はつこいは
はつこいは
かたつむり工房
一
「童貞のまま死にたくない……!」
僕は目の前に置かれた分厚い本を眺めて、心からの言葉をつぶやく。
露店のおっちゃんが付箋をつけたページを開くと、魔法陣が描かれていた。真ん中の空白には赤ペンで丸が付けられて、「ここに血を垂らす」と走り書き。
それに従って、人差し指の先を針で刺し、ぷくりと浮かんだ血をなすりつける。
それから、メモ用紙に書かれた呪文を読み上げる。
「えー、エルソルバ、ノ、ストリタスーグランデアスタルテ、コラソンエ、コラソンエルアモルビイダ!」
唱え終えた僕は、学習机の回転椅子を回して、きょろきょろと部屋を見回した。
もちろん、部屋の中は、ゴミ箱からこぼれ落ちたティッシュの位置すら変わっていなくて、乾いた笑いがおきる。
「あは、ははははは! まあそうだよな。こんなの嘘っぱちに決まってるよな!」
「へえ、なにが嘘なの?」
「そりゃあこの本――」
背後から返事が返ってきて、驚きに身体が固まる。
くるりと椅子を再び回す。
「こんばんは。私の契約者さん」
机の上に立って、身体を折るようにして彼女は僕を見下ろした。
見上げていくと、すらりとした足のラインと目の前で揺れる髪束に一瞬見とれて、我に返る。
透き通るような金髪、見惚れてしまうような碧眼、くっきりとした目鼻立ち、豊満な体、半透明で欲情を煽る衣服、そして、こめかみから生えた羊の角。
それは、紛うことなきサキュバスで、僕が喚び出した悪魔の姿だった。
「あなたは、どんな夜がお好み?」
そもそもの発端はこうだ。
あるところにモテない男子がいたとしよう。
彼には片思い相手兼唯一の女友達である幼馴染がいた。
彼女とは家が隣で、小さいころから一緒で、なんだかんだカップル扱いされたりすることも多く、同じようにモテない男子連中といても「まあ、あいつがいるし?」なんて傲慢な考えで周囲を見下していた。
しかし、その日、彼は見てしまったのだ。
彼女が同じ部活の先輩の男と二人で連れ立っているところを。
彼は「幼馴染は彼女ではない」という当たり前の事実に気づき、驕り高ぶっていた自分を好きになる女などいないことを確信し、童貞のまま死ぬ自分の身を儚んだ。
まっとうに恋愛して結婚した自分の両親が妬ましくて、家に帰る気にもならず街をぶらついていた時。
「そこの一生童貞っぽいキミ、サキュバスって知ってる?」
裏路地に開かれている怪しさ爆発の露店だったが、僕の真の姿を見抜いた慧眼に帽子を脱いで(サキュバスの言葉に惹かれたともいう)、立ち止まってしまった。
あれよあれよといううちに僕の財布は空になり、代わりに魔導書と、淫魔の召喚法だけが手に残った。
「好きにして?」
彼女とベッドに並んで座った時点でもうただならないのに、それから男子高校生が豊満な金髪女性に言われたいランキング三位の言葉を耳元でささやかれて、僕の頭はもうどうにかなりそうだった。
「ちょ、ちょっと待って!」
「なに? してほしいプレイがあるの? だったら――」
「違う違う! そうじゃなくて、聞きたいことがあるんだ!」
「してほしいプレイはないの?」
「それはあるけど! その前に!」
「なに?」
「その……僕はやったら、その後、死ぬのか?」
「んん? もしかして契約内容を知らないの?」
「そりゃまあ……」
僕の返事を聞くと、サキュバスは驚いた様子だったが、すぐに気を取り直して、説明を始める。
「コホン、えー、先に言っておくけどもう私とあなたの間に契りは交わされてしまっているので、内容を聞いても変えることはできないんだけど、いい?」
正直半分くらい「契りを交わす」という言葉のエロさに意識を持っていかれていたが、僕は頷いた。
「契約内容は、あなたの寿命四分の一と引き換えに性行為を――」
「待って」
「あ、寿命っていうところ?」
「いや、『性行為』ってところ、もっとエロい言い方で頼む」
「今あなたの寿命の話してるんだけど大丈夫!?」
「死ぬのが百二十歳から八十歳になろうが、大した違いじゃないさ」
「たぶんあなたはそこまで生きれないと思うけど……」
やったら死んでしまうとなるとさすがにいろいろやり残したことがある気がするが、老後の数十年と引き換えにこんな美女とできるなら断然お得だ!
