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本編

「桜の木の下には死体が埋まってるらしいぞ。たぶん」


 隣を歩く彼氏兼同僚が言った。


 その言葉に気を取られ、ピンクの花びらが雪のように降り注ぐ幻想的な空間から現実へと引き戻されてしまった。


 無念である。たぶんとか、付け加えるくらいなら黙っていてほしかった。


 ならば、この桜並木には一体、いくつの死体が眠っているのかと、問いただしたい。どうせこの男には答えられないだろうけど。


 ふるふると舞い落ちる花びらに、これが万札だったらなぁと妄想に心を踊らせていた、わたしの大切な時間を返してほしい。


 けれど。


 やがて立ち止まった彼が口にしたのは、謝罪ではなかった。


「昔、このあたりは空襲で一面焼け野原になったらしい。もちろん、君や俺が生まれる前の話だ。


 だけど、そのときの死体はどこへいったんだろうな。


 あれからこの国は復興した。最初は経済力の強化を目指し、朝鮮戦争やベトナム戦争が生んだ高度成長は、一時期はジャパンアズナンバーワンなんて本が出るくらいにもてはやされた。


 今は、失われた十年とか、二十年とか言われてるけど、その間のデフレによる価格破壊は消費者にとってけして悪いもんじゃない。


 むしろ、景気を向上させようと意図的にインフレを起こそうとした政策は、大企業が設備投資を理由に、利益の内部留保を進めた結果、社員の給料が増えることはなく、消費の停滞へとつながっている」


 めんどくさそうな話に、わたしがじろりとにらんだのを、催促ととらえたのか、こいつは続きを話し始めた。


「だが、経済が停滞している間に、この国では心の豊かさが新しい価値となった。


 受験勉強の勝者が人生の勝者ではない。一流企業に就職することが幸せにはつながらない。


 タワーマンションの最上階の角部屋から眺める景色、ランボルギーニで走るときに集める羨望の眼差まなざし、ブラックカードを持つ者だけが入室を許されるVIPサロン。


 それは成功のあかしだけど、そこに至るため、維持するために努力を重ねるなんてコスパが悪すぎる。


 定時に帰ることのできる仕事、こうやって休日にスタバのコーヒー片手に桜並木を散歩する時間のなんて尊いことか。


 あぁ、宝くじで3億円当たらないかな」


「そのコーヒー、わたしがお金を払ったんだけど。しかも、世間様は日曜日でも、わたし達は仕事で来てるのっ! わかってる? あと、宝くじを買う金があったらわたしにカネ返せ」


「……そこで、本題だ。この桜並木は自然にできたものじゃない。いや、ソメイヨシノがクローンだってことじゃなく、この公園も遊歩道も人工的に作られたってこと。


 戦争で土地の所有も曖昧になり、大きな区画整理もたやすかったはずだ。ならば、焼け野原に捨て置かれた戦争の爪痕はどこへ行った?


 君が見上げて花びらが舞い散るのを楽しんでいるその足元に、焼夷弾で家を焼かれ家族を失って泣いている少女の姿が見えるようだ」


「あんた、サンドイッチを食べ歩きしながらよくそんなこと言えるわねっ!」


「ちなみに、桜の葉は裏側に蛾の幼虫が毛虫となって群生していることがある。直接触れなくても毛が風にのって肌に触れてアレルギー症状を起こす。


 その害虫の駆除や落ちた花びらの清掃、秋には落ち葉の清掃でカネがかかる。いっそのこと切り倒したほうが経済的にはいいような気がするが、そんなことをしようもんなら、近隣住民から反対される。


