暗雲の袂
大丈夫だ問題ない。進路にどれだけ暗雲が垂れ込めていようと。それはただ雨が降るだけのことだ。
「降雨環境を想定した車輌とはいえ、過信は禁物ですよ?」
平静を装う俺の顔を見て、ヘイゼルが冷静に伝えてきた。
「途中に難所でも?」
「南下ルートで、いくつか山深いところを通過します。そこで雨に降られると亀の子状態の不安がありますね」
エルヴァラ行きのルートは、途中までサーエルバンに向かうときと同じ東向きの山道だ。大きな車輌で走るには狭かったり路肩が脆かったりと気を遣うポイントもあるが、何度か通っていることもあってペース配分もわかってる。ランドローバー・ウルフはモーリスC8よりもずっと軽くて小さいので気分的にも楽だ。エンジンも高出力な上にトルクのあるディーゼルエンジンなので疲労感も少ない、気がする。
特に問題もなく、雨にも降られずに山道を抜けて、俺たちは平地に降りる。サーエルバンまでは北に三、四十キロのところだ。そこでサーエルバンに行くときとは逆に南へと折れるわけだ。
「おい……」
山間部を走っている間は、南東方向の見通しが悪かったため見えていなかったのだが。進む先に広がる暗雲はずっと大きく、そして濃くなっていた。おそらく一部は既に崩れている。俺の視力ではグレーの揺らぎにしか見えんけど、雨を落とし始めているんだろう。
「サーエルバンで一泊する手もありますが」
「そうするか……」
急ぐ旅じゃないし。ゲミュートリッヒで用意に二日を費やしたので、会食予定は四日後だ。エルヴァラまでは三百六十キロ。なんぼなんでも、四日あればどうにかなんだろ。わざわざ雨雲に目掛けて突っ込んでく理由はない。というよりも、行く先が舗装されてるわけでもない山道となれば無謀を通り越して自殺行為だ。
「ミーチャさん」
サーエルバンへハンドルを切ろうとした俺に、ヘイゼルが声を掛けてきた。
「誰か来ますね」
彼女は南に向かうルートの先を見据えている。道の先は、ずっと茂みと灌木が点在する平地。俺には何も見えん。“誰か”というからには、魔物ではなく人間か亜人。その声に緊張感はないので、敵というわけではなさそうだ。
南行きのルートは、そのまま進めば鉱山都市マカに着く。俺たちの知り合いの可能性もあるので、サーエルバンに向かうのは延期することにした。
「その誰かは、助けが必要か?」
「はい。いま……動かなくなりました」
「おい待て!」
ドアを開けて飛び出そうとしたヘイゼルを慌てて止め、ハンドルを南に切る。気付けば風が出始めていた。強弱をつけて吹き付けてくる風に水滴が混じっている。なんだか台風の前みたいだ。
「その先です。左に並んだ木の陰に、ふたり。獣人のようですね」
「わかった」
車を停めると、ヘイゼルが降りて走ってゆく。車を出せるように運転席で待機するか、外に出て周囲を警戒すべきか迷っているうちに、ツインテメイドは濡れ雑巾の塊みたいなのを抱えて戻ってきた。
「すみません、ミーチャさん後ろを開けてもらえますか」
「おう」
ランドローバーのリアゲートを開け、必要なものは何でも調達してくれと伝える。
「ありがとうございます。とりあえずは、あるもので対処可能ですね」
ヘイゼルは後部座席にふたりを横たえ、タオルで拭き始めた。ペッタリしていた毛がフカフカしてくると、子犬っぽい獣人なのだとわかる。サイズは人間の小学生くらい。こんなところでウロウロしているにしちゃ、ずいぶんと小さい。
「怪我は?」
「ありません。疲労、低体温症、それと栄養失調ですね」
俺は運転席に戻って、ヒーターの出力を上げる。
ウルフの前席と後部座席とは桁状の補強材で仕切られてはいるが、構造としては素通しだ。要はオープンカーに樹脂製の屋根を載せただけ。フル暖房で車内は暖かくはなってきたものの、毛布に包まれたふたりの獣人たちが目を覚ます様子はない。
「魔物か人間か自然災害か知らんけど、何か困ってんなら手を貸すくらいはするぞ」
「ありがとうございます。ですが、彼らの記憶が混乱で把握しきれません」
ゴーッと、南の方で大きな音がした。何なのかはわからん。俺には魔物の吠える声にも聞こえるし、鉄砲水が押し寄せた音と言われれば、そうかなとも思う。
「おかしいですね」
「どうした。この先で何が起きてるのか、わかるのか?」
わかるからこその疑問のようだ。ヘイゼルは頷いて、俺の顔を見た。
「暴れているのは、水龍のようです」




