エーチェ ⑨
エーチェ視点、長くなってしまいました。
客間へ案内しながら、不快を抑え込み青筋だった顳顬に貼り付けた笑顔で、怒鳴りつけたいのを必死に我慢しつつ、今の精神状態での精一杯の媚びへつらう声色でクラン子爵はフリップ夫人に問う。
父親の機嫌の悪さを目の当たりにして、エーチェはビクッと身体を震わせた。
「当然ですわ。今のオルロフ家の当主はお父様ですもの。先程、私の従者がその旨を書いた手紙を、この屋敷の執事に渡しましたわ。異論があれば、連絡して欲しいと」
クラン子爵は大声で執事を呼び付ける。皆がソファーへ腰を下ろした、その時、青い顔をした執事が慌てた様子で部屋へ入ってきた。
「旦那様、いかがなさりましたでしょうか」
「こちらのフリップ夫人が、我が家へ手紙を届けさせたと仰られているが私はそれを受け取った記憶などないのだが?」
クラン子爵の怒気を孕んだ低い唸るような声に、執事は一瞬ビクッと肩を震わせたが、流石と言うべきか顔色一つ変えていない。
不味い、それって私が執事から取り上げた手紙のことよね。
「私が読み終わる前にエーチェお嬢様に取り上げられしたので、そのままエーチェお嬢様が旦那様にお渡しになったものとばかり思っておりました」
「エーチェ!」
子爵の怒号が響く。
「ごめんなさい。お父様に伝えてあると思ってたの。夫人がいらっしゃると書いてあったから…、準備しなきゃと思って…手紙は私の部屋にあるわ。捨ててなんかないから、本当よ!」
盛大に溜息を吐くと、子爵は天井を仰ぎ見る。
「過ぎてしまった時間は戻らない。夫人、お聞きの通り私は手紙を見ておりません。申し訳ございませんが、手紙を見ていない以上、その内容を了承することはできかねます。エーチェ、急いでその手紙を持って来なさい」
「まあ、そうでしたの?それは困りましたわね。私、てっきり、了承して頂けたものとばかり思っておりましたわ。仕方ありませんわね、ロナードさん、折角書類をご用意頂いていたのに申し訳ないわ。お聞きの通り、エーチェ嬢がそれをお持ちで子爵へ渡っていないそうなの」
たいして困った風でもなく、そんなことを宣うフリップ夫人の言葉を聞くと、エーチェは慌てて自室へ手紙を取りに行くために部屋を出た。
あの手紙、そんなに重要なものだったの?
エーチェは机上の手紙に慌てて目を通す。書かれていることはありきたりな先触れ、訝しみながら、封筒を手に取ると中にもう一枚魔法を施された紙が入っていた。慌ててその紙を手に取り広げると、文字が宙に浮かび上がる。
ラティーナ・オルロフ・クランの後見人をオルロフ伯爵より自身が請け負うとの申し出があった。異議申し立てがあれば、オルロフ伯爵がクラン子爵家到着までに手続きを踏むようにという文面だ。オルロフ伯爵が到着までにその手続きが取られない場合は、オルロフ伯爵を後見人として認めるとある。
エーチェは慌てて、手紙を折り畳むとそれを封筒に戻し、応接間へと急ぎ戻る。
初めて見たわ、あんな手紙。急いでお父様に渡さなきゃ。オルロフ伯爵が来る前に!
急いで応接室の扉を開けるとそこはもぬけの空だった。
あれ?どこへ行ったの?
エーチェは慌てて、ティーカップを片付けているメイドを捕まえて、お父様達がどこへ行ったのか問うと、メイドはラティーナの部屋へ行ったと答える。エーチェにはここで待つようにと、子爵より言付けられたと言われる。
エーチェは不服に思いながらも渋々、ソファーへ腰を下ろした。時間を置かず、数名の足音と話し声が近づいて来る。ガチャリとドアが開き、子爵達と子爵夫人が入ってきた。子爵夫妻の顔色は悪く、子爵の額からは汗が流れている。
エーチェはお父様と声をかけようとして固まった。フリップ夫人の横には、いつぞや夜会で見かけたオルロフ伯爵の姿があったからだ。その表情は夜会で見かけた時とは違い、険しく怒りを抑えているのが見て取れる。
何があったのかしら?