僕は俄然やる気になって、鼻息荒く、彼女を見回した。彼女も僕の熱い視線に気づいたのか、本能的にしなを作る。
「じゃあ……する?」
透き通るような瞳で誘うように流し目を作られた僕は、我慢ならなくなって、乱暴に体を押しつける。
二人一緒にベッドの上へ倒れこんで、吐息が混じり合うような距離に、頭のてっぺんから指の先まで熱く、火照っていた。
頬に彼女の手が当てがわれて、頬から首、首から胸と、存在を刷り込むように全身を優しく撫でていく。
そこで、僕はなにか、違和感を覚えた。
彼女の手が、少しずつ下がっていって、ついには股間に達したところで、その正体に気がつく。
「あ、あれ……!?」
***
EDというものをご存じだろうか。
『Erectile Dysfunction』の頭文字をとってED、字面が少々生々しいので、和訳については割愛させてもらうことにする。
少し前に僕が達した結論はそれだった。
そうして、僕は男になることはできず、朝日差し込む部屋に、彼女はまだ存在していた。
「…………」
「…………」
夜が明ける前くらいまではまだ色々と試行錯誤をしていたのだが、カーテンの隙間から陽光がちらつくようになると、お互いに黙りこくってしまった。
ひとまず僕は服を着て、学校に行く準備を始めると、彼女が口を開いた。
「こんな屈辱初めてだわ」
振り返れば、散らかった部屋の乱れたベッドの上で、彼女は不満そうな顔をしてあぐらをかいていた。
「そんなこと言われても……」
「これはどういうことなの? 私を喚びつけておいてたたないって! 不能だったわけ!?」
「女の子がそんな生々しい言葉を口にしない」
「私は淫魔よ! 女の子じゃないわ!」
ひとしきり大きな声を出すと、彼女は、焦点の合わない瞳をゆらゆらと揺らしながら、僕の枕を抱えて無気力に寝そべった。
自分がいつも使っている枕に押しつけられて変形する胸を見て、僕は喉を鳴らした。
しかし、虚空を見つめながら「私……どうしたら……」なんて呟いている彼女を見ると、この状況はサキュバスにとって存在意義の崩壊に近いのかもしれないと、認識を新たにする。
それから僕はベッドの端に腰かけて、口を開いた。
「たぶんEDってやつなんだと思う」
「なにそれ……?」
反応した彼女に、ブラウザを開いた携帯電話を手渡す。
しばらくの間、黙ってタッチパネルをスライドしていたサキュバスだったが、最後まで読み終えると、少しだけ目に輝きを取り戻して、起き上がった。
「つまり、クソ童貞すぎて刺激が強すぎるってこと?」
そんなわかりやすすぎる要約は求めていない。
けれど、概ねその通り。
「ところで、サキュバスの契約は、その、できなかった場合どうなるんだ?」
「性行為が完遂するまでは契約が解かれずに、そばにいることになるわ」
ということは、治るまで……。
そこまで話したところで彼女もピンときたようで、苦々しげな表情を作った。
「えぇ、ええ。いいでしょう。サキュバスであるこの私があんたのポンコツが治るまで世話をしてやりますよ!」
そんなことのために呼んだわけじゃなかったんだけどなあ……。
そう考えたのが顔に出たのか、じろりとにらみつけられる。
「なに、私にお世話されるのが不満だっていうの?」
この淫魔は素に戻ると結構高飛車なたちのようだった。
「一応聞いておくけど、契約が解除される条件とかは……?」
「今回の場合、私とする前に私以外の女性と性行為をした場合は契約が解除されるわ。お相手はいて?」
いるはずがなかった。
なんとなく先が見えたところで、はぁー、と安堵のため息をついて、僕は立ち上がった。
時計を見て、学校に行く準備を始める。
すると、彼女は制服を着る僕を面白そうに見て。
「あなた、高校生?」
「そうだけど」
にっこりと笑った彼女は、細く長いフェミニンな指をパチンと鳴らす。
すると、悪魔じみた彼女の角は消え、少々幼く変わった姿は僕の高校の制服に包まれていた。
「そうね、名前は――リリスとかでいいかな」
「ちょ、ちょっと待て!」
「交換留学生のリリス・キャンディナです。よろしくね?」
僕の不安そのままに、僕の名前と共に『リリス』という名前を呼ぶ声が階下から届いた。
二
突然家に金髪美少女の留学生がやってきて一つ屋根の下で生活する、なんてのは全国の男子高校生が一度はしたことのある妄想だと思うが、それが自分の喚んだサキュバスであることがわかっていて、平常心のまま両親と淫魔とともに朝食を囲むことはとても難しいことだった。
「なーに、暗い顔してんのよ。夢が叶ったくらいの気持ちでしょ、若い男にとっては」
両親は『先週の頭からうちに来ていた交換留学生』という彼女の設定を完全に受け入れていた様子で、にこやかに僕とリリスを学校に送り出した。
毎朝歩く通学路の上、きょろきょろと周囲を見回して、知り合いがいたりしないかを確認する。
「べ、別に……」
夢が叶ったという彼女の言葉は正しいし、この状況自体は嬉しいのだけれど、僕にも事情があった。
端的に言えば、自分の性欲を形にして隣を歩かせているようで、とてつもなく恥ずかしいのだった。
ああ、願わくばアイツにだけは出会いませんように。
「それで、留学生になってどうする気なんだ?」
「EDっていうのは精神的理由が大きいんでしょう? だったら普段の生活から慣らしていけばいずれは治るわけじゃない?」
道理から言えばそうかもしれない。