 それも含めての風情ふぜいだとか言ってな」


「そのサンドもわたしが買ったんだけど? いっそ、あんたを切り捨てたほうが経済的にも、将来的にもいいような気がする。どこかに金持ち、落ちてないかな?」


「じゃあ、君は落ちてる金持ちを探せ。俺は3億円の当たりくじが落ちてないか探す。見つけたら半分こな」


 そんなことを言い合っているうちに、依頼者の家に着いた。


「ごめんください。安田法律事務所の者です」とわたしは門柱のインターフォンに声をかけた。


「大サーカスではありません」


「お前は黙ってろっ! わたしをいらつかせるな」


「やれやれ、まるでカラミティ・メアリだな」という、こいつの言葉にかぶせるように「今行きます」とインターフォンから声がした。


 家人が出て来るのを、防犯カメラに手を振るこいつの足をつま先で蹴りながら待っていると、ロマンスグレーの似合う初老の紳士が門の内側に姿を見せた。


「どうぞ、こちらへ」と案内されたのは、母屋ではなく、庭を見渡せる四阿あずまや


 そして、満開の桜。


 隣地の家屋まで見渡せる広い芝生の真ん中で一人枝を伸ばして咲き誇る、この庭の絶対君主、女王陛下。


 四阿あずまやに向けて優しく木陰をつくり、花びらを風に乗せて舞い踊らせている。


 広大な庭にそれ以外の樹木は存在を許されておらず、くるぶしまで覆われた芝と雑草が女王陛下を仰ぎ見る。


 唯一の建造物である四阿あずまやをそばに控えさせ、君臨する世界に優しく微笑みかけていた。


「今日は天気もいいし、問題の場所もよく見えるので、こちらでお話をしたいのですが」


 三角屋根の四阿あずまやは、4本の柱に囲まれ、その3辺には内向きに木造りベンチを置いて背もたれをぐるりと壁板代わりにしている。


 3畳程度の広さの床はモザイク模様に木の板で敷き詰められ、中央には木製のテーブル。お茶とお菓子の用意も。


「手間が省けて助かります」と答えたのは、彼、山武太一さんぶたいち


 わたしにとっては、彼氏・同僚・債務者。


「私は、安田法律事務所の事務職員で山武さんぶと申します。こちらは助手のクロちゃんです」


 名刺を渡すのはいいとして、わたしのことを、クロちゃんっ?


 だが、邪魔はすまい。ここからは彼の出番だ。きっちりお仕事してください。


「依頼した加藤秀之です」


「担当の田中弁護士が所用で来れなくなったので、私どもで現地調査に参りました。問題の桜の木というのはあれですか?」


「そうです」


「見事な桜ですね。私が田中弁護士から聞いていることを述べますので、確認をお願いします。


 かつて、加藤さんは友人の織田さんと一緒にこの土地を購入した。そのとき、塀を作らず、両家で庭を共同使用することにした。だが、形式的には境界線が必要となる。そこで、一応の境界線を定め、その境界線上に桜の若木を植えた。


 ところが、昨年末、一緒に購入した友人が亡くなり、お隣との付き合いもなくなって庭を共同使用する約束も意味がなくなった。


 一方、桜の木は、年月が経って大きくなり、今では境界線がはっきりしなくなっている。


 今後、代替わりして、無用なトラブルが起きる前に境界線をはっきりさせておきたい。


 そのためにお隣の織田さんとの交渉を依頼したいということでしたが、それでよろしかったでしょうか」


「そのとおりです」


「ご自身で交渉は?」


「向こうが話に応じようとしません。


 以前はお隣とはここで一緒にバーベキューをするくらい仲がよかったんですが、数年前からお付き合いがなくなり、昨年末、友人だった織田が病気で死んでからは没交渉です。道で会っても挨拶すらしてくれません。