皆が席に着くと、オルロフ伯爵が怒りを露にクラン子爵夫妻へ詰め寄る。
「これは、一体どういうことかね?私にわかるように説明願いたい」
なんの話だろ?
ひとり話の見えないエーチェはキョトンとした顔で、オルロフ伯爵と両親を交互に伺う。クラン夫妻はしどろもどろで、明確な言葉を発せないでいる。
「これは、妹思いのラティーナが…」
「そんなことを聞いているのでは無い!太陽の雫が何故このようなことになっておるのだ!まあ、百歩譲って、ラティーナ嬢の不手際なら諦めもつくが、何故、我が家門と関係のないエーチェ嬢が壊すようなことが起こるのか、しかと説明願いたい」
いきなり渦中の人となったエーチェは、ビクッと皆身体を震わせる。伯爵の手の中には、エーチェの大好きな赤いルビーのピアスとネックレスがあった。エーチェはこの装備具が大好きで、夜会やお茶会の席でよく身に付けていた。
何がいけなかったのか、エーチェにはさっぱりわからない。その装備具はラティーナの母親の物だったことは知っている。でも、ラティーナの母は死んだのだ。なら、エーチェが使っても問題あるまい。
「エーチェ嬢がこれを身に付けていると、知人に聞きましたのよ?初めは耳を疑いましたが、それも、数人になりますとね」
フリップ夫人は大きな溜息をこれ見よがしに吐くと、扇で口元を覆い、これだからと溢す。クラン夫妻はラティーナに助けを求めるように、視線を向けるがラティーナは一言も発せずただ紅茶を飲んでいる。
「たまたま、エーチェが間違えて使ったのでしょう」
クラン夫人が堪らず、そう保身を図る。
「たまたまね。だから、下賤な者は…」
クラン夫人とエーチェを侮蔑するような言葉を、フリップ夫人がボソリと、だが敢えて周りに聴こえる声で呟く。クラン夫人の顔は恥辱に赤く染まった。エーチェは何を言われているのか一瞬わからなかった。だが、母親の様子から、自分達母娘が侮蔑されていることを知る。
どうしてそこまで、言われないといけないの!
「矢張り、私がソコロフ卿と婚姻するまで、ラティーナ嬢の後見人になろう。彼等に任せていると、我が妹の資産は、その赤の他人に食い荒らされてしまう恐れがあるからな」
嫌味ったらしく、エーチェ母娘を見ながらそう王都裁判所の職員に告げるオルロフ伯爵をエーチェは睨み付ける。
「だが、ラティーナは私の娘です。本来、その父親が存命な場合はその父親が後見人になるものでございます」
「ちゃんと役割を果たせていたら、の話だがな」
オルロフ伯爵はニヤッと人の悪い笑みを浮かべ、エーチェに視線を送ると、王都裁判所の職員に書類を出すように促す。
「だが、コーディネルの遣いが渡した書面に意義は無かったのだろう?」
「それは先程、フリップ夫人に拝見していないと伝えたはずですが」
苛立ちを隠せないクラン子爵に対して、オルロフ伯爵は素知らぬ顔で王都裁判所の職員が出した紙を広げる。すると、エーチェが先程目にしたように文字が浮かび上ってきた。
「本当に?だが、こうして契約は締結しておるが?」
クラン子爵夫妻の顔色が一気に絶望の色に染まる。
「本当に私は開いていない!」
「手紙を開き閉じなければ、契約は結ばれはしませんよ。後、フリップ夫人がこちらへお送りした手紙は、ちゃんと家令や使用人が間違えて開けないように細工がしてありますし、こちらへその手紙を届けたのは見習いとはいえ、王都裁判所の職員です」
嘘、私があの手紙を開いたから、お父様はクラン子爵家の権利を奪われるの?
ここにきて、初めてエーチェの顔色が悪くなった。