しかし、それにまつわるもろもろについてはどうするつもりなのか。
「あなたの両親の様子は見たでしょう? 誰も私が留学生だってことを疑う人間もいない。設定は完璧よ」
「そんなものかぁ……?」
カララと軽い音を立てて、教室の引き戸が開く。
遅刻したわけでもないのに、そろそろと様子をうかがいながら中に入っていく。
「おはよう!」
大きな声の挨拶とともに、パッと目の前にクラスメイトの女子が現れて、僕は大きく面食らったが、すぐに、その目線がこちらには向いていないということに気づいた。
後方についてきたリリスが挨拶を返す。
「おはよう。駒場さん」
半年以上同じ部屋で授業を受けてきた僕ですら、一目には出てこなかった名前を彼女が涼しい顔で口にしたことに、僕は目を丸くした。
設定が完璧っていうのはそういうことなのか……。
「リリスちゃん、私のこと覚えててくれたんだ!」
「もう何回もそれ言ってるわよね?」
彼女はすっかりこの一週間をこの教室で過ごしてきたようだった。
美人な上、日本語も上手で、コミュニケーション能力も高い、人気者の留学生。
この分なら僕が心配することはなさそうだった。
自分の役割を悟って、彼女から離れた自分の席に腰を下ろす。
「おはよー!」
と、すぐに前の席から声がかかった。
彼女は安達璃奈――件の幼馴染である。
「お、おはよう……」
ちらりと、リリスの方に目をやりながら、挨拶を返す。
こんなところでちょっかいをかけられたら、面倒なことになりそうな気がしてならない。
「昨日曇ってたのに今日は晴れてよかったねー! 雨降ったら寒くって仕方ないからさあ」
彼女の言葉に心を揺さぶられた。
昨日と聞いて、彼女が先輩と連れ立っていたことを思い出す。
結局はそれがきっかけで、リリスはこの教室にいるのだ。
「どうかしたの?」
「別になんでもないよ。璃奈はあれに混ざらなくていいのか」
「リリスちゃんとは一昨日たくさんしゃべったからねー。今はクラスのみんなに譲ろう」
ずきりと罪悪感で胸が痛んだ。
クラスメイト程度ならともかく、璃奈にすら個人的な関係を作ったというように記憶を捏造させてしまったというのは心苦しかった。
それも、自分の性欲のためにだ。
「璃奈、なんか食べたいものないか? おごってやるぞ」
「なに言ってるの? たっくんが人にご飯おごるお金なんて持ってるはずないでしょ」
「そんなこと――」
あ、そういえば、露店のオッサンに全財産支払ったんだった。
否定もできず、間抜けに固まったまま、始業のチャイムが場を区切った。
***
午前の授業も終えて、昼休み。
母親は留学生が来ている(ということになっている)から見栄を張っているのか、いつもと違って弁当を渡された僕は、弁当を片手に階段を昇った。
解放されていない屋上に続く階段は、人気のない特別棟なんかではよく密会の現場になったりしているのだけれど、教室からの喧騒も届く一般棟にはそれもおらず、穴場になっていた。
一人になりたい時もある。
具体的には自分が喚びだしたサキュバスがクラスの女子と談笑していることを見るのに疲れた時だ。
どこかで余ったのだろう机の端に腰かけて、誰だかわからない石膏像に背をもたれる。
すると、弁当の包みを開くよりも先に、強い眠気が襲ってきた。
教室にいる間はなんとなく緊張してしまって、徹夜であることを忘れていた。
昼休みはお昼寝の時間にしよう、と考えた途端に階下の喧騒はすぅっと遠ざかっていった。
意識が覚醒してすぐには、自分がどこにいるのかわからなかった。
なにか柔らかい枕のようなものに後頭部が包まれていて、とても気持ちがよかった。
枕?
不審に思って目を開けると、金髪を垂らした淫魔の顔があった。
「なっ――!」
叫びを上げかけたところを、真っ白な手で口をふさがれた。しーっともう片方の手が彼女の唇の前で一本指を立てる。
大きく首を縦に振ると、ようやく口の拘束を外してもらえた。
「今、何時だ?」
僕がそう聞くと、彼女は少々不満そうに、今の時間を答えた。
「一時三十分くらいね」
「もう五限始まってるじゃないか!」
「そうよ。だから静かにしてほしかったの」
起き上がろうとすると、リリスは僕の額に手を当てた。それだけで、僕は上体を起こすことが叶わなくなる。
そして、同時に自分の体勢にも気がついた。
「お前、これ……」
「膝枕ってやつね。お気に召したかしら」
「召すも召さないもないだろ。どうしてこうなってるんだ」
「昼休み、あなたがどこかに行ったから探してみたらこんなところで寝てるんだもの。授業が始まったら起こしてあげようと思ってここにいてあげたのよ」
「起こしてないだろう!」
「大きな声は出しちゃダメ」
「……起こしてないだろ」
「小さなことは気にしちゃダメ」
はぁ……、と大きなため息をついた。
授業サボり自体は別にいいのだけど、こんなところにこいつといるのが問題だった。
「こんなことしてどうするつもりなんだよ」
「いつもと違う環境だったら興奮するかなと思って」
「ここでか? ここでするつもりなのか!?」
「ドキドキしない?」
「見つかったらどうするんだよ!」
「見つかるかもしれないのがドキドキするんでしょ?」
「退学になるんじゃないかとビクビクだよ! 教室まで十メートルとないんだぞ!」
今度は向こうがはぁー、と大げさにため息をついて。
「肝っ玉の小さい男ね……。まあそんなんじゃなきゃEDになんかなるわけないか」