 このままだと、私が死んだ後、わずかな土地を争ってトラブルになりかねないので交渉を依頼することにしたんです」


「挨拶すらしなくなるというのは妙ですね。何か心当たりでも?」


「それが見当もつかなくて」


「相手の家族構成を教えてもらえますか?」


「友人夫婦は亡くなったので、その長男と二男の二人暮らしです」


「加藤さんのご家族は?」


「私と家内と息子の三人暮らしです」


「折り合いが悪いのは、家族全員ですか?」


「それが、あちらの長男と私だけのようなんです。もう、何年も口をきいていません」


「加藤さんは相手を嫌ってはいないのですか?」


「私が? いや、生まれたときから知っている子ですよ。嫌う理由がありません」


「わかりました。境界線を定めるにあたり、どこを桜の木の中心点とするか、相手と合意すればいいんですね」


「いいえ、桜の木は切り倒したいんです。もう一緒に花見をする機会もないでしょうし、境界にはフェンスを設置しようと思います」


「桜の木の伐採と廃棄、フェンス設置にかかる費用、それから測量することになった場合の費用はどうお考えですか」


「それは全額私のほうで負担します」


「わかりました。その方針で相手との交渉を試みます。ところで相手の方の電話番号をご存知でしたら教えていただけませんか?」


 ❑❑❑❑


 わたし達は加藤邸を辞すると、塀づたいに織田邸の正面玄関へと回り込んだ。


「大サーカスとか余計なことは言わないでよ?」と山武に釘を刺して、門柱のインターフォンを鳴らす。


「先程お電話を差し上げた安田法律事務所の者ですが」


 ギンッと彼をにらむ。だが、こいつは防犯カメラを見つけてピースサインをきめていた。


「今解錠しますから、お入りください」の声に続いて、ガチャリと音がした。


 引き戸を開け、築山をしつらえた前庭を抜けると、玄関で二十代後半の男が待ちかまえていた。


 男と挨拶を交わし、山武が依頼者の要望を伝えると、「加藤さんがそうしたいのならしかたないと、僕は思うんですが、兄はたぶん応じないと思います」と答えた。


「何か理由があるんでしょうか」


 山武の問いに織田守と名乗った男は首を横に振った。


「僕にもわかりません。もともと兄は子供の頃から加藤さんに気に入られていました。大学在学中は加藤さんの会社でアルバイトをしていて、卒業するときは、強い誘いを受けてそのまま就職したくらいなんです」


「守さんは?」


「僕は親父の会社に就職しました。会社といっても、従業員15人の零細企業です。親父が亡くなったので、今は社長と呼ばれていますが、加藤さんのところのような数百人も従業員を抱える会社じゃありません。そっちで秘書みたいな仕事をしている兄のほうが生活は安定していて、正直うらやましいです。何があったか知りませんが、早く仲直りしてほしいですね」


「お兄さんは今日はどちらへ?」


「会社です。携帯の番号を勝手に教えるわけにはいきませんから、僕から兄に、山武さんに電話するように話します」


 ❑❑❑❑


 やがて日が沈んだ頃、マックで待っていた山武のスマホが鳴り、わたし達は守の兄、織田透が指定したカラオケ店で会うこととなった。


 マックではコーヒーしか頼ませなかった。こいつには支払能力がない。お金を払うのはどうせわたし。カラオケの室料もたぶんそう。


 伝えた番号の部屋に訪れた織田透は、三十代そこそこのビジネスマンに見えた。


 挨拶をすると、山武がいきなり切り込んだ。


「社長の加藤さんと挨拶もしないそうですが、何か事情がおありですか?」


「……なぜ、そんなことを? 弟からは、境界についての話だと聞きましたが?」


「加藤さんや弟さんのお話を聞いてると、問題は境界とか、桜の木じゃなく、透さんと加藤さんの人間関係のような気がしたんです。加藤さんが透さんのことを、自分の秘書だと教えてくれなかったことも気になりましたし」


「秘書? ていのいい使いっ走りですよ。一応、係長という役職はいただいてますが、部下もいません。しかも、この話に私が反対してからは畑違いの部署に飛ばされました。今の私は、仕事もろくにできない役立たずです」


「社長の加藤さんからずいぶん気に入られて入社したように聞きましたけど?」


「子供の頃を知っているというだけのことでしたね。実際、社長の息子の秀一君が入社すると、跡を継がせるべく色々な部署を経験させています。将来を嘱望されたなんて勘違いして入社した自分がバカみたいですよ。こんなことなら、普通に就職活動をしておけばよかった」


