遥かな曙光
轟々と鳴り響いていた風の音がわずかに弱まってきていた。いまだ雨は降ってるものの、横から馬車に打ち付けていたそれは既に屋根をさわさわと叩くだけだ。
深夜から走り続けて約五時間ほど。もうすぐ夜が明ける。
暗いなかで馬を走らせるのは困難な上に危険だが、僧兵ミルドランは使役魔法による強制で四頭立ての装甲馬車を疾走させていた。
「……神はまだ、わたしに試練を与えるというのですね」
車内の御者台で手綱を操りながら、ミルドランは独り言ちた。
深夜に見た光景が、何度も脳裏によみがえる。ミルドランと部下の僧兵たちが“隷従の首飾り”で使役していた王国兵は――ミルドラン以外の僧兵も含めて――ほんの半刻ほどで全員が死んでしまったのだ。
「あの無能どもが」
搔き集められるだけ搔き集めた魔導防壁付与の重甲冑と剣、そして王国軍輜重部隊から奪った40もの“魔導爆裂球”をもってしても、“半魔の番”に傷ひとつ付けられないとは。
王国貴族院連合軍の残党たちは敵に一矢報いるどころか、触れることさえできぬまま死んだ。奇妙な箱車を止められたことが成果と言えなくもないが、なかの“半魔の番”どもは健在のままだ。
死ぬために集めた兵であり、死ぬために備えた装備だったが、力量差がここまでとは思っていなかった。
こんなはずではなかった。王都の蹂躙は順調だった。王家と高位貴族を喪った王国の掌握も、あとわずかで達成できるはずだった。そこから“神の意思”を体現することで、新たな政体の樹立も不可能ではなかった。
「忌々しい、半獣どもの介入さえなければ……」
昨夜は最初から、嫌な予感がしていたのだ。屋敷から離れようとしたところで異常なまでに魔圧の高いなにものかが接近する気配を察知した。得ていた情報から、それが“半魔の番”以外にはありえないと知っていた。触れるものすべてを滅ぼす、破滅の象徴。徹底抗戦を命じた後で、ミルドランは北に向けて馬車を走らせた。“隷従の首飾り”の使役効果が途切れないギリギリまで距離を取り、わずかに高くなった丘陵地に馬車を停めて戦いを見守っていたのだ。
それは戦いでもなんでもない。虐殺と呼ぶのが相応しい結果に終わった。
「……虫けらが、死ぬべくして死んだだけのこと。……わたしは、こんなところで終わるわけにはいかないのですよ」
怒りと憎しみと、焦りと憤りと。腸は煮えているが、背筋にはずっと冷えた汗が噴き出している。どれだけ逃げようとも。どれだけ距離を取ろうとも。着実に追いすがる死の感覚が消えない。
装甲馬車の前部にくり抜かれた覗き穴から進路を見据え、手綱操作用の繰り出し穴から馬たちに指示を伝える。
わずかに明るくなり始めた前方視界には、北に向けて延々と伸びる街道。あと百六十キロも走れば東西への分かれ道が見えてくるはずだ。
東に折れれば“半獣の国”アイルヘルンに、左に折れれば“混じり者どもの墓碑”アーエルに向かう。アーエルは歴史上いくつもの勢力から何度も奪われ奪い返され、滅ぼされ復興しまた滅ぼされた悲運の地だ。そのたびに支配者が変わり、地名が変わり、住民が入れ替わってきた。そこに暮らす者には苦難の連続だろうが、他国からの密偵が入り込むのにこれほど適した地もない。
聖国からも多くの人員が出入りし物資が運び込まれ、秘かに復権のときを待っていたのだが。その大多数は、既に失われてしまった。
「問題ありません。わたしは、まだ巻き返せます」
ミルドランは、自分に言い聞かせる。聖国の最精鋭である強襲僧兵たちの隠れ家と、そこに聖国とつながる転移魔法陣が持ち込まれていたことを把握していた。
それを見つけ出せば、夢にまで見た本国への帰還が叶う。聖都アイロディアが滅びたという噂を聞いてはいたが、聖国に戻りさえすれば選択肢はいくらでもあるはずだ。こんな蛮族どもの地で燻っているよりも、ずっと……
ドンッ!
装甲馬車が激しく揺れて、天地が回転する。バチバチと火花が散って目の前が青白く瞬く。幾重にも重ね掛けされた魔導防壁が砕け散ったのだと、気づいたときには外に投げ出されていた。
この国でどこよりも安全な場所のはずだった、装甲馬車の外に⁉ いったい、なにが起きた⁉
嘶く声に振り返ると、頸木を砕かれた馬たちが手綱を引きずりながら逃げ去ってゆくところだった。
使役魔法で制止しようとしたミルドランは、ずっと背後に感じていた気配が高まっていることを悟った。近づいている。前よりも、ずっと。
背筋を凍らせる、氷のような感覚。触れられそうなほどに近く、濃い。それは、殺気だった。猛り狂う龍のように強大でありながら、不可解なほどに静謐でもある。
もちろん、わかっていた。その気配が、追いすがる“半魔の番”のものだと。
「駄目だ、わたしは、まだ……」
逃げようとしたミルドランは、脚が動かないことに気づく。腰から下の感覚がない。もがきながら伸ばした手が、生温かい誰かの身体に触れた。
「……ッ!」
薄暗がりのなか手探りで調べると、引きちぎられた何者かの下半身だった。半ば確信しながらも、ミルドランはその持ち主を探す。まだ温かく生臭い匂いを放つ腸は、手でたどると自分の腰につながっていた。
「……終わり、ですか。……ここで。…………こんな、ところで」
仰向けに倒れたまま、ミルドランは南方を見据える。ずっと逃げ続けてきた街道の先、闇のなかでわずかに見える地平線の先を。
魔力による身体強化で視力を上げると、そこにはちんまりと四角いものが停まっていた。
“半魔の番”の、箱車だ。
結局、わたしたちは奴らに、なにひとつ被害を与えられなかったのだな。
チカッと、箱車の上で光が瞬く。すぐに激しい光と轟音に包まれ、ミルドランの意識は身体ごと消滅した。
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