言葉の刃がずぶりと刺さった。
そうですよね……据え膳すら食えない男ですもんね……。
「あらら、凹んじゃった? 男らしいという言葉の対極にいるような男ね」
「……うるせえ」
僕は息も絶え絶えにそれだけ言い返すと、どうすることも出来ずに目を閉じた。
そっと、僕の頭になにかが触れる。
慣れた手つきが、安い床屋で切りそろえただけの髪を手で梳くように優しく撫で上げていく。
「当たり前だけど、こんな風に人間といるのは初めてだわ」
リリスが話し始めて、僕は再び目を開けた。
それでも、彼女は撫でることをやめることはなく、どこか寂しそうな顔でこちらを見下ろしていた。
「そうなのか」
「ええ、それは当たり前ね。普通、一晩でコトは終わるもの」
「それは悪かったですね、終わらなくて」
「いいえ、意外と悪くないわ。自分が何者かであれるっていうのは」
彼女が口にした言葉を、その時僕は理解することはできなかった、
僕にできることは、無意識にぎゅっと寄せられた彼女の眉根を見つめて、内心を推し量ることだけ。
こんなにも近く、肌を触れ合わせていても、別にその胸中がわかるわけではなくて、お互いを隔てる血の通った壁の厚さに驚くばかりだった。
そうしているうちに、目が合って、瞳に自分の顔が映る。
静かな空間。
まるで世界に二人しかいないような。
今度は、彼女が目をつむる。
それから、端正な顔がだんだんと近づいて――
「あら、そういう雰囲気じゃなかった?」
その額を僕の手が押しとどめて、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「悪いが、空気は読めない方なんだ」
くすっと軽い笑い声が、空気を塗り替える。
三
それから、ようやく膝枕から解放されて、僕とリリスはその場で五限が終わるまで、他愛のない話をして時間を潰した。
毎日どんなことしているのかとか、クラスでの人間関係だとかそういったことを話すと、代わりに、彼女は今までに出会った面白い男の話をしてくれた。
チャイムが鳴ると教室に戻り、残りの授業を受けた。すべてを終えると、僕らは自然に肩を並べて帰路についた。
昇降口を抜けて、校舎から出たところで、後ろから声がかけられる。
「たっくん、リリスちゃん、お疲れー!」
挨拶の言葉とともに追いついて、隣に並んだのは璃奈だった。
そういえば、今日一日を通して彼女らが一度も言葉を交わしているのを見るのは初めてだ。
一昨日以前に話したという記憶はあるようだけれど、大丈夫だろうか。
「お疲れ、璃奈」
とはいえ、リリスは涼しげに挨拶を返した上、さらに自分から話を振った。
「そういえば璃奈、一昨日はありがとうね。いろいろと案内してくれて」
「ううん、せっかく日本まで来てくれたんだもの。歓迎するに決まってるよ!」
僕を間に挟んで談笑する二人の会話はスムーズで、どうやら心配するほどのことでもなかったようだった。
それにしても、リリスを喚んだのは昨夜のことなのに、こうして会話が成立しているということは改めてすごいことだ。
設定は完璧に、記憶を再構築している。
それじゃあ――昨日のことはどうなっているんだろうか。
璃奈が、男と連れ立って歩いていた情景を思い返すだけで、ひゅんとピンポン玉サイズまで縮こまってしまいたくなる。
本当に小さい男だった。
視界の端に彼女が映って、喉元がキリキリと締め付けられるようで、僕は言葉をこぼしてしまった。
「璃奈……」
「なに?」
彼女はいつも通りに、毎日そうしていたように、呼ばれた名前に返事をする。
そのなんでもなさにつられて、続けて話してしまいそうになる。
「昨日――」
とそこまでいって、口を閉じた。
そんなことを聞いて、僕はどうするつもりなんだ。
返答が如何であったとしても、僕がそれを素直に受け止められるわけもない。
「いや、ごめん。なんでもない」
そういうと璃奈は僕の背中をバン、と叩いて、息が詰まった。
「どうしたのさ、暗い顔しちゃって」
そうやってスキンシップの軽いやつだから勘違いする野郎が生まれるんだぜ、なんて心のなかでつぶやくけれど、とても口にはできなかった。
いくらか歩いて、学校から家の近所に近づくにつれて、璃奈はそわそわと落ち着きのない様子を見せていた。
三人で話していたとしても、タイミングによって談笑が途切れることはままあって、その度に彼女はなにかを切り出そうとしていた。
そして、住宅街に入り、お別れの地点が見えてきたころ、指折り数えて何度目かの空白に彼女はついに意を決したように口を開いた。
「そ、そういえば……今日さ、五限の間どこに行ってたの?」
つまりは、璃奈がわざわざ帰り道追いかけてきたことの本題ということなのだろう。
もしかしたら、リリスが作り出した記憶では毎日一緒に帰っているのかもしれないけれど。
僕がどう答えたものかと思案した隙に、リリスが答えてしまった。
「彼は、寝ていたわね」
「ね、寝てた?」
「ええ、私が見ている下でグーグーと気持ちよさそうに寝ていたわ」
「へぇ。って……下?」
彼女たちの会話がまずい方向に進んでいるような気がして話の方向をそらす。
「昨日は徹夜だったんだよ。だから昼休みに静かなところで寝てたら、五限までに起きれなかったんだ」
「昼休みからずっと寝てたってバカでしょ……。もう、徹夜してなにやってたの?」
すると、たった今僕がやったように、今度はリリスが口を挟んでくる。
