羽音の群れ
「千円じゃなくて、一万円! やった!」
葛西さんは思わず叫びそうになるのをこらえて、ポケットに札を滑り込ませた。
都会育ちの一人っ子。夏休みの間だけ預けられることになった、母の田舎。
おばちゃんの家にはWi-Fiもなく、テレビも映りが悪い。耐えきれなくなった彼女が泣き言を漏らすと、おばちゃんは渋々、一万円札を渡してこう言った。
「イオンでも行ってきな。涼しいし、何でもあるから」
村外れの大きなイオンモールは、車で15分ほどの距離にある。
といっても、まだ17歳の葛西さんに車はない。運動靴に履き替え、汗だくになりながら徒歩で向かうしかなかった。
道中、人気はほとんどない。道路脇の用水路からは、もうもうと生えた草と濁った水のにおいが漂う。
蝉の声と入れ替わるように、ぶぅん、と低い羽音が聞こえた。
ふと顔を上げると、水辺の向こうに、黒い塊が立っていた。
……いや、塊ではない。無数の蚊だった。
柱のように、蠢きながら空に向かって揺れている。
まるで、人の姿のような——いや、動いている?
葛西さんは思わず一歩下がった。
その瞬間、羽音の塊が“こちらを向いた”。
いや、そんなはずはない。虫に顔なんて——そう思った瞬間、鼻の奥に鉄のようなにおいが広がった。誰かが腐った肉を口いっぱいに詰めたような、強烈な悪臭だった。
次の瞬間、羽音が一斉に鳴り響いた。
それはもう、虫の音ではない。
人の呻き声に聞こえた。
「う……わ……」
耳元で囁く。後ろには誰もいない。
怖くなって走り出すと、他の水辺にも、同じような黒い“蚊柱”が立っていることに気がついた。
一つ、二つ、三つ……。みんな、こちらを見ていた。
ようやくイオンにたどり着いたときには、息も絶え絶えだった。
しかし、ガラス扉をくぐった瞬間、不思議と羽音も悪臭も消え、冷房の風が頬を撫でた。
他の客たちは、いつも通りスマホを見て歩き、子どもたちはフードコートでアイスを食べている。
夢でも見てたのかもしれない……。そう思いながら、ふと、自動ドアの反射で後ろを見た。
すると、イオンの敷地ぎりぎりの水辺に、また立っていたのだ。黒い蚊柱が。
だがその“形”はもう、人影ではなかった。
あれは、自分のシルエットだったのかもしれない。
走ってきた時の姿のまま、微かに震えながら、羽音を響かせて。
それからだった。
葛西さんは、おばちゃん家に戻ったあとも、妙な“羽音”を聞くようになった。
網戸の向こう、誰もいないはずの庭先から、ふいに――ぶうん、と、まるで耳元に蚊がいるような音。
でも、姿は見えない。
目をこらしても、何もいない。ただ、夜の闇に黒く揺れる影があるだけ。
次の日も、そのまた次の日も、イオンに向かうたび、水辺に蚊柱は立っていた。
昨日と同じ場所に、昨日と同じ数で。
だけど――何かが変だ。
昨日より背が高い気がする。
一つは、手を振っていた。
べつの一つは、笑っていた。
そしてある柱は、…葛西さんに、ついてきた。
イオンの自動ドアをくぐっても、帰り道の畦道でも、その柱はつかず離れず、葛西さんの影のようにぴたりと寄り添っていた。
もちろん、誰にも見えない。おばちゃんも、周囲の人も。
だけど彼女には、見えていた。
「ねえ、あれ誰?」
おばちゃん家の仏間に飾られた白黒写真の一枚を指して、葛西さんは聞いた。
おばちゃんは首を傾げた。
「誰って……それは、あんたのお母さんの姉さんや。もうずっと前に亡くなったけど」
写真の女は、あの“蚊柱の一つ”と、まるっきり同じ顔をしていた。
それから葛西さんの言動は変わった。
夜眠る前、蚊取り線香を三つも焚いたり、朝から黒い服を避けるようになった。
イオンにももう行かなくなった。水辺を避けて遠回りをして、どこにも行かなくなった。
そして、夏休みの終わり。
葛西さんは東京へ帰るバスに乗った。
車窓に映る自分の顔のすぐ横に――見覚えのある黒い蚊柱の“かたまり”が揺れていた。
誰かが笑ったように見えた。
羽音が聞こえる。
ぶうん、ぶううん。
通勤客でごった返す新宿駅。
視界の端に、黒く揺れる「柱」が立つ。
改札を抜けようとするサラリーマンの肩に、ひとつ、またひとつと取り憑いていく。
(あの人、顔がない……?)
次の瞬間、彼女は目を逸らした。
でも、耳元で“あれ”が笑う。
もう、どこに人がいて、どこに蚊柱がいるのか、
彼女には、わからなくなっていた。