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グレートヒェンの祈り  作者: 藤和
第1章 メフィストの呪縛
1/5

1:思惑の中で

 ホームルームが終わり、生物部の部室である生物室に向かう。昇降口の上にある廊下を歩いていると、生徒ホールにある大きな窓から涼やかな日差しが差し込んでいた。

 廊下から生徒ホールを見下ろす。これから帰宅する生徒は首にマフラーを巻いていたりブレザーの下にニットベストを着込んでいるけれども、これから部活に向かう運動部員は長袖のジャージにハーフパンツと身軽な格好だ。

 いつも通りの日常を見届けていると、沈んだ気持ちがますます落ち込む。けれども、あそこに行けば、生物室に行けばすこしは楽になるのだと、僕は重い学生鞄を持って進んでいった。

「こんにちは」

 なんとか生物室にたどり着き、ドアを開ける。中を見ると、黒板近くにあるシンク脇に置かれた水槽を掃除しながら亀の甲羅を磨いている男子生徒がひとりと、実験もできるよう防火素材になっていて水道も付けられている長机で図書館の本を読んでいる男子生徒がひとり、それと僕が開けたドアの近くから続く、教室背面に天井近くまである棚のすぐ側の窓辺でハーブが植わったプランターの世話をしている女子生徒がひとりいる。その女子生徒だけ上履きのラインの色が違う。僕の友人と後輩だ。

 亀をシンクの中に放した彼が僕の方を振り返って人懐っこくにっと笑う。

「おう、来たか松戸(まつど)

 めちゃくちゃ顔色悪いけどなんかあったん?」

 僕の名前を呼びながらそう声をかけてきたのは、ネクタイを緩めてシャツの第一ボタンを外している、ラフな雰囲気の友人だった。僕はため息をついて言葉を返す。

「そうですね。昨日家の方で厄介なことがありまして。

 竜ケ崎(りゅうがさき)君はよく気がつきますね」

「まぁ、人の顔色うかがうのは慣れてるからな」

 そう言って、僕に声を描けてきた友人、竜ケ崎君は腕まくりをしたままあずきあらいのように亀を飼っている水槽の中の砂利を洗う。続いて、日の当たらない長机に据えられた背もたれのない椅子に座り、本を開いている友人が声をかけてきた。きっちりと制服を着込んだ彼が、さらりとした髪を揺らして端正な顔を上げる。

「厄介なことというのは?

 訊いてまずいことなら詮索はしないが」

 改めて訊ねられ、僕は生物部員の顔をぐるりと見渡し、後ろ手でドアを閉める。それから、今訊ねてきた友人の向かいの席に座り事情を話す。グラウンドから聞こえる運動部のかけ声が心をざわめかせる。僕は制服の内ポケットからロザリオを出して握った。

「ここの人たちになら話しても問題ないでしょう。でも、内密にお願いしますね。

 小絹(こきぬ)君ならこの厄介さがわかると思うのですが、昨日、お見合いをしてきました」

 僕の言葉を聞いて、向かいに座っている小絹君は額をおさえて渋い顔をする。それと同時に、後輩がじょうろを持ったまま、おさげをゆらし、日の当たらない長机に駆け寄ってきて僕の隣に来た。

「えっ! 松戸先輩結婚するんですか?」

 いつも通りの高くて大きな声に、僕は後輩を落ち着かせるように、屈んで目線を合わせて口の前に人差し指を立てる。

水海道(みつかいどう)さん、落ち着いて。内緒のお話ですよ」

「あっ……! す、すいません」

 慌てて口を閉じて、水海道さんはすこし俯き気味に、すぐ側から僕の様子をうかがっている。そこに、水槽の掃除を終えて亀を戻した竜ケ崎君が日向からやって来て水海道さんの頭を撫でる。僕が別段怒っていないというのを伝えたいのだろう。

 水海道さんが落ち着いたところで、小絹君がため息をつく。

「家の都合だな?」

「そうです」

 まだ高校二年生の僕がお見合いをしなければならないなんて、家の都合以外に理由はない。家の都合で縛られることには不本意ながらに慣れているけれども、さすがに今回のお見合いはほとほと困り果てた。いくら由緒ある武家の家系の生まれといえども、結婚相手や恋愛対象は自由に決めさせてほしいものだ。