「彼は、昨夜私の相手をしてくれたのよ」
「相手って、なんの相手?」
「それはもちろん夜のお相手よ」
再び、僕は話に入りこもうとして「お、おい!」と声をかけたものの、リリスも、それに引き込まれた璃奈も、聞くことはなかった。
「夜、の?」
「ええ。男と女が一つ屋根の下、夜になると自然に行うことね」
青ざめた顔で、璃奈がこちらを見る。
おかしそうに眼孔を細める淫魔が、純粋な幼馴染をからかっているのを見ていられなくて、僕は大きな声で適当な言を口走った。
「璃奈、夜のぷよぷよ大会だ!」
「よ、夜のぷよぷよ?」
「そうだ。夜中にこいつがやりたがって、朝まで付き合わされたんだ」
「夜のぷよぷよは、いったいどのあたりをぷよぷよするの……?」
「落ち着け、『夜のぷよぷよ』という単語はない」
「リリスちゃんはいろんなところがぷよぷよできそうだもんね……」
「どこもぷよぷよしないからな」
混乱した璃奈は僕とリリスの顔を交互に見て、最後にこちらを思い切りにらみつけたのち、
「お幸せに~~~~!!」
と叫びながら走り去っていってしまった。
彼女の勢いに気圧されるままに、僕はそれを見送るしかなかった。
「行っちゃったわね」
見れば、この状況の原因を作ったリリスは先ほどまでの悪魔然とした雰囲気を収め、空気を緩ませていた。
詰るような気持ちで真意を問う。
「どういうつもりだよ……」
「あら、なにかしたかしら?」
「あんなこと言う必要はなかっただろ」
「…………」
すると、彼女は急激に機嫌を傾けて、イライラとしたような様子で黙りこくった。
あからさまにムッとした顔のリリスだったがこっちにだって言い分はあった。
「なんとか言えよ」
僕が詰問すると、そっぽを向いて素知らぬポーズ。
また眉根をぎゅっと寄せて、今度は唇を膨らませて、立腹の様子だった。
「おい」
さらに言うと、リリスは大きな目でキッとこちらを強くにらみつけて、つっけんどんに言った。
「自分のものが他人に荒らされそうになったら、気に食わないのはわからない?」
「どういうことだよ。サキュバスにも独占欲があるのか?」
「そうね、あなたとはすこしばかり長い付き合いになりそうだから、勘違いの無いように先に言っておくわ」
有無を言わせない強い口調で、彼女は続けた。
「私たちにとって吸精とは食事、そして狩りよ。つまりあなたたちは餌で、私たちは捕食者。自分が捕まえた餌が薄汚いハイエナに横取りされそうになれば、追い払うのは当然でしょう?」
それは、より露悪的に、あるいはもしかしたら偽悪的に言葉を紡いだのかもしれなかった。けれど、例えそうであっても、そんな言葉を許すわけにはいかなかった。
「お前っ……!」
頭に血が上って、荒い声が口から飛び出る。相手が少女の姿でなければ、胸倉をつかんでいただろう。
自分よりも頭半分大きな男から怒鳴りつけられたにもかかわらず、彼女は挑発的な態度を崩さなかった。
「餌呼ばわりは不満? 所詮はあなたと私の関係はその程度でしかないのよ」
「そうじゃない!」
人気のない住宅街の中で、僕の声は良く響いた。
反響した喚声が耳まで届いたことで、逆に、少し頭が冷える。
「は?」
彼女はまるで意味がわからないといったように反問した。
「餌呼ばわりだろうが定食扱いだろうが別にいいさ。結局僕と君は魂を渡す代わりにやらせてもらう、ってそういう一回こっきりの契約でつながっているに過ぎない」
僕の言葉が彼女の中でどんな風に咀嚼されたのか、リリスは元から大きい目をさらに大きく見開いた。
しかし、それを見て、僕が口を止めることはなかった。
「だけど、自分の幼馴染をハイエナなんて呼ばれるのは、気に食わない」
「…………っ!」
より歯噛みするような、悔しげな表情で僕を見上げた。
「な、なあ」
理解できたのかと催促する僕のその問いは傲慢だったろう。それでも問わずにはいられないほどに、彼女の表情は、虚無に満ちていた。
「うるさいっ!」
かき乱された感情を最後の理性に任せて、彼女は叫び、目をそらすように踵を返し、走り去っていった。
それを引き留めることもせず、追いかけることもせず、間抜けに立ち尽くしていた男は、他でもない――僕だった。
四
一人家路を歩き、帰り着いた先に、彼女はいなかった。
学校指定のローファーだけは、玄関先に脱ぎ散らかされていたから、家のどこかに入るはずなのだけれど、一通り家中の部屋を覗いてみてもその姿は見えないままだった。
半ばあきらめて、自室に戻る。
当たり前に今朝家を出た時そのままの部屋で、制服のままベッドに腰かけた。
机の上に開かれたままの魔導書や脱いだままの寝巻きに目を向ければ、どうやら、彼女を召喚したのはほんの昨晩のことらしかった。
「それじゃあ、どうしようもないよな……」
なにが足りなかったとか、どうすればよかったということはなくて、ただただどうしようもない。
僕が知っているのは、三十七度の体温と、すこしの言葉だけだから。
端的な結論は僕に少しの安心感を与え、代わりにいくらかの脱力感を置いていった。
肩の力は抜けて、足の力も抜ける。
今時の若者らしく、ごろりとベッドに横になって携帯を取り出した。
電源ボタンを押してロックを外すと、画面に映るのは今朝ここで開いたブラウザそのまま。
「ははっ」
笑い声を立てて、僕はベッドに寝転がったまま、さらにそれを読み進めていった。
目を覚ませば、部屋は真っ暗になっていて、僕は自分が眠りに落ちていたことに気がついた。
