トイガン
「ひゅ――――っ」
書いて字の通り、息を呑むような声を耳にしたのは、俺が通学中の時だった。
数年前、購入した頃よりすっかり錆びて固くなってしまったペダルを踏み、漕ぎ慣れた道を見るでもなくぼんやりとした心持ちで眺めていた矢先の事だったので、俺はその声でハッと現実に引き戻された。
なんだなんだと驚いていると、数メートル先に、右手を突き出している長髪の青年(俺より5つは歳がいっていた)と、白髪頭のおやじが向かい合っているのが見えた。
その光景を見て、俺は、先程の悲鳴は白髪頭のおやじが上げたものだと、すぐに分かった。
なぜなら、おやじは青年を凝視していたし、腰が引けていたからだ。
そして何より――というかそこが一番重要な事柄で、それ以外どうでも良かったのだけれども――青年が突きだしている手の中に、黒の自動拳銃が握られていたからに他ならなかった。
青年は拳銃を構えながらも、微動だにしなかった。
まるで、彫刻を見ているかのようだった。拳銃は、おやじの額にピタリと張り付いていた。
あれだけ近いなら誰が撃っても当たるんじゃあないか、そう思った矢先、青年が此方に視線を向けたような気がした。
背筋に怖気が走る。心臓の跳ね上がる音が聞こえた。
原始的な恐怖心が心の底から這いあがってくるようで、どうしようもなかった。急いで彼らから逃げ去るべく、俺はハンドルを強く握った。
そして、俺が逃げ去ろうとした矢先の事だった。ペダルを踏みなおすよりも先に、パン、と一際高い音が轟いた。
その音につられて、俺が振り返ると。
「あ、あぁ…………」
おやじが小さく悲鳴を上げていた。
青年の視線は、既に眼前のおやじの方に戻っていた。その目には何の他意もない、剥き出しの殺意だけが宿っていた。
拳銃から、白い硝煙が上っていた。
俺とおやじは、一歩も動けないままに、弾道を目で追っていた。拳銃はおやじの額から外されて、その数センチ横を弾丸が通過していたらしい。おやじの背後に発砲する光景を、俺の立ち位置からはよく見えた。
俺はいつの間にか、考えを改めていた。
今、この場から逃げ出したりだとか、警察にチクろうだなんて、ケチな考えを一瞬でも持ってしまった事を、誰かに嘲笑されているような気がしたのだ。
身の保身をするでもなく、俺はむしろ身を乗り出し、言った。
「最高だ、こりゃあ!!」
※※※
その舗装路に居たのは、俺を含めて3人のみ。往来で拳銃を所持している男がいるにしては、いっそ不自然なまでに、そこは静けさを保っていた。
とは言え、納得はいく。
俺にとって、この道は通学路であったが、只人から見れば、ミミズがのたうち回ったような古い舗装路は、車では通るには向いていないのだろう。故にこそ、交通量が少なく、使い勝手が良いのだが。
「頼む、許してくれ! お前とは初対面だろう、その銃を下ろせ!!」
一発撃たれた事で、おやじは逆に冷静になったのか、内心滅茶苦茶であろうおやじは、怯えた表情で青年に唾を飛ばす。
必死に命乞いをするおやじの事を、青年は冷めた目で見下ろしていた。その目からは、狼狽するおやじに対して何の感慨も感じなかった。
青年は少々考え込むような素振りを取った後、やはり能面の様な無表情で、しかし僅かに首を傾げて訊ねた。
「お前は、死ぬ事が怖いのか?」
「────は」
青年が口にした、あまりに突飛な疑問に、おやじは口をあんぐり開き、何も言えなかった。
こんな時にする話じゃあないだろう──おやじの心情は、端から眺めている俺にも、容易に汲み取れた。
ポカンとしている外野の様子に気付いてか、青年は取り繕うように言った。
「いや、単純に疑問なんだ。俺は昔から、一度だって死ってのを恐れた事が無い。脇見運転のトラックに跳ね飛ばされて、意識が遠のいてった時も。金目当ての浮浪者に背中から包丁ぶっ刺された時も──」
青年はそこまで話すと、再び銃口を正面のおやじに向けた。
おやじがくぐもった声を上げる。そして直ぐに、その顔から表情が消える。
血の気が引き、真っ青になった皮フに大粒の汗を浮かべていた。
おやじは咄嗟に両手を前に出すと、制止の声を上げた。
「ま、待て!」
中年男性の悲痛な叫びが、静かな住宅街の片隅で木霊するも、その叫びに応じる者は誰もいなかった。
青年はつまらなそうに鼻を鳴らすだけで、俺も軽く吹き出すだけに留まっていた。何の意味のない行為だと割り切っていた。
しかし、おやじにとっては、それは大きな意味を伴っていた。
おやじはキョロキョロと辺りを見渡すと、ある一点に集中した。
言わずもがな、それは俺の事である。
他に人はいない。
遠巻きに眺めている俺に向かって、おやじは助けを求めた。
「おうい、助けてくれぇ! こいつ、イカれてやがる!!」
「イカれているとは何だ、イカれているとは」
青年は悲鳴を聞くと、不満げに唇を尖らせた。
そして、俺の方を向くと一言、「余計な事は考えるなよ」とだけ言った。
無論、夢中になって見入っていた俺に、邪魔をする気など毛頭なく、追い払うように手を振るだけだった。
絶望に打ちひしがれた顔をして、おやじは目尻から一筋の涙を流した。
「クズが……こんの、人でなしがぁああああ」
