■第7章:ノイズの向こうに■
記録をつけ始めて三週間。
金曜の夜ごとに夢の中で彼女の声を聞き、目覚めては言葉の断片をノートに書きつける。
その作業は、もはや“習慣”というより、呼吸のようなものになっていた。
夢はいつも同じ。霧の世界。姿の見えない彼女の声。
でも、彼女は確かに少しずつ“変化”している。
その夜、いつもよりはっきりと声が届いた。
「……そういえば、病室の外にあった桜の木、咲いたのかな」
病室――
それは、彼女が夢の中で初めて明かした、自分のいる“場所”だった。
「変だよね。夢の中なのに、どうしてそんなこと思い出すんだろう」
夢から覚めて僕はすぐにノートを開き、夢の記録に追記した。
・“病室”という単語を使用
・窓から桜の木が見える(景色を見た描写)
これまで彼女の話は抽象的で、どこにも具体性がなかった。
でも「病室」と言ったことで、夢が初めて現実に繋がる回路を持った気がした。
その週、僕は残業をすべて断り、定時退社を徹底した。
夢の記録をさらに細かく分析するため、過去のチャットログやSNSの投稿を何度も読み返す。
彼女は過去、こんな言葉を使っていた。
「眠れないときは、いつも窓から外を眺めてた」
「久々のお散歩。外を歩くのってこんなに気持ちよかったっけな」
断片的だった言葉が、“病室”というキーワードで次々に繋がっていく。
次の金曜の夢で、僕は思い切って尋ねた。
「君は……どこにいるの?」
しばらくの沈黙のあと、彼女はぽつりと言った。
「そこ、ちゃんと覚えてたはずなのにね……ごめん、もううまく思い出せないの」
「でも、あなたの声を聞くと……“ここ”にいる意味を思い出せる気がするの」
「この夢が終わると、すごく怖いの。
次にまた会えるか、わからないから」
彼女の声が震えていた。
姿は見えない。でも、心だけはすぐ隣にあった。
夢から覚めたあと、僕は彼女のプロフィール欄を再確認した。
「関東在住」「関西在住」などのヒントは一切書かれていない。
でも、昔のツイートで“桜の開花が早い”という話があった。
関西圏の可能性が高い――そんな憶測を地図アプリに落とし込みながら、僕は彼女の手がかりを地道に集めていった。
記録は、やがて「会話の台本」になっていった。
夢の中では時間が限られている。彼女の記憶が薄れていくのなら、こちらが“質問”を準備しておく必要がある。
•名前は?(自分で覚えていないか、誰かに呼ばれた記憶があるか)
•病室の中にあるものは?
•外の音、光、風、におい――何か覚えているものは?
•お見舞いに来た人の記憶は?
•最後にスマホを使ったのは、いつ?
どれも、現実に彼女が“いた”ことの証拠になる。
彼女が忘れる前に、僕が覚えておく必要があった。
彼女は今、夢の中で生きている。
いや、夢の中にしか“生きている感覚”がないのかもしれない。
――その理由を、僕はまだ知らないでいた。