右手には携帯を握ったままで、それをいじっている内に寝落ちてしまっていたようだった。
起き上がると、ぱさっと上半身にかけられていた毛布が落ちる。
暖房もかけていなかった部屋はすっかり冷え込んでいて、しかし、自分でそんなものに包まった覚えは全くなかった。
怪訝な思いを抱えたまま部屋の明かりをつけると、ガタッとクローゼットの中から音がして、思わずそちらに目を向ける。
観音開きのクローゼットはわずかに隙間が空いていて、それが無性に気になった僕はおもむろに歩み寄り、扉を開いた。
「なにやってんだよ」
クローゼットの中、コートやシャツが吊られた下に、制服のまま膝を抱えたサキュバスが座り込んでいた。
彼女は、こちらを少しだけ見上げて眩しさに目を細める。それから、すぐにそっぽを向いた。
「帰ってきてからずっとそこにいたのかよ」
そう訊いても、彼女はなにも答えなかった。
でも、間違っていたら否定はするだろう、と勝手に結論づける。
「毛布もお前か?」
黙ったままこちらを一目見て、なんの気ないようなふりをした彼女の目を見て、僕は「ありがとうな」と言葉を投げかけた。
間違っているかもしれないけれど、言うだけ言ってやる。
最初があれなんだからもう恥もなにもない、そう自分にも言い聞かせる。
僕の声が届いて、彼女は小さな声で返事をした。
「バカじゃないの」
それだけで僕は満足して、にやりと口角を上げる。
調子に乗って、もう思ったことは全部言ってしまえ、と僕は彼女の名前を呼んだ。
「なあ、リリス」
ぽつりと、言葉が返ってくる。
「リリス、じゃないわ」
彼女は、まるでコートの隙間からクローゼットの天井を透かし見るように顔を上げた。
もしかしたら、もっと先の、別のものを目に映そうとしていたのか。
「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」
呼び名を否定されたのかと聞き直すが、彼女が質問に答えることはなかった。
「私は、リリスなんかにはなれない。ずっとずっとイヴのまま……」
彼女はちいさく呟いた。
すぐ近くにいたから聞き取ることこそできたものの、僕にその意味を理解することはできなかった。
「なんだって?」
再び聞き返すと、今度こそ彼女は確かにこちらへ目を向けて、ようやく僕たちはしっかりと顔を合わせる。
「なんでもないわ。結局、何の用なのよ」
「人の部屋のクローゼットに座り込んでおいて、何の用とはご挨拶だな」
「契約者のプライバシーを尊重したと言ってちょうだい」
「昼寝は邪魔したのにか」
「それはあなたが――いいえ、なんでもいいわ。なにか用事があったからここを開けたことは確かなんでしょう? それとも毛布のお礼を言うのがご用だったのかしら」
下校時から変わらずつっけんどんな調子で、彼女は突っかかるように話す。
それをわざわざ仲直り、というほどの関係でもないわけだけれど、ギスギスしたままでいるのも居心地が悪い。
「あー、なにを言おうとしていたんだったっけか」
彼女はまたそっぽを向いて、こちらから目をそらした。
まあ、なんでもいいか。
「与太話だから、適当に聞いてもらえればいいんだけど、『ワンフィンガー背中掻き法』って知ってるか?」
「は? なに?」
「『ワンフィンガー背中掻き法』」
「知ってるわけないでしょ……なによそれ」
訝しげにこちらをにらむ。
でも、今はただしゃべるだけだ。
「セックスレスの克服方法の一つとして提唱されている方法論で、その名の通りパートナーと一本指でお互いの背中を掻きあうというものだ」
「そんなことしてなんになるのよ」
「そもそもセックスレスというものは日常的な身体接触がなくなることから起きるんじゃないかっていうのが論の基本なんだ。一緒にテレビを見ることなんかから始まって、爪切り、肩もみ、背中掻きといういくつかの段階を経て実際にことを行うことになる」
長い語りにうんざりしたように、彼女は大きなあくびをして、それから気のない声を発した。
「もしかしたら勘違いしているかもしれないけど、私とあなたは別にセックスレスじゃないわよ」
「そんなことはわかってるさ」
「だったらこの馬鹿げた前置きはいったいどこにつながるわけ?」
僕と彼女は、まだ会ったばかりで、お互いなにも知りやしない。
そんな状態で関係を結ぼうとしたって無理が出てくるのは当たり前のことだった。
「段階を踏むべきじゃないかって話だよ。セックスにしても、人間関係にしてもな」
「…………」
彼女は、僕の言葉を理解しているのか、それともあきれているのか、押し黙ったままだった。
それを気にすることなく、僕は続ける。
「お前もそう思ったから、わざわざ学校に来たんじゃないのか? 人の記憶をいじることができるなら、無理やりするくらいできそうなものだしな」
ただ契約を終わらせることを優先するのではなく、きちんと完遂することを選んだ。
それは結局、段階を踏むことが必要だと知っていたからじゃないか。
「なにが言いたいかってそういうことさ。まだ昨日会ったばかりなんだから、変にギスギスするのもめんどくさいだけだよ。もっと面白いことをしよう」
ここらでずっとしゃべり続けていることがすこし恥ずかしくなって、目線を泳がせる。
「まあとりあえず出て来いよ。腹も減ったし、たぶん下になんかあるだろ」
僕が手を差し伸べると、彼女は意外にも素直に、その手を取った。