「それが仲たがいの原因ですか?」


「そう受け取ってもらって結構です」


「わかりました。そこでお聞きしたいんですが、境界確定に協力しない本当の理由はなんですか?」


「社長は、桜の木を切ると言ってませんでしたか? 私はそれに反対なんです」


「なら、桜の木をはさむ形で境界線上にフェンスを設けるというのは?」


「それ、今考えたでしょう。社長は納得しませんよ。とにかく、私が反対しているのは、社長が桜の木を切るのを撤回しないからです。話は以上でよろしいですか?」


 そんな織田透に、わたしはそっとカラオケルームの伝票を差し出す。


 織田透は苦笑いを浮かべると、黙って伝票を受け取って部屋を出ていった。


 それを見送るわたしの背中で選曲しようとしていた彼氏・同僚・債務者・クズの首元を引っ張って、カラオケルームを出る。


 苦しそうにうめく声は、聞こえなかったことにした。


 ❑❑❑❑


 事務所には明日報告することにして、わたしは自分のアパートに、彼氏・同僚・債務者・クズ・居候を連れて帰った。


 同棲じゃないよ。ただの居候。


 酔った勢いと雰囲気にのまれて、ここで初めてをこいつにあげちゃったけど、大していいもんじゃなかった。


 その上、翌日からは仕事が終わると、当たり前のようにこのワンルームに帰ってくるようになり、家賃滞納で追い出された後は勝手に居ついてしまった。


 まだ幼い頃、道で拾った子犬を家に連れ帰ったとき、母が困った顔で「面倒見きれないんだから、元のところへ戻してきなさい」と言ったことがある。


 母は正しかった。


 なんで、こいつ、連れて帰っちゃったんだろうな。


 体を求めてくることもあるけど、避妊の用意すらしていなかったこいつに身を任せることはできない。


 あんな妊娠に怯えるような日々はまっぴらだ。生理がきたことを喜んだのは、生まれて初めてのこと。もういやだ。


 欲望を抑えられないときは、トイレにこもってもらっている。一度トイレに持ち込んだエロ本を持ち出すのは禁止。ほら、衛生的に問題があるからね。あと、使用するのは指定のトレペにしてください。ティッシュだと水に溶けないからね。


 わたしには子供を産んで育てる覚悟ができていない。そして、こいつにはカネがない。将来とか、未来とか、行く末なんて見えない。こいつが後生大事に抱えているものは、たぶんハズレくじ。


 わたしが夕飯を作っている間にこいつが書いていたのは、ボスの田中弁護士に提出する報告書。


 それをわたしに見せて間違いないか確認してきたので、「いいんじゃない」と答えておいた。


 論点は整理されてるけど、解決案は提示されてないよ、65点。しかも字が汚い。マイナス30点で、35点。という言葉は飲みこんだ。


 それを言うのはボスの仕事だからね。


 ❑❑❑❑


 翌日、事務所に出勤し、二人でボスの部屋に報告に向かった。


 報告書を受け取ったボスは、表紙を開こうともせず、渋い顔で一言。


「ご苦労だった」


 その報告書に見るべき価値はないと思うけど、せっかく書いたんだから見るふりくらいはしてあげたら? 字が汚くて読めないだろうけど、とは言わない。


 だって、ボスだもん。


 給料を払う雇用主。読む前から書いたやつの能力で時間の無駄だとよくわかっていらっしゃる。さすがの慧眼、恐れ入ります。


「今朝、クライアントの加藤さんが亡くなった。殺されたそうだ」


 わたしは思わず隣の彼氏を見た。


 犯人はお前かっ!


