鋼の雨
応接室は、静まり返っていた。アイルヘルンの領主及び代行が三人も顔を揃えていながら、その場を回せる役者はいない。状況を把握し切れている者さえ――俺も含めて――いないのだ。
主役の座は、ヘイゼルが完全に乗っ取っていた。
「カーサエルデの民を手に掛けて、ただで済むと、でも……」
「逆にお訊きしますが。ただで済むと、本気で思っていたのですか? 百を超える武装した兵を、他領に差し向けておいて?」
「……戦争になるぞ」
殺意を剥き出しに睨み付けてくる人狼の長を前に、ヘイゼルは腕を組んだまま静かに吐息を漏らす。
「それが望みだったのでしょう?」
「カーサエルデの精鋭が百四十だ。お前らになど、止められるものか」
「呑気なものですね。たかが百四十で戦争? そんなことにはなりませんよ。なるわけがない」
「ふざけんじゃねえ! 俺たちが舐められたまま引っ込むとでも思ってんなら、大間違いだ!」
「ですから、言っているのですよ。戦争なんてものにはならないと」
彼女の言った意味を、この脳筋は理解していない。黒衣のメイドは断言したのだ。
お前たちは愚かにも、自ら兵を挙げた。その結果として、破滅を呼んだのだと。
立ち上がり掛けたマハラは、ヘイゼルの目を見て動きを止めた。彼女は微動だにしない。銃も抜かず、表情さえ変えない。視線の向く先は、マハラが握りしめる魔珠。
「あれは、ただの虐殺です」
応接室にいる全員が、それで事態を把握した。カーサエルデとサーエルバン――少なくともゲミュートリッヒとの間では――既に戦端が開かれた。そして、マハラ側の一方的な敗北で終わった。
「個人の武勇で全てが決まるならば、誰が国など建てるのですか?」
「武勇を笑うのは、それを持たねえ弱者の戯言だ。お前たちは、すぐに思い知る」
腕を組んだまま、ヘイゼルは小さく肩を竦めた。話の通じない相手とは、会話を諦めたとでも言うように。
「どのみち結果は同じです。あなた方に、国は持てない。その器ではない。あなたが御せるのは、せいぜい“統率群”止まり。“国体”どころか“領域”ですらない。“部隊”や“集団”にも満たない。ただ吠え騒ぎ、餌を求めて迷い歩くだけの」
静かな圧が、その場に満ちる。
「愚かなケダモノの群れです」
「……ふッ」
笑みを浮かべたマハラが頭を下げたかと思うと、三メートルほどの距離を一瞬で詰めてきた。その速度に反応できたものは人狼護衛三人だけ。サーベイさんを守ろうと覆い被さった彼らを一顧だにせず、カーサエルデの領主は一直進に向かった先はこの場で最強の相手。
懐から銃を抜き掛けた俺は、身構えたまま固まる。俺の腕では射界が取れない。仕留めることが出来たとしても、流れ弾がサーベイさんやエインケル翁に向かう。
「くたばれッ、化け物が!」
逆袈裟に振り抜かれた爪を、ヘイゼルは小首を傾げただけで躱した。流れた姿勢を強引に切り返して、人狼領主の左拳がツインテメイドに叩き込まれる。メキャッと、骨が砕けるような音。
「ヘイゼル!」
呻き声と共に飛び退ったマハラの拳に、ひどく細身の短剣が突き立てられていた。フルスイングのパンチを、真っ向から貫いたのだろう。刃渡り十五センチほどはある両刃の刀身が、拳頭から下腕部まで半ば以上も刺さっている。
素早く後退するマハラに合わせ、ヘイゼルは音もなく追い縋る。無防備なまま接近する黒衣のメイドに、屈強な人狼が驚愕の、次いで恐怖の表情を浮かべた。
武器を持たない手が伸ばされ、ヘイゼルはマハラの額に指を当てる。情報を読み取るためなのだろうが、脳筋人狼はそれを侮辱と受け取った。
「てッ、め」
横薙ぎに振り払おうと無事な右腕を上げたマハラが、息を呑んで固まる。気付けば無防備な脇腹に、もう一本の短剣が突き刺さっていた。左胸の、腋下動脈を断ち切る位置にも。左脇を後方へと、脾臓を抉る位置にもだ。
「これ、は……ッ⁉︎」
「“フェアバーン・サイクス”。あなたを屠る、英国製の短剣の名です」
どんな情報を読み取ったやら、英国式悪夢の使者は急に苛烈な攻撃を加え始めた。
「あ、あああ! くッそがァ!」
吠えながら暴れるマハラだが、その腕は虚しく空を切る。喉を掻き切ろうと振り回す爪も、突き放そうと伸ばされる腕も。距離感がおかしいのに気付いて、見ればもう一本が片眼を刺し貫いていた。
身を捩って逃れようとするたび、マハラの腹や胸に生えた短剣が一本ずつ増えてゆく。
「ひとが爪を持たないと、いつまで勘違いしていました?」
ずぶり。
「ぐうぅッ」
「ひとが牙を剥かないと、いつまで誤解していました?」
すぶり。
「がああぁッ⁉︎」
瞬く間に十数本の短剣を突き込まれて、マハラは喘ぐ。意外なことに、出血はさほどない。鍛え上げられた獣人の身体能力なのか、英国式殺傷術によるものなのかはわからない。
それでもマハラの顔は、目に見えて青褪め始めていた。
「うるさく吠えるあなたを、なぜ皆が咎めなかったか、わかりますか。あなたの力を怖れたからでも、その有り様を認めたからでもない。知っていたからですよ」
「……は、はぁッ」
「能無しの愚物ほど騒ぐものだと」
目に憎しみと殺意だけは残っていたが、人狼の長は息を喘がせ、床に片膝をつく。
「わら、わせる。カーサエルデは、敗けねえ。……何があっても、滅びたり、……しねえ」
マハラは呪詛のように、自領の未来を予言する。おそらく負け惜しみではなく、彼の本心だ。
「俺が倒れたところで、次の群れの長が、……必ず」
「アカハ、カヌラ、エミエラ、コハバ、ヌイデテラ」
ヘイゼルは静かな声で、人名らしきものを並べた。俯いていたマハラが息を呑み、濁った目が英国製の死神を見上げる。だが背中は丸まり、身を起こす力も残っていない。
蹲る彼の前に、四つの魔珠が落とされる。魔珠は魔力保有量に比例するというが、最初のひとつとほぼ同じサイズだった。
「次期後継者候補の五名は死にました。彼らに続く者はない。あなたが、カーサエルデ最後のアルファです」
「そんな、はず、が……」
そのまま力なく平伏すと、マハラは溜め息を吐いて動かなくなった。