手が触れた瞬間、ピクリと一瞬動きを止める。僕は握った手にぐっと力を入れて、クローゼットの中から、彼女を引き出した。
「あ、それともコンビニとか行くか? 金全然ないけど――」
ドンッ。
胸への衝撃とともに、目の前にいた彼女はタックルでも仕掛けるように勢いよく抱き着いてきて、僕は言葉を失う。
相変わらず彼女は黙ったままで、生まれた時からずっと童貞の僕にはこんなときどうしたらいいかわからなかった。
「どうした?」
相手は僕が呼びだした淫魔で、契約と引きかえに寿命の一部を要求する悪魔だ。
それが、こんな『普通の女の子』みたいな――。
いや、そんなことはないか。
改めて考えてみれば彼女は、僕と喧嘩をして、見つからないようにクローゼットに隠れて、居眠りした僕に毛布を掛けてくれたのだ。
そんなもの、もうとっくに『普通の女の子』だっただろう。
……まあ、それを相手にしたとしても、どうすればいいかなんてわからないのだけれど。
そっと腕を上げようとすると、
「触るな!」
大きな声が自分の胸のあたりから起こる。
「じゃ、じゃあどうすればいいんだよ……」
そう訊いても、返事は返ってこない。
自分勝手な態度にちょっとイラッとして、口をへの字にする。
せっかちな僕が再度声をかけようとしたその時、彼女は顔を伏せたまま口を開いた。
「あなた、璃奈のこと好きなんでしょ」
んんぐぅ、と妙な音が喉から鳴った。
「そんなことお前に言ったか……?」
「言われなくたってわかるわ。発情期のセミみたいにわかりやすくアピールしてたしね」
そ、そこまではわかりやすくないだろ……。
あんなのラブソングってレベルじゃないぞ。
「僕が璃奈のことを好きだからってなんだっていうんだよ」
そういうと、彼女はふふっと笑い声をこぼしながら、僕の胸から離れていく。
顔を斜に傾けて、からかうように目を細めた。
「なーに、図星突かれた小学生みたいなこと言ってんのよ」
的確な例えにぐうの音も出ず、奥歯を噛むことしかできない。
その瞬間に、爽やかに微笑む彼女の目尻から一粒の雫が滴り落ちるのを、僕の目はしっかりととらえた。
「お前……!」
慌てて彼女は顔を背けて、目を擦った。
「大したことじゃないわ」
「どっちだったとしてもみんなそういうだろ」
「それはそうね。でも本当に大したことじゃないのよ」
涙交じりになった声で、精一杯に強がりを口にする彼女が淫欲を司るサキュバスであるなんて、誰が信じるだろうか。
僕は不思議と締め付けられるように痛む胸を抱えて、彼女が言葉を続けるのを待った。
「ただ、私が好きになった人は、好きな人がいれば他の女とベッドを共にしても事に至らない、誠実な男だったってだけだから」
その男というのが、僕のことだというのは明らかだった。
そして、彼女の言葉指すものは。
「まさか……本当に?」
まるで、玉砕覚悟で告白を決行した女子高生のように、めそめそと泣きたいのを我慢して、ぎゅっとこらえていることがありありとわかった。
再び目が合って、次の瞬間、彼女の姿は出会った時のような、羊の角を持った悪魔の姿に戻る。
「『リリス』っていうのはね、男の下になることを拒み、別れた、アダムの最初の妻の名だといわれているの」
彼女が語りだしたのは、自分のこと。
僕と彼女の間にあって、それが原因で悩んだり、羨んだり、泣いたりしてしまう類のもの
「人間の中で私たちは、理想であり偶像よ。究極の客体として常に『相手』としてしか存在できない。鬱屈した欲望を満たす夢、あるいは一晩にして彼の元を去る幻想。あなたたちの前で、私は『イヴ』であり続け、『リリス』となることは叶わない」
僕は、悲痛とも取れる彼女の吐露を前にして、なにかを言ってやりたかった。けれど、人の感情の触れることの少なかった僕には、海にこぼした一滴のコーヒーを取り戻すくらいにむずかしいことだった。
「いいの。これは私が勝手に言っているだけのことだから。最初からそうだったし、これからもそう。これは、たった一度の偶然を前に叶わない夢を見た、愚かな悪魔の最後のあいさつよ」
「え……最後って!」
別れを切り出した彼女に、僕の胸は大きく跳ねる。
しょうがないやつだとばかりに、彼女はため息をついた。
「あなたが璃奈のことを好きなように、彼女もあなたに恋をしているわ。最初から、私を呼ぶ必要なんてなかったのよ」
「そんなこと、なんでわかるんだよ」
「わからないわけないわ。私は淫欲の悪魔――サキュバスよ?」
「でも、アイツは先輩と……」
「あれは部活に必要な買い出しだったのよ」
僕は、黙るしかなかった。
記憶をいじって、会話を成立させていた彼女の言葉が間違っているとは思いにくい。
彼女に告げられたことは、すべて僕にとって朗報でしかなかったのに、どういうわけか彼女がいなくならなくて済む理由を探す自分がいた。
僕の望みは叶えられて、すべて丸く収まるのに、それが間違っていることを望んでしまっていた。
「でも、契約は……!」
「最初に、言ったでしょう」
そうだ。契約解除の条件は『彼女以外の女性とセックスをすること』。
まさか、当てができるなんて思いもしなかった。
「もっと喜びなさい。あなたは片思いの相手が自分のことを好きなことがわかって、望み通り童貞で死ぬことはなくなるのよ?」
それでも、どういうわけか、彼女がいなくなってしまうことが嫌だった。
やらないのがもったいないから?
美少女との共同生活を続けたいから?
