ターン・オフ
閑話。
……釣れん。
それはもう、面白いくらいに。まったく、なんにも釣れん。
「マジか」
わざわざ英国的調達機能で購入した素敵なボートの上で、俺はションボリと水面を眺めていた。
全長七メートルほどの船体はイギリス製。パントと呼ぶらしい長方形のそれは、俺が見たことのない代物だった。本来は浅い川の川底を、竿で突いて進む。なんでこれが英国軍の遺失物に含まれていたのかは知らん。
釣りにはこれでしょうとヘイゼルに太鼓判を押されたが、瓢箪型の溜め池は水深が十メートル以上あって、進もうとすると竿がむっちゃ長くなる。苦肉の策として岸にロープを繋ぎ、竿で押し出した後は小さなオールで漕いで進むというよくわからん運用になった。その後は漂流状態なので、戻るときは必死で漕ぐかロープを手繰り寄せるかになるわけだが……それはまあいい。
「ミーチャ〜♪」
ゲミュートリッヒの外壁上からガールズが手を振っているが、あまり振り返す元気がない。朝から始めて昼を回ったというのに、完全な釣果ゼロなのだ。
魚を得ることが目的ではないとはいえ、心情的にはけっこうキツい。リラクゼーションのために始めた釣りで、ストレスしか得られてない。
俺は釣りに詳しいわけでも、経験豊富なわけでもない素人だ。道具も適当に作った(船を押し出すのと同じ)竿に、戦地慰問品のサバイバルキットから引っ張り出した糸と針を結んだだけのもの。ヘイゼルは、“こちらに釣りの習慣がないなら、魚がスレてないから大丈夫”なんて言ってたけど。
ぜんぜん大丈夫じゃない。
「……いや、めっちゃスレてんだろ」
そもそも、こっちの魚って野生の本能がエグい。船の影やら竿やらに対する反応がキレすぎてる。水が澄んでて底まで見渡せるのも、いまは裏目に出ている気がする。なんか一挙手一投足を魚に見られてる感じ。早くエサ寄越せよバーカ、みたいな。これは俺の被害妄想か。
釣り餌は畑で捕まえてきた、ぷりぷりのミミズ。小さなバケツに半分ほど入っていたそれが、いまはもう底を突きかけている。
ちなみに、最初はキットに付属してた毛針も試したけど、魚たちから小馬鹿にしたような態度でスルーされた。腹立つことに、ただ無視するのではなくスイーッと直前まで喰いそうな顔して泳いできて、俺が糸を引くより前にターンするのだ。
“喰おうかな喰おうかなー、ハイやめたーざんねーんプププ♪”みたいな。
これが地味にイラッとくる。あいつら絶対、わざとやってる。俺を煽って、馬鹿にしてる。魚類のくせに。
「ぐぬぬぅ……」
というわけで餌に切り替えたら、今度は水に入れるたびヒョイヒョイと喰われて針には一匹も掛からない。
これは竿が木の棒だから細かい合わせができないのだと言い訳したいところだが、それも俺がこの地の魚を甘く見た結果だ。
正直いうと、“手榴弾による気絶漁ではダメなのですか?”というヘイゼルの提案を、拒絶したのは失敗だったと思い始めてる。“チョロいエサ供給マシーンがきやがったぜ”的なあの魚どもを、派手な爆破で一網打尽にしてやりたい。
「……いかんいかん。また目的を見失っている。スローライフスローライフ」
俺は何万回目かの深呼吸をして、なんとか落ち着きを取り戻す。ブラック業界の社畜にスローライフは永遠に無理なんじゃないかと思わんでもないが、それを認めるわけにはいかない。
せめてリラックスした一日を過ごしたという充実感だけでも欲しい、などと考えて船底に横たわる。
空は晴れ渡り、風も今日は心地よい程度の穏やかさで、絶好の釣り日和&船遊び日和だ。幸せなスローライフを送っているのだと……思い込もうとしていた。必死で。ダメ、俺やっぱこういうの向いてないし。成果のない過程に意味を見出せないし。報酬のない労働なんてまっぴらだし。無為な行為に喜びを感じるなんてあり得ないし。
水面近くを泳いでいた大きな跳躍鰱が、ゆらーりと船べりまで寄ってくる。もう餌も糸も垂らしていないので、俺は穏やかな気持ちになって美しい銀鱗の輝きを愛でて……
水を噴き掛けられた。
「てめええええぇ! ふざけんじゃねえぞボケが魚類の分際で人間様に何してくれてんだゴラァッ!」
ショルダーホルスターからブローニング・ハイパワーを抜いて、水面に全弾を叩き込む。派手に水飛沫を跳ね上げただけで、魚には何のダメージも与えられない。鼻で笑うようにスイスイと旋回しながら、巨大タナゴは深みに潜って行った。
ああ、知ってた。拳銃弾なんて水中に一メートルも潜れば届かないって、わかってた。わかってて、わざと撃った。ホント。キレてないし、泣いてない。
「ミーチャさん、大丈夫ですか?」
銃声を聞きつけて水際までやってきたヘイゼルを振り返って、俺は餌バケツの残りを水面にバラ撒く。魚どもはここぞとばかりに大喜びでバシャバシャと群れ飛び貪り食う。
「俺は、釣りに向いてないな。ここの魚に、ずっと餌を提供しただけだ」
「ええ。餌も、虐められ役も、ですね」
小舟のロープを手繰り寄せながら、英国的メイドは笑った。