青年が引き金を引く間際、おやじは俺に向かって手を伸ばしていた。
助けを求め、それをすげなく断った俺の事を今にも殺したいと言わんばかりに、割れる程に歯を噛み締め、腹の底から煮えたぎった怨嗟の声を吐き出して、まるで彼が血の涙を流しているかの様に、見る者を錯覚させる気迫を纏っていた。
全身全霊で、自分は哀れな被害者だとでも言いたげな様子を前にして──俺は何か言い返さずにはいられなかった。
「一応、確認の為に言っておくけどさぁ! 元凶は俺じゃあねーぞ!? 俺はあくまでも、偶然この場に居合わせただけなんだからな、恨むんならお門違いだぜ!! バーカ!!」
吐き捨てるついでに舌を出し、赤目を見せてやると、おやじは瞬間的に顔面を紅潮させた。
現状を忘れたおやじが鼻息荒く、俺に向かい、大股に一歩踏み出さんとした時だった。
青年がもう一度引き金を引いた。
轟音の直後、横向きにおやじが倒れる。
おやじが道路に身体を横たえるなり、俺は忽ち彼の元へと駆け寄った。そして失望のあまり、思わず溜息を吐いた。
おやじには、まだ息があったからだ。ピクピクと四肢を痙攣させ、口から泡を吹いてはいたが、大した傷は負っていなかった。精々、倒れる際に擦りむいた程度だった。
無論、銃痕はあった。
青年は確かに、おやじの頭部に向かって撃ち込んでいた。
しかし、青年の撃った弾丸はおやじの皮フに弾かれてしまっており、ぷっくりと腫れを作っただけだった。
青年が放ったのは、ゴム弾だったのだ。
それは今もまだ、おやじの傍でコロコロ転がっていた。
「どういう事なんだ、これは」
俺の声は震えていた。
怒りからか、哀愁からか、はたまた何となくこうなる気がしていた故か、理由は分からなかったが、俺は青年に訊ねずにはいられなかった。
青年は顎に手をやり、数秒考え込む仕草を取った後、手の中の銃を指先でくるくる回しながら言った。
「玩具なんだよ、この銃」
「……は? お、おもちゃ……?」
驚愕する俺の顔を見ると、青年は三日月状の笑みを浮かべた。
青年からは、先刻までの冷淡な雰囲気とは打って変わって、少年のような印象を受けた。
「そうだそうだ、オモチャだオモチャ! 出来の良いモデルガンだよ、騙されたかい?」
「……………………」
はい、そうですと答える代わりに、俺は頭を抱えた。
騙されたと怒りを覚えるよりも、自分自身への呆れの方が勝った。子供騙しだったのだ。
うずくまったまま、俺は訊ねる。
「このおやじとは、知り合いか何かか?」
「……いや、知らないな。初対面だ」
「初対面って……こんな真似して、警察のお世話になるんじゃあ……」
嘆息する俺に、青年は言う。
「いいや、大丈夫だろう。だって──」
青年はまたしても、勿体ぶったように言葉を区切るもので、俺は「だって、何だよ」と聞き返さずにはいられなかった。
背後に立つ青年の方へと向き直り、顔を上げる。
俺を見下ろす青年は、俺の顔面に例の拳銃を向けていた。
「……何のつもりだ。そいつはモデルガンだって、さっきお前自身が種明かししたばかりじゃあねーか」
「いや、違う。こいつはモデルガンじゃあない。本物だ」
「はぁ?」
半笑いで質問する俺に、青年は間髪入れずに言った。
先におやじに発砲した銃と同型に見えたが、青年は首を振ると、懐からもう一丁の拳銃を取り出した。それを空いた片手で持ち、見せつけるように、俺の鼻先に近づけてみせた。
「こっちがさっき撃ったモデルガンさ──つまりな、本物と、本物そっくりの偽物を一丁ずつ持っていたってワケ」
「何でそんな真似──」
俺は最後まで訊く事ができなかった。気付いた時には、地面にひっくり返っていた。
視界が十分の三程度、アスファルトで覆われていた。遅れて、視界の端が紅く染まりだしてゆく。
それが血潮である事に気付いたのは、視界に霞がかってきた頃だった。
物の輪郭がぼやけ、線が解ける。
自我を保つために必要な「何か」、致命的な「何か」が崩れてゆくのを感じる。
遠のく意識の中で、二人分の人影が俺の傍に立っているような気がした。
※※※
「良かったのか、これで?」
「……えぇ、殺す必要ないですから。この程度のガキは」
「くっくっくっ…………この程度のガキか。成程、その通りだ。真坂、赤絵具如きで気絶するとはな。最近の若者は臆病でいけねえ……いや、済まん。お前の事じゃあないんだ」
「…………分かってます」
「でも、本当に良かったのか? こいつ、お前の女ぁチャリで……」
「別に、大した怪我じゃあありません。突き指くらいなんで……ただ、どんな奴か知りたかっただけですから……とはいえ、ここまでのクズだとは思いませんでしたが……」
「ハハ。ワシが一番嫌いなタイプだ。呆れたモンだぜ」
「全くです。……そんな事より、済みません、親父。わざわざ一芝居打ってもらっちゃって」
「いいんだ、ワシがやりたくて声かけたんだからな。これでも若い頃は役者を──」
「その話、もう100回は聞きましたよ。名演技でした。そんな事よりも、1つ質問があるんですが」
「ん? 何だ?」
「あの坊主……貴方を「おやじ」って呼んでましたけれど……」
「いいや、知らん顔だ。……ワシってそんなに、老けて見えるんかのぉ」
「ど、どうなんすかね、ははは……」