違う。
もしそうだったならば、僕と彼女の関係は始まりすらしなかっただろう。
ようやく始まって、もっと仲良くなれそうだったというのもあるかもしれない。こうやって話が始まったのは、関係を続けたいからだ。
もっと、決定的な――
「だって、僕はまだお前になにも返せていない! わざわざ呼びだして、苦労をかけて、僕の望みを叶えてくれたのに、それで『はい、終わり』になんかできるわけないだろ!」
それが、理由だった。
きっとそうだと思うしかない。人間の気持ちはあいまいで、確かなことなんてないから。
それでも、その感情は僕の理性にかっちりと嵌った。
「ほんと、バカね」
僕の叫びを聞いた彼女は、真正面に立ってまっすぐに僕をその碧色の瞳に映しながら、囁いた。
それから、ゆっくりと、艶めかしい動きで僕の首に腕を回して、ぎゅっと絡める。
「そうやって、私を対等に見てくれることが、私を『リリス』にしてくれる。それは私にとって、最高の贈り物なんだから、十分返してもらってるわ」
終わった、という感じがした。
僕と彼女の間にあったものすべてにチェックマークがつけられて、ToDoリストが埋められて、もう進むことも戻ることもない。
すっきりとしているようで、どこかに忘れ物をしているような気もする。
最後に、彼女にならって抱擁を交わそうと、腕を上げようとしたところで、つい十数分前にあったように、耳元から声があがった。
「最後に一つ、餞別として教えてあげるわ。恋人のいる男は、女に好かれないように生きること。それは、男が唯一心得ておくこと――義務よ」
「ああ、肝に銘じておくよ」
「例えこんな風に抱き着かれても、あるいは目の前に泣いてる女の子がいても、優しくしたりしちゃ、ダメよ」
それだけ言って、彼女は腕を離した。
彼女の頬には、まだ鮮やかな涙の跡が残っていた。
それを見られていることが恥ずかしかったのか、彼女はふいっとそっぽを向いて、ことさらに明るいトーンで言った。
「さあ、璃奈に電話しなさい」
「え、今からか!?」
「当たり前でしょう。クソ童貞のあなたが今の勢いを使わなくてどうするの。私はいやよ、あなたの意気地なしのせいでここに留まるのなんて」
確かに明日の朝起きて、それから、告白をするなんて芸当が僕にできるとは思えなかった。
彼女のいう通り、毎日勇気がでずにずるずると先延ばしにするのが目に浮かぶようだ。
「わかったよ」
僕は携帯を取り出して、電話帳から璃奈の番号を呼びだす。
コール音がいくつもならないうちに、電話は繋がった。
「たっくん?」「ああ。今、家か?」「うん。どうしたの?」「えっと、ちょっと話があってさ、そっち行ってもいいか?」「い、今から?」「うん。あ、嫌なら、もちろんいいんだけど」「ううん。大丈夫」「じゃあ、すぐ行くな」「わかった。玄関のとこで待ってるね」「りょうかい」
時間にして、三分もなかっただろうけれど、僕の心臓はバクバクと鼓動を増すばかりで、あと数分電話が続いていたら、胸骨を突き破っていたんじゃないかと思うほどだった。
「じゃあ、これでお別れね」
いつの間にか僕のベッドに腰かけていた彼女が、平坦な声で終わりの始まりを告げた。
「まあ、うまくいけば、な」
「それは保証するわ。サキュバスのお墨付きよ」
「あとは、そこまで行けば、か」
「それに、愚息が立ってくれるか、ね?」
「そこまで心配しなきゃいけないのか……」
冗談めかして、僕たちは二人で声を立てて笑いあった。
それから、ベッドの上に座った彼女に背を向けて、僕は部屋の外へと足を向ける。
扉の前、ドアノブに手をかけて、僕は立ち止まった。
背後から声がかかる。
「これが最後になることを祈ってるわ」
「ああ」
「さようなら」
「さようなら。ありがとう」
それだけ言って、僕は扉を開き、一歩踏み出そうとした。
ただ、なにか、もう一言だけ。
必要な気がして。
「ごめん」
彼女はそれを予想していたように答えた。
「いいのよ」
そうして、僕は廊下に一歩踏み出す。
ひとりごとのように、彼女はさらにもう一言だけ呟いた。
けれど、僕は聞こえなかったふりをして、階段を降りて行く。
***
暗い部屋。
ベッドの上。
湿った暖かい空気とシーツに包まれて、興奮の後の静寂の中、僕は璃奈と共にいた。
「なあ、璃奈」
「なあに?」
「僕の家の交換留学生、知ってるか?」
ほんの数センチ先にある彼女に向かって、囁くように、そう訊いた。
返事はすぐに返ってくる。
「なにそれ、そんなの来てたの?」
答えは、予想した通りのもので。
当たり前に、当然に、僕の日常は元通りになっていた。
少しだけ心に隙間が空いたような気持ちになって、僕は寝がえりを打ち、天井を見上げる。
「まあ、いないんだけどな」
「そりゃそうか。なにいきなり嘘ついてるの?」
僕の恋人は、訝しむように問うたが、僕はそれに答える気にはならなかった。
ああ、本当に、消えてしまったんだな。
あんな簡単に現れて、こんな嘘みたいにいなくなってしまうなんて。
僕の望みは叶って、いいや、彼女に叶えてもらったのに、僕はなにも返すことができなかった。
こうして僕だけが彼女のことを覚えておくこと、それが一つの慰めになったらいい、そう思う。
彼女の、最後の言葉が頭を過った。
「初恋は、実らないっていうでしょう?」