■第6章:彼女のカケラ■
“彼女は、金曜の夜に現れる”
確信にはまだ届かない。
でも、疑いとも違う感覚――それが、数週間の夢の積み重ねで僕の中に根を張っていた。
彼女の声が聞こえるたび、目覚めたあとに手が震えていた。
まるで“現実”よりも、夢の中の方が真実に近い気がして。
金曜日の朝、僕はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間からこぼれる光が、どこか遠くの世界を照らしているように感じた。
会社での一日が異様に長く感じる。
上司の話も、隣の席の同僚の笑い声も、すべてがノイズだ。
ただ、夜が来るのを待っていた。
彼女と会える“金曜日”が、終わってしまわないように。
帰宅後、僕はひとつのノートを開いた。
手書き用ではない。PCのフォルダにある、名もなき.txtファイル。
ファイル名は「彼女_log.txt」
彼女と夢で交わした会話を、断片的でもいいから書き残しておきたかった。
記憶は、時間とともに薄れていく。
でも“記録”は、残る。
最初のページにはこう書いた。
「夢の中で話した日:4月19日(金)
声のみ。霧。彼女の第一声『こんばんは。また、会えたね。』」
そのあとも、箇条書きで夢の内容をまとめていく。
・声は変わらず、落ち着いていた
・『誰かを待ってる気がする』と彼女が言っていた
・過去の記憶が少しずつ曖昧になっていると話していた
・夢の最後は霧が濃くなって声が途切れる
書きながら、気づくことがある。
彼女は“名前”を一度も名乗っていない。
SNS上のハンドルネームですら、夢の中では出てこない。
彼女の存在は、まるでネットのログアウト状態のまま漂っている魂みたいだ。
夜10時を過ぎたあたりで、ベッドに入った。
画面の明かりも全部消し、静かな部屋で目を閉じる。
夢の中で、何を話すべきか。何を聞き出すべきか。
その順序を頭の中で並べながら、ゆっくりと意識を沈めていった。
霧があった。
そして、風が吹いていた。
「……また、来てくれたんだね」
彼女の声は、以前より少しだけ弱々しかった。
疲れている、というより――遠ざかっている、という感じ。
「……ごめんね、また同じこと言ってたら。
夢の外のことが、だんだん思い出せなくて……」
僕は答えようとした。
「名前は?」
「どこにいるの?」
「なぜ僕のところに来るの?」
でも、言葉が追いつく前に、彼女はそっと続けた。
「でも、声を聞いてると、なんとなく安心するの。
……たぶん、“忘れたくないもの”って、そういうことなんだと思う」
霧がゆっくりと揺れた。
僕は必死で声をかけようとしたけど、またしても間に合わなかった。
目を覚ましたとき、時間は0時41分。
金曜の夜は、終わっていた。
その日から、僕は“夢に備える”ための金曜を生きるようになった。
食事を整え、眠る時間を調整し、彼女と話すためのメモを準備する。
目が覚めたあとには、すぐに言葉を書き残す。
彼女の“輪郭”がぼやけていく代わりに、僕は記録で彼女をつなぎ止めようとした。
彼女は、夢の中で少しずつ何かを失っていっている。
その一方で、僕の現実には――少しずつ、彼女の形が増えていっている。
その逆転の不思議に、まだ気づくことはなかった。