 改めてしきたりというものの面倒くささに辟易していると、今度は竜ケ崎君が身を乗り出してきて小声で訊いてきた。

「ところで、どんな相手だったん?」

 その問いに、僕は生物室の前の方……正確にはさらにその先にある芸術棟を指さして答える。

「今頃日本画室にいますよ。

 牛久(うしく)先輩です」

「えっ?」

 竜ケ崎君が声を上げる。みんなが一斉に僕の指さす方を見る。

 その一瞬の間に僕は、昨日のお見合いのことを思い出していた。


 初冬のよく晴れた日、昼下がりに両家の両親が用意したお茶室で、僕はひとりの女性と向かい合っていた。着慣れたようすの、けれども格式ある場のために用意されているのだろう京友禅の着物につづれ織りの帯を締めている。庭の木の陰のせいで窓から太陽光の入ってこない室内で、彼女は慣れた手つきでお茶を点て、僕に差し出す。

「まさか、お見合いの相手が松戸君だとは思わなかったわ」

 そう言って彼女は困ったように笑う。僕も困ったように笑い返す。

「僕も、まさか牛久先輩が来るとは思っていませんでした」

「あら、お互い様ねぇ」

 ぎこちないお互いの笑みは、室内の重い空気を払拭できない。

 牛久先輩は僕と親しいわけではない。どちらかというと、同じ美術科で日本画を専攻している竜ケ崎君の方が牛久先輩とは親しいだろう。なんせ、牛久先輩が生物室に来るときは決まって竜ケ崎君を頼ってくるのだから。

 すこしの間居心地の悪さを感じながら黙っていると、牛久先輩がすっと目を細める。

「乗り気じゃないみたいだけど?」

 その言葉に、僕は苦笑いする。

「まあ、もう慣れたこととはいえ、この歳で将来の相手を決められてしまうのも……」

「あら奇遇。私もそうなの」

 このお見合いは、いわば政略結婚のためにセッティングされた。広島に本筋を持つ僕の家と、水戸に本筋を持つ牛久先輩の家の縁をつなげようというのだ。

 由緒ある家柄。といえば聞こえはいいけれども、実際にはしがらみだらけで自由にできることも少ない。僕の家は家柄も財産もあるからまだいい方だけれども、中には家柄だけが立派で、財産はほとんど持っていないという家もある。それなのに、由緒があるというだけで、家柄というものにしがみついてしまうのだ。少なくとも、僕たちの両親達は。

 整えられた薄暗い和室の中で、しばらくふたりで黙ってお茶を飲み、お茶菓子を食べる。牛久先輩のどこか憂いのある所作は見ている限り欠点などなく、うつくしかった。けれどもこの場に来ることを望んでいなかっただろうということは、繕った表情から察しがつく。

「松戸君のこと、学校で女の子たちがよく話題にしてるから、私がここでお見合いなんてしたって知られたらどうなるかしらね」

「そうなんですか? どんな話題でしょうか」

「彼女候補者はたくさんいるみたい。かっこいい人が生物部にいるって、美術科まで噂は届いてるから」

 わざといたずらっぽくそう言う牛久先輩の言葉に、僕はしどろもどろに返す。

「えっと、かっこいい人ってほんとうに僕ですか? 小絹君や竜ケ崎君じゃなくて?」

「かっこいい人がふたりいるって話だからね。竜ケ崎君が含まれてないっていうのは、一緒に日本画室にいてもなにも言われないところから察しはつくんだけれど」

「はあ……」

 意外なことを聞かされたけれど、それにおどろいている場合ではない。時々落ち着きなく手元をさする牛久先輩のようすを見る限り、なんとか当たり障りのない話題を探しているのだろう。