「加藤さんのポケットから山武の名刺が出てきた。警察が事情を聞きたがっている。これから行ってくれ」


「ボスはこいつの刑事弁護を担当してくれるんですか?」というわたしの問いに。


「山武が犯人なのか?」


「もちろん」とわたしは胸を張る。


「動機は仕事をしたくないから。クライアントが死ねば仕事をしなくてすみます。だから、こいつが犯人。昨日も言ってました。仕事したくね〜な〜。ボス死なね〜かな〜って」


「違いますよ。こいつ、俺の悪口を言いたいだけです。でも、犯人はまだ特定できてないってことですね? 動機も。死因はなんですか?」


「自宅の庭で絞殺死体で見つかった」


 ❑❑❑❑


 警察での事情聴取を終えた後、刑事弁護はお金にならないんだよという、わたしのつぶやきを無視して、山武はボスに加藤家に行きたいと直訴した。


 境界確定交渉の依頼を維持するか、キャンセルするか、遺族の意向はどうなのかを確認する必要があるからと。


 ボスは、喪中にすることではないとたしなめたが、そんなことでこいつは止まらない。


 犯人は現場に戻るっていうからね。


 ❑❑❑❑


 山武が面会を申し入れたのは、織田家の弟のほう、織田守だった。


 なんで? クライアントの遺族じゃないよねという、わたしの疑問は無視された。


「そういう思い込みが、間違いの元なんだ」という意味不明なお小言つきで。


 通された織田邸の応接間からも桜の女王陛下が今日も手を振っているのがよく見えた。足元で殺人が行われても気にしない。王族にとって民草たみくさの死など些細ささいなこと。


 そう。被害者の死体が見つかったのは、昨日この庭を訪れたときに見た桜の木の下だった。


 すでに実況見分は終わったらしく、現場に警察官の姿はない。もちろん、死体も。


 織田守がソファに座ると、せっかく淹れてくれたコーヒーに見向きもしないで、山武が聞き始めた。ずずっ。


「あの桜の木には、因縁があるようですね。なんでも、12年前に首吊り自殺があったとか」


加藤かとう禾乃かの。加藤さんの娘のことですね。当時、僕も彼女も大学入学の直前でした。子供の頃から一緒に育ち、僕にとっては、姉のような、ガールフレンドのような親しい存在でした。それが、突然あんなことをするなんて」


禾乃かのさんに悩んでいる様子はありましたか?」


「さぁ? 家族同然とはいっても、所詮は他人です。高校3年生のときは同じクラスでしたが、悩みを相談されたことはありませんでした。あぁ、でも」


「どなたか、お付き合いしていた男性がいたのでは?」


「兄と付き合っていました。高校在学中は、家族にも隠していて、僕ですら気づきませんでした。


 卒業式の後、兄から指輪をもらったと喜んで皆に見せて、それで家族が初めて知ったくらいです。そのときのうちの両親と禾乃かのの両親の驚きようといったら。


 ですが、それからひと月もしないうちにあんなことをするなんて」


「お兄さんは当時働いていたんですか?」


「昨日言いましたよね。加藤さんの会社でバイトをしていたって。それは、指輪を買うためだったんですよ」


 どうでもいいけど、コーヒー冷めちゃうよ。もぐもぐ。


 このお菓子、美味しいっ!


 ❑❑❑❑


 次に訪れたのは加藤邸だった。


「本当に大丈夫なの? 亡くなった日に行くなんて」


「ご遺体は検死を受けてる頃だ。遺族の元に戻るには時間がかかる。今しばらくは忙しくないはずだ」


 そんなことじゃなくて、遺族の気持ちとか、ボスへのクレームとか考えないのかな? お茶も今飲んだばかりだし。


 結局、山武に押し切られて加藤邸を訪問した。応接間で応対してくれたのは被害者の息子、加藤秀一。


 窓越しに見える桜の女王陛下、きらきらと下々に愛想を振りまいて、まるでアイドルみたいだね。


「境界確定の件でしたね。あれはキャンセルします。


 元々、父が言い出したことです。自分の父親だし、故人のことを悪く言いたくはないんですけど、自分勝手な人でした。お隣の織田さんが本当のお父さんだったらなって思ったこともあります。


 透さんに対してもあんまりです。織田透さん、お隣の兄のほう。僕の姉のことは知ってますか? 大学入学直前に首吊り自殺をしたんですけど、それがあの桜の木です。


 透さんは月命日には必ず桜の木の根元に姉が好きだった花を供えてくれています。その場に座って何時間も。


 姉の魂はお墓にはいない。最期の瞬間、何を考えていたのか、どうしてこんなことをしたのか、おそらくはその場所で、それを聞こうと姉が語りかけてくるのを待っているのでしょう。透さんにとっては大切な木なんです。


 そんな場所で花見とかバーベキューなんてできますか?


