第8話「グルナの恋」
良い夫婦の日ですが長い長い旦那様視点です
後半R15注意
グルナ=オラージュは大の人間嫌いだ。
だから両親が人間の奴隷を格安で買い叩き、連れてきてこれを嫁にしろと言ってきたときは、とても腹立たしかった。
魔族領の中でも由緒あるオラージュ侯爵家としては跡継ぎ問題は深刻であり、早急に解決すべき案件ではあったものの、彼自身は大いに荒れてしまった。
その余波として、後日出陣した戦では鬼神が如く戦場を駆け抜け、瞬く間に大将首を討ち取るなど、暴挙という名の快挙を成し遂げた。
戦が終わって帰省すると、朝日が差し込む食卓で、可愛らしく姿を整えさせられた奴隷妻がパンとミルクを頬張るところに遭遇した。
たかだかパンとミルク、だ。貴族の朝食にしては素朴に過ぎる組み合わせで、よく見てみれば両親も同じものを食べている。
こんなに美味しいものは初めて食べたと言わんばかりに、奴隷妻は幸せそうに口に運んでいた。
グルナはその光景にしばらく魅入ってしまい、食堂に入るのが少し遅れた。
しかし改めて人間だと認識すると、やはり嫌悪感は拭えない。
湧いて出た怒りに任せて奴隷妻を掴みあげ恫喝すると、簡単に気を失った。
人間は弱い。弱いくせに、すぐ出しゃばる。腹立たしい。
部屋へと運ばれていく奴隷妻を見ながら、やはり人間は嫌いだと再認識した。
それでも何故だか気になって、後から奴隷妻の部屋を訪れた。
深く眠る彼女は、穏やかだった。ささくれだった心が不思議と落ち着いていく。
しかし、このまま見ていたい気持ちと、起きてほしいと思う気持ちが、混ざり混ざって気持ち悪い。
部屋から出て行かずそのまま眺めていれば、やがて目を覚ました。
起きるなり自分を見て短い悲鳴を上げる。
怯えながらごめんなさいと繰り返す奴隷妻に嫌気が差して、口を押さえて黙らせた。
見苦しい。この人間が謝る姿は、とても見苦しい。
奴隷妻が絵を描いていると、風の噂で聞いた。
────気になる。見たい。
部屋へと赴いて絵を見せるよう言うと、奴隷妻は顔を真っ青にさせて部屋から逃げ出してしまった。
慌てて追いかけると、悲鳴を上げて更に逃げる。
そのことにグルナはショックを受けたのだが、本人は気が付いていない。
追いつくことはできたものの、奴隷妻はメイドに縋り付きながら再び拒絶する。彼は二度目となる無自覚のショックを受けた。
グルナは自分でもよく分からない苛立ちに声を荒らげて、メイドから奴隷妻を奪い取ると、部屋へと戻った。
観念した彼女が絵を見せる。箱の中から、見たことのない花の絵ばかりが出てきた。
絵の内容なんてどうでも良かった。彼女が描いた絵を見られた、それだけで満足した。
しかし満足したのも束の間、彼女を見て固まる。
────泣いていた。
ボロボロと泣く彼女は、あろうことか命乞いをしてきた。殺すつもりなんて、これっぽっちも無いのに。
会った初日に「変なことをしたら殺す」と言ったことを、グルナはすっかり忘れていた。ゆえに、彼女の命乞いを理解できない。
泣かれるのは嫌だ。泣き止ませたい。それだけが頭を占める。
流れていく雫に、咄嗟に出たのは手ではなく舌だった。塩気のあるそれが彼女のものだと思うと、不思議なことに甘いとも錯覚してもう一度舐め上げた。
奴隷妻は驚いて、泣くのを止めた。ひとまず安心して、殺されたくなければ描いた絵を一番に自分に見せろと命じた。
────そして、彼女は嬉しそうに笑ったのだ。
グルナにとって、それは頭を強く殴られたような衝撃だった。
