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Canopus  作者: 水野葵
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第1章 少年フィリップ(3)

 ペシュールおじさんにお弁当を渡したあと ―――「おお、フィル、いつもすまないね」と、おじさん。「どれ、お礼にひと切れどうかね? 女房の焼くパイはいつも絶妙なんだ!」――― フィリップは町に戻り、屋台で揚げたグルクンと干しぶどうを買って食べた。それからパン屋に立ち寄り ―――「ああ、フィル、ちょうどいいところに!」と、パン屋の奥さん。「山羊(やぎ)飼いのロビンを呼んできておくれ。この忙しいってときにチーズが切れちまってさ!」――― ゴーフルをひとつもらうと、町の北西に広がる森へ向かった。森で山羊飼いの少年に会い、パン屋の奥さんの用向きを伝えると、山羊飼いが戻るまでヤギの番をした。夕方、山羊飼いが戻ると ―――「ごめん、フィル、遅くなった!」と、山羊飼い。「帰りにマリーに会ってさ、つい話し込んじゃって……」――― フィリップは町長夫妻の家に急いだが、門をたたくころにはもうとっぷりと日が暮れていた。夫妻は口々に「遅い!」と文句を言ったが、フィリップはかまわずごちそうを ――― 小麦のパン、カサゴとトマトのスープ、ニシンの燻製(くんせい)(とり)の網焼き、揚げたいも、ゆでたいも、にんじん、そら豆、えんどう豆、そして酢漬けのたまねぎとキャベツを次々おなかに詰め込んだ。最後にはちみつのパイをたいらげると、フィリップは「泊まっていきなさい」と引き止める夫妻を振り切って家を出た。


 月が東の空高く昇るころ、フィリップはようやく小屋に戻ることができた。そのままベッドに倒れ込む。朝から続く胸騒ぎはますますひどくなっていた。フィリップは理由を考えたが、思い当たることは何もなかった。いつも通り町は活気にあふれていたし、海の風も波も至って穏やかだった。それなのにどうして、こんなにも胸がざわざわするのだろう?

 フィリップはしばらく天井を見つめていたが、やがて大きく息を吐くとベッドから立ち上がった。(わら)の詰まった枕をひっくり返し、転がり落ちた横笛を拾うと、小屋を出て裏山に向かった。


 緩やかな坂道を登っていくと三叉路(さんさろ)に突き当たる。そこを左に曲がり、木々の生い茂る山道を抜けると切り立った崖の上に出る。それはたいそう見晴らしのよい崖で、左にはアケルナルの町とその東を流れるエリダヌス川を、右には隣町の(あか)りを小さく見ることができた。足下に広がる深い森は沖へと続き、水平線の手前で月の浮かぶ海に替わっていた。見上げる空は薄くけぶり、たくさんの星が淡く瞬いている。この壮大な景色を望む崖はフィリップのとっておきだった。

 フィリップはイタジイの根元に腰掛けると横笛を吹き始めた。高く澄んだ笛の音が夜空に響く。フィリップの持つ横笛は変わったつくりをしていて、町の住人は誰も吹くことができなかった。フィリップには川で拾われる以前の記憶がない。けれど、この横笛の ――― まだ幼い自分が握りしめていた笛の吹き方だけはよく(おぼ)えていた。そのためだろうか、横笛を吹くと本当の家族に通じるような気持ちがして、フィリップの心はひどく落ち着くのだった。


 突然、ざわり、と空気が揺れた。背中に冷たいものが走る。驚いたフィリップが顔を上げると、そこには赤い火の玉がひとつ、ゆらりゆらりと宙に浮かんでいた。イタチのいたずらだろうか? フィリップはじっと目を凝らした。すると、ひときわ赤い虹彩(こうさい)と細く切れた瞳孔が見えた。それは大きな目玉だった。目玉は透き通った黒い手のひらについていた。胴体(からだ)は見当たらず、ただ太い腕だけが崖の下へと続いている。そして、月明かりに鋭い爪を輝かせながら、()()はゆっくりと夜空を漂っていた。化け物だ、とフィリップは息を()んだ。逃げなければ……!

 フィリップはイタジイの根元からそうっと立ち上がった。化け物の様子をうかがいながらそろそろと歩く。フィリップの姿は見えているはずなのに、化け物はゆらゆらと宙に浮いたままだ。襲うつもりがないのだろうか? フィリップが安心しかけたそのときだった。化け物の動きがぴたりと止まった。びりびりと空気が震え、ぎらりと目が輝き、五本の指が大きく開く。長い腕を風にひるがえすと、化け物は猛然とフィリップに襲いかかった。フィリップはとっさに右に跳んでかわすと ――― 化け物はそのまま地面に突っ込んだ。大きな音を立てて地面がえぐれる ――― 山道に逃げ込もうと走り出した。ところが、同じ化け物がもう一匹、フィリップの行く手を阻むように木々の間から姿を現した。囲まれた、と思う間もなく化け物が襲いかかる。フィリップは後ろに跳んでよけると、化け物の太い腕をかいくぐり、再び山道に逃げ込もうとした。しかし、はじめの一匹に邪魔をされ、フィリップはまた大きく後ろに退いた。どうしたらいい? どうしたら逃げられる? 次々に襲いかかる化け物をかろうじてかわしながら、フィリップは懸命に考えた。だが、何も思い付かない。()(すべ)もなくじりじりと崖際に追い込まれていく……。

 しまった、と思ったときにはすでに遅かった。ぐらりと視界が揺れる。足を踏み外したフィリップは、真っ逆さまに崖の下へと落ちていった ―――――。

【用語解説】

 フィル:フィリップの愛称。

 グルクン:タカサゴ。タカサゴ科の海水魚。

 ゴーフル:小麦粉を水で溶いて焼いた菓子。ワッフル。

 イタジイ:スダジイ。ブナ科の常緑広葉樹。

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― 新着の感想 ―
フィリップの日常描写が丁寧で、登場人物たちとのふれあいを通じて彼の人柄や町の温かみがよく伝わってきました。平和な日常の中にある“胸騒ぎ”が物語の後半で見事に現実となり、緩やかだった流れが一気に緊張感へ…
[良い点] まるで名作の海外ファンタジーを読んでる気になる。 明らかにWeb小説向きじゃないからこそ私は好きだなー。 もっと評価されて良い。
2020/06/27 00:13 退会済み
管理
[良い点] 描写力がすさまじいです。特にフィリップさんのアクションシーンは目の裏に情景が浮かんでくるようでしたっ! 沖縄風(?)の魚がたくさん出てくるのもツボでした✨ [一言] 張ってある伏線のおかげ…
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