魔禍の坩堝
「ヘイゼル、行かないのか?」
「すみませんミーチャさん、もう少々お待ちください」
俺たちは地上階で、開かれた扉から聞こえてくる階下のドタバタを窺っていた。パニック状態は収まるどころか激しくなるばかりだ。突入タイミングの基準がよくわからないが、逆に反対するほどの意見もない。この“英国的移動式悪夢”が待てと言えば待つ。
「ではミーチャさん、参りましょうか」
「へーい」
しばらくすると、ヘイゼルは落ち着いた様子で扉の先へと促す。俺も彼女も減音器付き短機関銃を装備して、ガスマスクを装着している。視界も呼吸も制限されるが、階下は催涙ガスが充満しているのだから仕方がない。
「なに待ちだったの?」
「あえて言えば、“首謀者の覚悟待ち”ですね」
「???」
扉の奥で狭い階段を降りると、いかにも頑丈そうな鉄の扉で阻まれる。が、先ほど逃げてきた魔導師が開けたのだろう、解錠されたままだ。鉄扉を開いて、なかの様子を伺う。
白い煙が立ち込める広い空間が、青白い灯りに照らし出されていた。部屋の中央にはいくつもの容器や計測機材が置かれた大テーブル、壁際には高さ二メートルほどある蒸留装置のようなものが並んでいた。
「ここが魔薬の生産拠点で間違いないですね。灯火が魔道具なのは、精製に強燃性素材を扱うせいでしょう」
冷静に言いながら先に進んでいたヘイゼルは、ふと首を傾げて振り返る。
「すみませんミーチャさん。ですので、銃火器の使用はお勧めできません」
「え?」
いや待って。敵陣の最深部で、いきなり縛りプレイ⁉︎ 俺は銃を制限されたら魔導師どころか、この世界の子供にも勝てないぞ、きっと。
「壁際の精製用大容器と、テーブル上の小分け用薬瓶やフラスコに入っている液体はガソリンを超える発火性と延焼性を持っています。おまけに、なかなか消えないという……」
考えながらヘイゼルはポンと手を叩く。ガスマスクの下でも、笑顔になっているのがわかる。
こいつ、絶対ろくなこと考えてねえ。
「素晴らしい♪」
と言って鳴らされた指に挟まれているのは、黒い短剣の刃。カードの持ち札でも開くように、扇状に並んでいる。まるでマジシャンだ。
「それは確かに、発火しない武器なのかも知らんが。刺し殺して回るのか?」
「必要とあれば」
ヘイゼルが軽い動きで投げると、ナイフは手近な敵に突き刺さる。貫かれた喉をキュッと鳴らして、崩れ落ちた男は床に立ち込めたスモークのなかに消えた。
ひょいひょいと投擲するたびに、催涙ガスの煙の奥で悲鳴や呻き声が上がる。一本で確実に殺しているらしい威力も凄いが、それより恐ろしいのは一投も外してない精度だ。ブリテンメイド怖えぇ……。
「あと六名……、五名……」
ヘイゼルは指差し確認するように短剣を投げ、サクサクと射殺してゆく。
途中でようやく、それが獣人領主マハラを殺した武器だとわかった。“フェアバーン・サイクス”だったか。黒くて細くて古風で簡素な、英国製の戦闘用ナイフ。
「あと三名は遮蔽の奥ですね。ここでお待ちください」
「お、おい」
奥へと向かったヘイゼルは通りすがりに、中央の大テーブルに置かれていた容器やガラス瓶を回収した。証拠品の押収か、不慮の事故で大炎上しないための配慮か。そこで振り返って、俺に言う。
「もし銃を撃つ必要があった場合は、壁際にだけは飛ばないよう跳弾に注意してください」
「ああ」
無茶言うな、とも思うが余計なことは言わんとこ。幸か不幸か、ここにいる敵が俺に向かってくることはなさそうだし……と考えていたとき背後の階段を降りてくる足音がしてビクッとなる。
「ミーチャ」
銃を向け掛けて止める。入ってきたのは、早くも上層階での仕事を終えたらしいナルエルだった。