かつて朝の食卓で魅入ったそれをもう一度目の当たりにして、気が付けば奴隷妻の口に噛み付いていた。
貪るように、口付ける。何度も繰り返して、彼女の息が上がる。その吐息が甘美で、ますます止められない。
ようやく口を離してもう一度確認するように命じると、ぼんやりとした顔でコクリと頷いた。
それにまた噛み付きたくなったが我慢した。
奴隷妻は命令通り、描いた絵を一番にグルナに見せた。
どうでも良かったが、どこの花だと気紛れに訊いた。
南に咲く花だと答えられ、彼女の故郷もそこなのだと知る。
帰りたいかと訊けば、帰っても怒られるだろうと言う。誰にと訊けば、口を噤む。
途端に嫌な気分になり、どうせここからは死ぬまで出さないと言ってやると、奴隷妻はどこかほっとした顔になった。
グルナは自分で言っておきながら、彼女が死ぬことを考えたそのとき、どうしようもない胸の苦しさを覚えた。
奴隷妻が、熱を出して寝込んだ。
魔族と身体のつくりが違うため、普通の医者では役に立たない。
人間に詳しいという女の医者を呼び寄せて、診察させた。
苦しそうに咳をする彼女を見て、自分が昔に風邪を引いた時は飴を舐めていたことを思い出し、街に買いに出かけた。
戻ってきて早速口に入れてやると、またあの幸せそうな顔をした。甘いもの好きな彼女に、甘い飴はやはり効果的だったようだ。
その際、彼女の口の隙間からこぼれ落ちた「すき」の言葉に、思わず動揺してしまった。
────すき。好き?
何故だか引っかかる言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
寝込む奴隷妻の顔を見つめているうちに、やがてそれはストンと胸に落ちて、綺麗に型に嵌った。
────俺は、こいつが、好き。
握っていた手に力が入った。
風邪から回復した彼女を連れ出して、魔王城へと赴く。
想いを自覚した今、上司であり憧れの魔族である彼に、自分の妻を紹介しなければと思ったのだ。
そうして謁見した玉座の間で、全身包帯だらけの堕ち人を見た。
隣で妻がじっと堕ち人を見つめているのに、グルナは気が付いていた。やはり同じ人間同士だから気になるのだろうかと思いつつ、魔王と話をしていた。
魔王は堕ち人レスを不良品と評した。妻が隣で震えたのを感じる。グルナは不良品を傍に置いている意味を理解できずに、正直に問うた。
魔王は答えに窮した様子だった。自分でもよく分からない様子に、まさかとあらぬ予想を立てそうになったそのとき。
────レスが妻との対話を望んだのだった。
「初めてだ」
「何がですか?」
「レスが俺に望みを言うのは、初めてだ」
「不良品なりに身を弁えていたんじゃないですか?」
「そう、なのだろうか」
魔王の言っていることは、どこかおかしい。
物のように扱っているにしては、望みを言わないなどと不服そうに言う。
「いいんですか、二人きりにして」
「レスが、二人が好いと言ったからな」
易々と不良品の望みを叶える魔王に呆れる。
しかしながら、グルナ自身も妻がどこか嬉しそうにレスと一緒に部屋へ入っていくのを見て、少なからず喜んでいた。
妻の幸せそうな顔を見るのは好きだ。あまり邪魔はしたくない。
そう時間をかけず、レスと妻は茶会を終えて部屋から出てきた。
帰り際、妻はレスの方を何度も振り返って、小さく手を振っていた。
妻の手を握りながら、ずっと考えていた。
どうすれば妻に近付けるだろうか。
どうすれば彼女の幸せな顔を、もっと見ることができるのだろうか。
そうしているうちにふと、あることに気が付いてしまった。
────妻の名前を知らない。
