第3章 北へ(3)
あれから何度古いピンを回しただろう。カチカチカチと音が鳴るたびに、目の前を景色が通り過ぎていった。ゆらめく水面、生い茂る葦、壊れた水車、白い流木、打ち捨てられたいさり舟……。
西の空が朱く染まるころ ――― フィリップは心の中で首をひねった。どうしてだろう、夜の訪れがいつもよりずっと早かった ――― ようやっとアリアが重い口を開いた。
「今日はここまでにしよう」
流れていく景色に飽き飽きしていたフィリップは、その言葉を聞き終える前に大喜びで両手を離し、額に汗を浮かべていたレグルスは、さび色の眉を寄せて「しかし」とアリアを見た。
「すでに予定を押しています。このままではナズナさんに ―――」
「無理をしているだろう」
きっぱりとした口調でアリアが言った。
「明日も長い。下手に無理を続けることはないぞ」
「ですが……」
レグルスはぼりぼりと頬をかいた。ならば、とエリダヌス川に目を向ける。
「せめて川を渡らせてください。しばらく歩けばナオスです。そこでなら ―――」
なんだって? フィリップはびっくりしてレグルスを見上げた。
「ナオスって国の真ん中にある町でしょう?」
フィリップの育ったアケルナルは南の端にある。国の中央へはどんなに速く歩いても二週間はかかるはずだ。それをたった半日で移動したというのだろうか? フィリップがあっけに取られていると、レグルスは目尻にしわを寄せて
「まだ“真ん中”ではありませんよ」と、言った。「真ん中はラナですね。予定ではそちらで宿を取ることになっていたのですが ―――」
人数が、と続く言葉は耳に届かなかった。フィリップはアリアを振り返ると
「なんで教えてくれなかったの?」と、叫んだ。「移動には魔道具を使うって! 王都に着くまで三日とかからないって!」
ポケットから魔法の小箱を取り出していたアリアは
「行動を共にすればわかることだからな」
と、答えた。教えるまでもない、と続ける。フィリップはすっかり腹を立てた。なんて言い草だろう!
「やはり長旅を覚悟されていたのですね?」
フィリップをなだめるようにレグルスが言った。ちらとアリアを見る。
「ご不安な思いをさせて申し訳ありません。ですが、こちらのピンは特別に貴重な品でしてね。気安く話をすることはためらわれるのですよ」
お許しくださいね、とほほ笑むレグルスにフィリップは首をかしげた。
「どうして ―――?」
「面倒を避けるためだよ」
奇妙に低い声でアリアが答えた。小箱を開け ――― 気のせいだろうか、ほんの一瞬、右手がぼうっと輝いて見えた ――― 古いランタンを呼び出す。レグルスは眉尻を下げると
「悪党の耳に話が入ると厄介でしょう?」と、続けた。「用心するに越したことはないのですよ。どこで誰が聞いているかわかりませんからね」
フィリップは納得し切れずに頬を膨らませたが、アリアが舌を鳴らすと ――― ランタンがひとりでに灯ると、すぐにそちらに気を取られた。
「あれも魔道具? どうやって灯りをつけたの?」
わくわくしながらフィリップが尋ねると、レグルスは丸い目を細くして
「鳴き真似ですよ」と、答えた。「ろうそくの芯に火の鳥の羽根が使われていましてね。鳥の鳴き声を真似ることで、灯りをつけたり消したりできるのですよ」
フィリップは「そうなんだ」とランタンを見た。なるほど、魔道具にもさまざまあるらしい。おもしろいことだな、と感心するフィリップを後目に、至って冷めた表情でアリアが言った。
「……行くぞ」
そして、一行は宿を求めて夕闇の迫る中を歩き始めた。
【用語解説】
火の鳥:炎を操る魔獣。不死鳥。