 父はそんな木を切ろうとしたんですよ。


 僕や母が止めても聞きません。挙げ句、透さんを閑職に追いやるとか。本当だったら、姉と結婚して父の跡を継ぐはずだったのに」


「秀一さんのお考えはわかりました。境界確定は希望しないということですね。ただ、お母さまのご意向も聞いておく必要があるんです。お辛い中、誠に申し訳ありませんが、お母さまからお話をお聞きすることはできませんか?」


「……母に聞いてみます」


 ❑❑❑❑


 被害者の妻は気丈な人だった。


 突然の夫の死。


 それも殺人という理不尽な形で命を奪われたばかりだというのに、身なりを整え、わたし達に丁寧に対応してくれた。


 けれど、その態度にはどこか、くるべき時がきたことを覚悟をしたような悲壮感が漂っていた。


「境界確定は主人が勝手に言い出したことですから、わたくしども遺族が続行を求めるということはありません。そうなると、弁護士報酬の精算をする必要がありますね。請求書を郵送していただいたら振り込みます。宛名は夫の秀之ではなく、わたくし宛てにしてくださいね。夫の預金は引き出せないので」


禾乃かのさんについてお聞きしてもよろしいでしょうか」


「あら、どうして?」


「ご主人は絞殺死体、禾乃かのさんは首吊り自殺、いずれも死因は頸部圧迫による窒息死と思われます。しかも場所はあの桜の木。この二つの死に関連性があると考えるのが普通じゃありませんか?」


「わたくしもそのとおりだと思います。恐らくは、禾乃かのが父親を呼んだのでしょうね」


「警察は、織田家のお二人と加藤家のお二人を疑っているようですよ。


 動機はともかく、こちらの庭に入れるのはこの4人だけ。おっと、ご主人を入れると5人ですね。高い塀に囲まれ、防犯カメラで監視されている。誰もが簡単に出入りできない、いわば密室で行われた殺人です。犯人もおのずと特定されます。


 たとえば、首吊り自殺を偽装しようにも重すぎて持ち上げることのできない力のない女性とか」


「あら、わたくしを疑ってらっしゃるのかしら? でも、言われてみればそのとおりですね。これはもう逮捕されるのも時間の問題かしらね」


「すいません。冗談がすぎました。奥さまにはご主人の首を絞めて殺せるだけの力がありません。失礼なことを申しました。お許しください」


「いいんですよ。人はあやまちを犯すものですから」


 夫人はそう言って庭の桜を遠い目で見ていた。


 ❑❑❑❑


「どう思う。あの奥さん」


「ボスへのクレームは確定ね。出勤したらすぐに私物をまとめておきなさい。


 今回の件をボスに報告したら、すぐにでもハローワークへ行って求職の申込みと失業手当の申請をしておくこと。手当がすぐに出るように退職理由は自己都合ではなく、会社都合、つまりクビにしてもらっておくから。健康保険はわたしの扶養にしておいてあげる。ただし、失業中はあんたが家事を一手に引き受けること。ついでに、マッサージもよろしく」


「……違う。奥さんは犯人を知ってると思うか?」


「見当はついているけど確信はないってところかな」


「そうか。じゃあ、犯人に会いに行こうか。実は今朝、電話でアポイントを取っておいたんだ」


 ❑❑❑❑


 そう言ってわたしが連れてこられたのは、被害者が経営していた会社。


「息子の秀一は父親の死で出勤していないが、織田透は親族じゃないからな。今日は通常どおり出勤しているはずだ」


「やっぱり織田透が犯人なんだね」


「わからない。だけど、たぶん、全員の総意は織田透が最後まで犯人を演じることで一致している」


 受付で名前を告げると、会議室へと案内された。中には織田透が一人。


「どうぞ、おかけください」と言われて席に着く。


「今日、いらした理由はわかっているつもりです。ですが、さて、何から話したものか」


「とりあえず、動機を教えてください」


「簡単なことですよ。


 昨日も話したとおり、社長は私に跡を継がせたいから入社するようにと言ってきました。でも、そんな扱いも秀一君が入社するまでのこと。


 実の息子がいると知っていてそんな嘘にだまされた私も愚かだったと思いますけど、私の人生を台無しにした社長を許すことはできません。それで、昨夜、あの桜の木の下に社長を呼び出したんです。