隣に座る、彼女の名前を、いまだ知らない。
そのことに内心でひどく狼狽した後、更に気が付く。
────彼女に名前を呼ばれたことがない。
ひとりで勝手に大きくダメージを受ける。会ってから一度も名乗っていないのだから、当たり前だと言うのに。
彼女のことだ、知ろうと思ったことも無いのかもしれない。人間のいない魔族だらけの場所で、彼女は常に怯えている。
念の為に問うてみれば案の定、妻は夫の名前を知らなかった。それどころか身体をカタカタと震わせて「ごめんなさい」と謝り出す始末だ。
自分はなんて惨めなんだろう。謝る妻を怒るなんてことはできなかった。
改めて名乗り、妻の名前を訊いた。返ってきた「ラシーヌ」というその名に、根っこという意味があるのを思い出す。
確か、蔑称だったはずだ。そんな名前を付けた顔も知らない彼女の親に殺意が湧く。
彼女を置いて殺しに行くわけにもいかず、仕方なく「ラシーヌ=オラージュ」と呼んだ。
根っこのラシーヌではない。オラージュ家の、グルナの妻であるラシーヌなのだという意味を込めて。
言葉を解したラシーヌが、顔を真っ赤に染め上げた。
抱き寄せて名前を呼ぶと、心が満たされる。お前も呼べと乞い、つたない口調で妻が自分の名前を呼んだ瞬間、グルナの理性は限界を迎えたのだった。
初めは痛い。人間の女なら尚更だ。
ラシーヌを痛みで苦しめたくはない。
人間にも効く媚薬で妻をドロドロの快楽漬けにして、グルナは彼女の初めてを奪い取った。
甘く啼いて悦ぶ彼女に欲は尽きず、彼女の名前を呼び、自分の名前を呼ばせた。
────好きだ。
想いを名前に乗せて、何度も彼女を愛した。
ラシーヌは幸せそうに笑っていた。
ある日突然、血を吐いて倒れるまでは。
「旦那様、奥様は心の病です」
人間に詳しい女医者はそう言った。
「悩みを抱え続けて精神を病み、身体に支障をきたしたのです。お心当たりはありませんか」
睨むように、女医者はグルナを見つめる。
人間であるラシーヌを気に入る魔族は多い。この女医者もそのひとりで、原因の一端は夫であるグルナではないかと疑っていた。
「……分かんねぇ」
「……私の問診に、奥様は何も応えてはくれませんでした。原因が分からなければ病を治すことは不可能です」
怒りに耐えながら、女医者はラシーヌを想ってグルナに告げる。
「奥様がこれ以上ご自身を傷付けてしまう前に、必ず原因を突き止めてください。……奥様を救えるのはあなただけですよ、グルナ=オラージュ様」
眠る妻に寄り添い、その身体をそっと抱き締める。
すると眠りながらも、寝顔を綻ばせて擦り寄ってくる。
「ラシーヌ=オラージュ」
囁くように名前を呼ぶと笑みが深まった。
それを見て泣きたくなる。泣く子も黙る鬼神と呼ばれた男が、なんという体たらくだろうか。
「なあ、ラシーヌ。俺さ、まだお前に言ってないことがあったんだよ」
夢の中からでもいいから、聞いていてくれよ。
「俺、お前が好きなんだ」
この一言に全てが詰まっているのに、これだけじゃ物足りないと思ってしまう。
どうしたら、妻に想いの全てを伝えられるのだろう。
自分の知らない、妻の心を聞くことができるだろう。
助けたい、救いたい。自分に果たして、彼女の心の病を治すことができるだろうか。
今までに無い不安が苦しくて、悔しくて悲しくて、眦から何かが零れて頬を伝っていった。
「起きたらまた、言うからな。明日はちゃんと起きろよ。お前の好きなクルミパンも、絞りたてのミルクも用意してやるからさ」
おやすみ、と額にキスを贈る。
また彼女が笑ったような気がした。