 この手を離さないで欲しい。ずっと近くにいて欲しい。竜ケ崎は僕にとって、かけがえのない救いだ。その光に浴してしあわせになれたら。そう願ってやまないのだ。


 それから数日経って、僕は三者面談で志望している進路を告げた。志望校を言ったとき母親は満足そうだったけれど、志望動機を言った途端、目つきが変わったのがわかった。担任の手前では愛想良くしていた母親だけれども、三者面談が終わるなり暗くて人気のないところに引っ張っていかれた。連れて行かれたのは教員用の駐車場。登校時と下校時以外は人がほとんどいないここで、母親に何度も殴られた。僕の進路が気に入らないようだった。

 僕の希望する学科は、物理学科。その中でも放射性物質と放射線の研究をするところだ。それを聞いた母親は、ほかに誰ももいない駐車場で僕を殴りながら何度も殴りつける。

「お前は犯罪者になるつもりか、この出来損ないが!」

 母親の固い鞄が僕の頭を殴りつける。

「私たちの顔に泥を塗るんじゃないよ、次男の分際で!」

 今度は脇腹に衝撃が走る。

「あんたは私の言うことだけ聞いてればいいんだよ! 余計なことするな!」

 抵抗しようとすればできるだけの体力が僕にはあるはずなのに、体が竦んで抵抗できない。うずくまる僕を母親が蹴りつける。

「大学に落ちたらどうなるかわかってるんだろうね!」

 母親は僕に暴行を加え続ける。もちろん、外から見てわからない位置に。

 三者面談のことは父親の耳にも入った。僕は父親にも殴られた。志望校はそのままに、他の学科に変えろと何度も言われた。でも、僕は進路を変えるつもりはなかった。進路のことを両親に知られてから、今まで以上に家での僕の扱いはひどくなった。たまに顔を見せる兄は、薄ら笑いを浮かべて僕を馬鹿にした。

 それでも僕は諦めない、絶対に諦めないんだ。


 家で今まで以上に虐げられる日々をなんとか乗り越え、冬の薔薇も枯れる頃、僕はなんとか志望校の受験をすることができた。両親は志望校自体には不満がないようなので、なんとか誤魔化して受験に挑んだのだ。

 あの三者面談のあと、何度か竜ケ崎の家に泊まりに行かせてもらったけれども、その時に過ごす穏やかな時間がどれだけ僕の救いになったか。遠慮なく僕の頭を撫でる竜ケ崎の手にどれだけ励まされたか。伝えたくても僕は、その感謝を伝える言葉を知らなかった。

 受験から合格発表までの間、僕の家は今まで以上に張り詰めた雰囲気だった。おそらく、志望校に受かっても僕をこの家から出さないようにしようとしているのだろう。そのことが伝わってきていた。

 僕を家から出さないようにしたい理由はわかる。ひとつは、兄が大学に行くと同時に家を出て、そのまま義姉さんの家に婿養子に入る形でこの家の籍から出てしまったから。そしてもうひとつは、単純にこの家で働かせる奴隷を手放したくないのだろう。そのくせ僕をあの難関校に入学させたいというのは、立派な息子を持っている立派な親という見栄が欲しいだけだ。僕にだってそれくらいはわかる。なんせ両親は、僕の成果は僕のものではなく、自分のものだと思っているのだから。

 もしこれで、僕が女として生まれていたらどうなっていたのだろうと思う。きっと、大学に行くどころか高校にすら行かせてもらえず、この家で奴隷として使われて一生を終えていたのだろう。それを思うと、男として生まれてまだチャンスがある僕は絶対にチャンスを逃してはいけないのだ。


 大学の合格者が発表された。僕は大学からの通知で自分が合格したことを知ったけれども、素直に喜ぶだけではいられなかった。

 母親は意気揚々とその合格通知を近所の人に見せて回った。まるで自分の手柄のように。

「あの子は出来が悪くて手を焼いたけど、こんなにがんばってくれたんです。こんな親孝行をしてくれてうれしくて……」

「あら、小絹さんもがんばって息子さんを教育してましたものね。成果が出て良かった。

 息子さんもきっと感謝してるし、きっとこれからも親孝行してくれるんでしょうねぇ」

 聞こえよがしに大声で近所の人とそう話す母親の声に苛立ちが募る。母親はただ僕を殴りつけ、こき使っていただけなのに、周りには教育熱心な母親だというアピールをしているのが手に取るようにわかるからだ。

 ともあれ、それで母親の機嫌がいいならそれに越したことはない。その間多少は僕が殴られずに済むからだ。

 冷たい風が吹いているけれど、桜のつぼみが芽吹きはじめた浅春の頃。僕は今日も学校に行って授業をこなし、放課後は生物室にいた。

 とりあえず大学に合格したのはいいけれど、これからどうやって家を出るのか、その方法を考えたかった。

「どうやって家を出ればいいのだろう……」

 いつもの暗い長机についている僕のつぶやきに、すぐ答えたのは松戸だ。

「とりあえず、学生寮に入るのはどうでしょう。

 学生寮だったら、寮の方に話を通しておけば両親が来ても対応してくれるでしょうし」

 自分の方針が決まってすこし落ち着いたのか、堂々としたようすだ。その言葉を聞いて、僕はおうむ返しにつぶやく。

「学生寮……」

 たしかに、あの学校には学生寮がある。けれども。僕が戸惑っているのに気がついていないのか、松戸は言葉を続ける。

「そうです。寮に入って、そのまま法学部の教授に相談をするのはどうでしょうか」

 それを聞いていた竜ケ崎が意外そうな顔をする。

「それがいいかもしれないけど、松戸はどこでそんなこと調べたん?」

「実は、僕のことを相談した東京の叔父から聞きまして。僕もその方法を勧められたんですよ」

 きっと、松戸が言うとおりにするのがいいのだろう。けれども僕には懸念がある。

「寮に入るのは、多分許してもらえない」

 寮に入るのは両親が猛反対するだろう。あのふたりは自分の分身であり、奴隷であり、自由に加虐できる対象である僕を手元に置いておきたいのだ。そんな僕が寮に入りたいなんて言ったら、どんな仕打ちをされるか容易に想像がついた。

 僕が俯いて唇を噛むと、日向から来た竜ケ崎が僕の肩をつかむ。

「それなら俺のところに来い」

「え?」

 何を言っているのかわからなかった。竜ケ崎も東京でひとり暮らしをすることになっているけれど、ほんとうに転がり込んでいいのかの判断が付かない。

「とにかく小絹は東京に移動しないとだめだ。寮に入るにしろ家を探すにしろ、とにかく実家から離れろ」

 続けて松戸もまっすぐ僕を見る。

「最悪、住所がなくても学籍さえあればなんとかなるみたいです。

 なんなら、僕のところに来てもいいですから」

 ふたりとも、僕が家から出ることに協力しようとしてくれている。そのことがうれしい。

 けれども、僕はまだこわくて決心ができなかった。

 大きな窓から差し込む光の中で、僕はまだ怯えていた。

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