 その場で私の不満をあの男に叩きつけてやりました。そうしたら、あの男、だまされるほうが悪いんだと。


 私はカッとなってズボンのベルトであの男の首を絞めたんです。これが真相です」


「警察には?」


「明日、出頭します。今夜、あの桜の木に別れを告げたら。ですから、明日の朝まで通報は待ってくれませんか?」


「上司の田中弁護士に報告しないわけにはいきません。ですが、もう5時、勤務時間は終わっていますから、結果的に報告は明日の朝になりますね。あと、うちの事務所はこちらの会社の顧問をしています。他に上司に伝えておくことはありますか」


「私が自首すれば、恐らくは取引の見直しや株価の下落、弟の身辺、弟の会社、それから加藤家について根も葉もない噂や記事が出るでしょう。そういった諸々の問題に対処していただきたいということも田中先生にお伝えください」


「わかりました」


「あと、顧問料、今回の件の報酬もご心配なくと」


「ありがとうございます。ああ、織田さんのお名前、いい名前ですね。どなたが付けたんですか?」


「織田の父だと聞いています。いい名前? とんでもありません。私にとっては呪いですよ。少なくともこの4年間はそう思って過ごしてきました。……まだ、聞きたいことはありますか?」


「織田さん、私は、顧問の法律事務所の職員として、職務上知ったことについて守秘義務を守ることを、ここにお約束します。どうか、心を安らかに」


「ありがとう。山武君のことは悪いようにはしないから。……くれぐれも」


 ❑❑❑❑


「あの人を警察に突き出さなくていいの?」


「ああ、約束だからな。……今夜はお酒を買って帰りたい」


「え〜っ!」


「このままだと眠れそうにない。何か気を紛らわせたらいいんだけど。たとえば……今夜、君と」


「却下っ! それくらいなら、お酒買っていいよっ」


「悪いな」


 ❑❑❑❑


 こいつに、ああは言ったがとても眠れそうになかった。


 ビールじゃアルコール度数が足りないだろうと、ウイスキーの小瓶を買ってストレートで飲み干したのにな。


 俺はベッドから抜け出してベランダから空を眺める。元々シングルベッドは二人で寝るには狭い。


 今夜はあいつに譲ってやろう。


 元々があいつのだけど。


 深夜だというのに、空には薄闇が広がり、車が走り抜ける音まで聞こえてくる。


 もう何年も暗闇を見ていない。


 ガラにもなくセンチになっているのは。


 今夜、人が死ぬ。


 そのことを知っているから。


 そして、彼の二人の弟はそれを見送るのだろう。死んだ恋人の母親も。


 日本の警察は優秀だ。このまま捜査が進めばいずれ真実が暴かれる。


 それを隠すためにあの男は今夜、桜の木で首を吊るのだ。


 事の発端は33年前。


 一度のあやまちだったのか、以前から続いていたのか、あるいは無理矢理だったのかもしれない。


 いずれにせよ、織田の妻は加藤秀之の子を身ごもった。


 そのことをどうやって織田が知ったのかはわからない。


 だが、織田はその子に加藤秀之の名前を付けることにした。


 透と。


 「透」という字は、まず「秀」という字を書いて、次に「辶」と書く。つまりは「秀」「之」と。


 俺はボスへの報告書を書いていてそのことに気づいた。加藤秀之の息子が「秀一」、娘の名前が「禾」「乃」、いずれも「秀」の一文字が使われていたから。


 「加藤秀之」の「秀」から取って付けていることは明らかだ。


 そして、今日の最後のやり取りから、透が実質的に加藤家の一員として、会社のお金を決裁できる立場にいることがわかった。


 ならば、禾乃かのの自殺の原因も推測できる。


 高校卒業のお祝いに透からもらったという指輪。それは二人の間で何らかの約束を交わしたということだ。


 しかし。


 それまで家族にすら秘密にしていた恋人の存在を明かし、祝福を求めた18歳の女の子に突きつけられたのは、その恋人が兄だという事実。