「牛久先輩も、僕が一年の時から噂になってましたよ。図書委員の先輩で、美人な人がいるって」

 僕も話を合わせようと、記憶を探って言葉を返す。

「美術科で図書委員だっていうだけで、特別感があるように感じるみたいなんですよね」

「そうなの? 美術科も図書委員も普通の人なのに。なんだか不思議ね」

 穏やかな表情だけれども、そわそわと視線を合わせたり外したりしている彼女と、僕も視線を合わせられない。

 ふと、牛久先輩が窓の外に目をやってぽつりとつぶやく。

「あのね、図書館には私の宝物があるの」

「宝物ですか?」

 図書館には私物を置いておくことはできないはずだ。だから、宝物があるとしたら家にはないお気に入りの本だろう。

「どんなものですか?」

 その問いに、牛久先輩はくすりと笑う。

「秘密。でも、探せば松戸君も見られるわよ」

 こんな話をするなんて、牛久先輩は僕と親しくなる気があるのだろうか。そう問いかけようとした瞬間、牛久先輩がじっと僕の目を見て口を開く。

「ねえ、松戸君。お願いがあるんだけど」

「はい、なんでしょう?」

 両親の意向でどうしても婚姻を結ぶようにと言われているのだろうか。もしそうだとして、そのことを口にされたら、僕はどうしたらいいかわからない。流されるように人生が決まってしまう。そう思った。

 窓の外の木が風で揺れ、牛久先輩の顔に一瞬日が差し込み、口紅で彩られた唇が艶めく。

「今回の縁談、松戸君の方から断ってくれないかしら」

 思わず動揺した。牛久先輩がこの縁談に乗り気でないのは雰囲気でわかる。けれども、こんな要求をしてくるのは予想外だったのだ。

 牛久先輩は儚げに笑みを浮かべる。強い風で木がざわめく。木陰を通り抜けてきた光が、牛久先輩をちらちらと照らしている。

「お父さんとお母さんには内緒なんだけどね、私、他に好きな人がいるの。

 絶対のその人じゃなきゃダメってわけじゃないんだけど、今はまだ、先のことを決めたくないのよ」

 かすかな希望を口にした牛久先輩の瞳が陰る。きっと、好きな人のことを思い浮かべているのだろう。牛久先輩も、僕との婚姻など不本意なはずだ。けれども僕と同じように家の面子を守らなくてはいけないから今ここにいるのだろう。そう、表向きだけでも親の言うことを聞いている振りをしないといけないのだ。

 そんな牛久先輩の触れてはいけない秘密を知ってしまったようで鼓動が早まる。それを落ち着かせながら、僕は返事をする。

「そうですね。僕としてもまだ結婚のことを考えるのは早いので。

 でも、牛久先輩の方から断るのではいけないのですか?」

 返事がてらに訊ねながら、僕は訊いてはいけないことを訊いてしまったかもしれないと思う。止まない風で煽られてざわめく木の音が耳につく。僕の家と牛久先輩の家の格式の差というのもあるし、牛久先輩の方から断れないそれ以上の理由というものに、訊ねてから気づいてしまったのだ。

 牛久先輩はなにを言うのかといったような表情でころころと笑い、お茶をひとくち含んで口を潤してから言う。

「それはできないのよ。

 私は女だから」

 諦めと抗いの混じった声で、彼女にとって絶望的な事実を告げられる。

 すっと背筋が寒くなる。

 先の大戦が終わってから何十年が経ったのだろう。昭和という時代もとうに過ぎた。二十一世紀が目前のこの平成の世でも、こんなことがまかり通っているなんて。

 自分が背負っているものの重さを改めて感じている間にも、牛久先輩はころころと寂しく笑って話し続ける。

「ごめんなさいね、お手間かけて。

 そうね、私が無作法で気に入らなかったとか、年上はいやだとか、適当に気に入らなかったところを両親に言って断ってくれたらいいわ。そうしたら、松戸君は責められなくて済むもの。

 私は今をやり過ごせれば、親にどう思われてもいいの」

 お茶碗を持つ牛久先輩の手が震えている。僕が縁談を断ったとして、この後自分がどのような扱いを受けるか想像できているのだろう。

 それなのに、どうしてこの人はこうして笑えるのだろう。

 僕はこんなに強くはなれない。

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