農害の価値
なんか想像以上に不穏な言葉が聞こえたが。主に自動翻訳として。
「なにがレインボー?」
「エージェント・オレンジという名前を聞いたことはありませんか」
やっぱり。枯葉剤だ。アメリカ軍がベトナム戦争で使った。組成によってバリエーションがある。そのコードネームが、目の前のラベルに彩られた色彩だ。緑、青、紫、ピンク、白、そしてオレンジ。
「イギリスも関与してたのか?」
「はい。五十年代のマラヤ危機で英国軍が使用しています」
当時英国領だったマレー半島で、マラヤ共産党の軍事組織、マレー民族解放軍によって行われた反英独立運動。要するに共産ゲリラによる武力闘争だ。結果はゲリラ側の敗北だったはず。
「英国軍の“化学防衛実験機関”か、“防衛化学・生物・放射線・核センター”から廃棄されたものでしょう。当然ながら、廃棄前には無毒化されています」
「……そう、なのか?」
「向こうの世界では、ですが」
「おい!」
「ミーチャさんに拒否反応があることは、理解しています。ですが、このカプセルに充填された薬剤は数グラム。ただのサンプルです。追加入手はできませんし、新規作成もできません。する気もありませんが」
人的・環境的な実害を発生させるには、あまりにも少ない。が、この薬剤の意味は、わかる奴にはわかるはずだと。
「枯葉剤を使うのは、脅しのためだけか?」
ヘイゼルはわずかに顔をしかめる。俺が見据えると、彼女は溜め息を吐いて、肩の力を抜く。
「正直なところ、個人としてのタリオは、即座に冥府へと送るべきだと思うのですが。農業技術者としての彼は。無為に消して良い存在ではありません」
「それは……そうかもな」
「……非常に遺憾ながら、為政者としての奴もです」
いくら嫌いでも生かしておくだけの価値があるとしたら。ヘイゼルも、それを受け入れるくらいの度量はあるのだ。
ある、はず。ええと……ある、よな?
「あれでも、“農の里”のトップだからな。でも意外だな、そんなにタリオを買ってるとは」
「買っているというのとは、少し違うかもしれませんが……アイルヘルンの政情には、当初から違和感があったのです」
「ん?」
「ミーチャさん、この国は富の偏在が、驚くほど少ないとは思いませんでしたか。王国との差異は当然として、元いた世界と比較してもです」
言われてみれば、そうか。俺もアイルヘルンの最初の街であるゲミュートリッヒで感じた。いますぐ死にそうな程には困ってなさそうというか、最低限の文化的生活は維持できてる印象。辺境の最前線である寒村でもそれなのだ。アイルヘルン中央ともなれば、さらに顕著……なのだろう。不景気とは言っても日本以外の価値基準を知らず、経済への知識も関心もない俺は“そういうものか”と流してしまっていたが。
「さほど土地が肥沃なわけでも、資源が豊かなわけでもない。もちろん経済基盤が確かなわけもなく、社会基盤などそもそも存在しないに近い。であれば本来サーエルバンほどの街には奴隷がいて、スラムがあってもおかしくはないはずなのです」
それなのにロンドンよりクリーン……とかブツブツ言うてますが、そこは知らんし。
「それはなぜか。食うに困らないだけの食糧生産が行われ、しかも流通されているからです」
「売り渋りしてない?」
「いいえ。ですが、商人レベルでしょうね。サーベイさんの情報で以前、聞いたように。値動きはあっても市場にも市民生活にも表立った混乱は起きていません。つまり」
ヘイゼルが紙片に数字を書き込む。彼女が得た情報から、大まかに試算したものらしいけれども。食糧の需要に対する供給が、最大で二百四十%、平均でも百六十%近い。
「多少の流通阻害が表面化しないほど、出荷量が多いのです。元いた世界に置き換えれば、異常と言っても良いほどにです」
元いた世界の先進国のように、廃棄前提で回っている飽食状態ならまだしも。狩猟採集に毛が生えたような文明レベルでこれは……異常、なのだろうな。
未開社会の多々ある問題を、農業的物量の力技で押し切った。それは紛れもなくタリオの功績だと、嫌そうな顔をしつつもヘイゼルは言う。
「であれば。犬には上下関係を叩き込むだけで抑えてやるのが、文明人の器量というものです」