 伝えたのが誰かはわからない。


 だが、舞い上がっていた娘は絶望のふちに追い込まれ、そして恋人への思いを断ち切れず桜の木で首を吊った。


 それはわが身の不幸を嘆いたからか。


 父親を責める気持ちからだったのか。


 いや、透に一生消えない傷を残したかったのかもしれない。


 最愛の恋人の隣に自分以外の誰かが立つなんて我慢できないもんな。


 今の俺と同じだ。よくわかるよ。


 透がそのことを知ったのは、4年前。恐らくは母親が死に際にでも教えたのだろう。


 8年も経ち、もう過ぎたことだとでも思ったのか。


 だが、透にとっては違う。わずか8年前のことだ。


 最愛の恋人が自殺した理由を知った透は、この4年間、どうしていいかわからず悶々とした日々を送っていたと思う。


 そこへ禾乃かのの最期の場所となった桜の木を切ろうと加藤秀之が言い出した。


 すべてはおのれが発端なのにな。


 もしかしたら、加藤秀之も毎年桜が咲くたび心を痛めていたのかもしれない。もう見たくないと思ったとしても不思議じゃない。


 だが。


 透の月命日参りを知っている加藤涼子、加藤秀一、そして織田守は、おぼろげながらも、それで何かが起きるかもしれないと思っていた。伐採に反対したかもしれない。それでも加藤秀之は譲らなかった。弁護士に依頼して強引にことを進めようとした。


 トリガーとなったのは俺の訪問だ。


 両家の応接間から見渡せる場所で行われた殺人事件。声くらい聞こえただろうし、殺害するところを見たかもしれない。


 それなのに、誰もが口をつぐんだ。


 もうそれだけで何かの意思を共有していたことは明らかだ。たとえ、共謀はなかったのだとしても。


 けれど、あの4人の誰も家族の秘密が暴かれるのを望んではいない。


 ならば、捜査が進む前に犯人が自死するしかない。加藤秀之殺害事件を、被疑者死亡で書類送検し不起訴となることで強制的に終わらせるために。


 そんな命をかけてまであの男が隠そうとしたものを暴く権利は俺にはない。


 だから、俺は口をつぐむ。


 黙ってあの男を見送る。


「ぶーた、眠れないの?」


 ベランダでたたずんでいた俺に声をかけてきたのは、俺の彼女にして小学校の同級生。


 俺に、ぶーた、なんてあだ名を付けた礼儀知らずの幼馴染みだ。


 山武太一さんぶたいち。真ん中を取って、ぶーた、だと?失礼にもほどがあるぞ。


 だが。


「ベランダは寒いよ。おいで。あたためてあげる」


 握られた手の熱さに、強く抱き寄せずにはいられない。唇に触れながらベッドを目指す。


 俺の初恋。


 その夜、俺達は久しぶりに抱き合って眠った。



    一 エピローグ 一



 翌朝、出勤したわたし達を待っていたのは、ボスからのメールだった。織田透が死んだのだ。桜の木で首を吊って。


 まったく、もう。


 桜は今日も誰かを殺す。



     一 おわり 一


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― 新着の感想 ―
[良い点] 人が死ぬこと知っていながらそれを見ないふりをする。偽善かもしれませんが、自分なら何としてでも引き留めたいと思ってしまうだろうなと思いますが、山武さんも織田家、加藤家の遺族の皆さんもある意味…
[良い点] 最初はお隣さんトラブルかな…と思いましたが、 真相は全く読めませんでした。 山武の出した結論、私は賛同します。 山武の意外な熱い部分が最後に垣間見えるのがいいですね。
[良い点] 江戸川乱歩などの探偵ものでも、追い詰められた凶悪犯がラストシーンで自殺することがあります。 今回の話はそういうのとは違って、探偵が犯人を追い詰めずに名誉を守ってあげているんですね。
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